コンテンツにスキップ

長慶天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。可怜 (会話 | 投稿記録) による 2009年2月3日 (火) 19:51個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎系譜)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

長慶天皇

在位期間
1368年3月29日 - 1383年10月
元号 正平
建徳
文中
天授
弘和
時代 室町時代南北朝時代
先代 後村上天皇
次代 後亀山天皇

誕生 1343年
崩御 1394年8月27日
陵所 嵯峨東陵
寛成
別称 慶寿院
父親 後村上天皇
母親 藤原勝子
中宮 西園寺公重の娘
子女 行悟
玉川宮
承朝
皇居 吉野山
テンプレートを表示

長慶天皇(ちょうけいてんのう、興国4年/康永2年(1343年) - 応永元年8月1日1394年8月27日、在位:正平23年/応安元年3月11日1368年3月29日) - 弘和3年/永徳3年(1383年)10月)は、南北朝時代の第98代、南朝第3代天皇である。諱を寛成(ゆたなり)という。明治44年(1911年)に南朝が正統とされたあとも在位認定はされていなかったが、八代國治の実証学的な文献研究により学術的な正当性をもって在位が確認された(八代が旧南朝の勢力圏であった奈良の旧家から古文書を発掘した)。

系譜

後村上天皇の第一皇子で、母親は藤原勝子(嘉喜門院)である。

略歴

1368年3月11日 後村上天皇の崩御に伴い、南朝の御座所(住吉行宮)の置かれていた大阪住吉住吉大社宮司の津守氏の館(住之江殿、正印殿)で即位したとされる。

南朝は北畠親房ら指導的人物を失って弱体化しており、後村上天皇時代には北朝との和睦交渉が行われていたが、長慶天皇の代には交渉が途絶えており、また南朝方の武将である楠木正儀が北朝へ帰服している事などから、北朝に対して強硬派の人物であったとも考えられている。1383年10月朝要分免除の綸旨を出してから間もなく(1384年説あり)、弟の後亀山天皇に譲位したと言われており、南朝は再び北朝との和睦交渉をはじめる。南北朝合一後の動静は不明で、京都へは入らなかったという説と、皇子の海門承朝が止住した天竜寺塔頭慶寿院で晩年を過ごしたという説がある。1394年8月1日に崩御、享年は52か。

書や詩歌を行い、源氏物語の注釈書である『仙源抄』や、詩歌多数を残している。

即位の事実は疑問視されており、江戸時代ころから議論がされていた。明治以降に実証的研究がなされ、大正時代には『長慶天皇御即位の研究』などが刊行される。1926年(大正15年)10月には詔書が出され、正式に98代天皇として皇統に加えられ、陵墓も指定された。

東北までに至る各地に長慶天皇潜幸伝説が残っており、南部煎餅の祖とする伝承もある。

諡号・追号・異名

長慶院慶寿院と呼ばれていた。

在位中の元号

陵墓・霊廟・遺物

嵯峨東陵

京都市右京区嵯峨天竜寺角倉町に所在する嵯峨東陵(さがのひがしのみささぎ)。天皇の晩年を伝える資料は伝えられておらず、宮内省(当時)が近畿各地の寺社旧家や、有力な伝説地などの調査を行なったが陵墓に関わる資料は発見に至らなかった。しかし天皇の皇子など近親者が晩年は地方を引き上げ入洛していることから天皇も晩年は入洛したことが推定され、また、皇子の海門承朝(承朝王・相国寺三十世)が止住した天竜寺塔頭慶寿院に由来して「慶寿院」と称したことから天皇もこの地で晩年を過ごし(当時天皇はその在所によって称された)、崩後はその供養所であったと思われる。したがって慶寿院の跡地が天皇にとって最も由緒深い所と考えられた。臨時陵墓調査委員会(1935年1944年)で審議の結果、桓武天皇陵安徳天皇陵など埋葬地以外が陵に治定されている前例を踏まえ、その跡地を整備、陵墓参考地に指定されたのち1944年2月11日(旧紀元節)に陵号を定め、同時に域内に皇子の海門承朝の墓も定められた。 しかし、他にも「長慶天皇墓」と称する陵墓も全国各地に点在しており、青森県川上村奈良県)、太田市群馬県)、二戸市岩手県)など20ヶ所に及ぶとも言われている。

また、国宝「赤糸威鎧 兜、大袖付」(八戸市櫛引八幡宮所蔵)は、長慶天皇御料と伝えられている。

元中2年(1384)9月10日には高野山に「長慶天皇宸筆御立願文」(国宝、金剛峯寺蔵)を納めている。これには、「太上天皇寛成」の宸筆署名がしたためられている。

脚注

  1. ^ 吹上本帝王系図』の巻末付紙に、寛成の子の行悟について「御母女院公重公女」とあることに拠る。
  2. ^ 『勧修寺長吏次第』。

関連項目




先代
後村上天皇
天皇
第98代: 1368-1383
次代
後亀山天皇