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ホロドモール

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ホロドモールによってポルタヴァ州で餓死している子供。

ホロドモールウクライナ語:Голодомор[1]英語:Holodomor, Famine Genocide, Ukrainian Genocide)は1932年から1933年にかけてソビエト連邦ウクライナウクライナ人が居住するその他の地域でおきた人為的な大飢饉である。

この大飢饉が当時のソ連の指導者ヨシフ・スターリンによる計画的な飢餓ではないかとする議論が長年続いていたが、2006年ウクライナ議会は、「ウクライナ人に対するジェノサイド」であると認定した[2]。また、米英など西側諸国においても同様の見解が示されている[3]

アルメニア人の大虐殺、ユダヤ人のホロコースト、日本人の原爆と並んで20世紀の最大の悲劇の一つである。[要出典]エラー: タグの中に無用な文字が含まれていないか、{{要出典範囲}}と{{要出典}}を間違えていないかを確認してください。貼り付け年月は「date=yyyy年m月」、チップテキストに表示する文字列は「title=文字列」と指定してください。

概要

ハルキウ州の「プロリタリア革命の波」というコルホーズからのパンの強制収集。
ホロドモールによる餓死者と言われる写真。群集が集まる中、路上に放置されている。
ファイル:HolodomorKyiv.jpg
キエフのムィハイロ広場でのホロドモールの慰霊碑。
多くの離散ウクライナ人が身を寄せたウィニペグでのホロドモールの慰霊碑。

ウクライナでは1919年ウクライナ社会主義ソビエト共和国の成立を経て、1922年にはロシア・ソビエト連邦社会主義共和国白ロシア・ソビエト社会主義共和国とともにソビエト連邦を構成した。当初はウクライナ政府にもある程度の意思決定権が与えられていたが、それは徐々に制限されるようになり、結局ソ連の結成によりまたもやウクライナの独立は失われることとなった。ロシアにとってウクライナはすべての産業の中心地であり、手放すわけにはいかなかった。

1930年代初め頃には農業集団化は当初自発的に行われていたが、次第に強制的なものになっていった。ソ連のOGPUは、ウクライナ民族主義者、ウクライナ人の知識人、集団化政策への反対者、そして共産党政権にとって脅威であると見なした者は容赦なく抹殺した。豊かな土壌に恵まれたウクライナではあるが、課せられた収穫高の達成は困難で、更に当局による厳しい食料調達に耐えられず、不満を表明する動きが現われた。また、農村部は民族主義者達の溜まり場であるとして目をつけられていた。

真っ先に教育のある地方エリートが攻撃目標となり、何百人もの作家や学者たちが自白を強要され、監獄や収容所へ送られた。独立ウクライナ正教会の関係者も同様に弾圧の対象となった。当局の政策を批判したかどで100万人のウクライナ人が粛清され、数百万人がシベリアタイガでの森林伐採、極寒地での白海・バルト海運河建設の為に連れ去られたという。

スタニッツァ・ボルタフスカヤという人口4万人の村は、食料調達に応じる事が出来ず、村の住民が丸ごと追い立てられ、男性は白海・バルト海運河建設へ、女性はウラルのステップ地帯に送られ、離散を余儀なくされた。

集団化政策の強行は減産を招き、割高を提出すると農民達には食料が残らなかった。更に、数々の条例が制定された。パンの取引や調達不達成、穂を刈ると10年の刑を課せられた。1933年春には、オート麦や、ふだん草といった飼料を「悪用」すると「10年は強制収容所へ送られる」と言われた。1932年12月27日、国内パスポート制が実施され、農民達は農奴さながら村や集団農場に縛り付けられた。ウクライナの国境は封鎖され、自由な出入りは許されず、首尾よく脱出してパンを持ち帰った農民達もその場でパンを没収された。

都市から派遣された労働者や党メンバーから成るオルグ団は空中パトロールで畑を監視し、農場にはコムソモールのメンバーが見張りに送り込まれ、肉親を告発すれば子供にも食物や衣類やメダルが与えられた。党の活動家達は、家々を回り、食卓から焼いたパンを、ポットからお粥までも奪っていったと言われる。食料を没収された農民達はジャガイモで飢えをしのぎ、鳥や犬や猫、どんぐりやイラ草まで食べた。遂に人々は病死した馬や人間の死体を掘り起こして食べるに至り、その結果多数の人間が病死した。通りには死体が転がり、所々に山積みされ、死臭が漂っていた。取り締まりや死体処理作業の為都市から人が送り込まれたものの、逃げ帰る者も多かった。誘拐を恐れて子供達を戸外へ出さなかった。形ばかりの診療にあたった医師達には、「飢え」という言葉を使う事が禁じられ、診断書には婉曲的な表現が用いられた。困り果てた農民達が村ソビエトに陳情に行っても「隠しているパンでも食べていろ」と言われるだけだった。

ソ連政府が飢餓の事実を認める事は、ウクライナ農民に譲歩するということであった。しかし、5ヵ年計画の成功を宣伝し、外交的承認を得ようとしていたソ連としては飢饉を認めるわけにはいかなかった。国際政治の場での名誉失墜は避けねばならなかったのである。当時ソ連に招かれていたバーナード・ショウH・G・ウェルズニューヨーク・タイムズ記者のウォルター・デュランティWalter Duranty)等は、「模範的な運営が成されている農村」を見せられ、当局の望み通りの視察報告を行っただけであった。一方、英国カナダスイスオランダ等各国及び国際連盟や国際赤十字を通じて、ウクライナ飢饉に手を打つようソ連政府に要請が行われた。しかしソ連政府は頑として飢饉の存在を認めず、「存在しない飢饉への救済は不要」という一点張りだった。

結局、ソ連政府が一連の飢餓の事実を認めるのは、1980年代まで待たなければならなかった。

飢餓による餓死者の総数に関しては未だ議論が続いている。学説によると死者数は250万から1000万人までだったと推測される[4]

ホロドモールの承認

ホロドモールをジェノサイドとして承認している諸国(青)。

ジェノサイドとして

人道に対する罪として

地域

団体

ジェノサイドとして

人道に対する罪として

関連項目

  1. ^ 「ホロドモール」とは、「飢饉」(ホロド)で「苦死」(モール)させることを意味している。
  2. ^ (ウクライナ語) ウクライナにおける1932年‐1933年のホロドモールに関する法律(ウクライナ)
  3. ^ (ウクライナ語) ウクライナ大統領の公式サイト。ホロドモールの国際的承認 [1]。2009年1月12日。
  4. ^ (英語) Shelton, Dinah. Encyclopedia of Genocide and Crimes Against Humanity. Macmillan Library Reference, 2004. pp. 1059. ISBN 0028658507
  5. ^ 「ジェノサイド」としての承認はスペイン社会労働党の反対によって退けられた。
  6. ^ a b c ロシア側の強い反発により「ジェノサイド」としての承認は却下された。

参考文献

  • (日本語) 『悲しみの収穫 ウクライナ大飢饉-スターリンの農業集団化と飢饉テロ-』/ ロバート・コンクエスト著(白石治朗訳)、東京:恵雅堂出版、2007年 ISBN 978-4-87430-033-6
  • (日本語) 『ポーランド・ウクライナ・バルト史 』/ 伊東孝之、井内敏夫、中井和夫著 (新版世界各国史 ; 20) 、東京:山川出版社、1998年.P.318-321. ISBN 978-4634415003
  • (英語) Shelton, Dinah. Encyclopedia of Genocide and Crimes Against Humanity. Macmillan Library Reference, 2004. pp. 1059. ISBN 0028658507

外部リンク