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モーリタニア (客船・初代)

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船歴
船籍 イギリス国旗イギリス
所有 キュナード・ライン
建造 スワン・ハンター造船所
起工 1904年
進水 1906年9月20日
就航 1907年11月16日
その後 1935年にスクラップ
性能諸元
総トン数 31,938トン
全長 790フィート(240.8m)
全幅 88フィート(26.8m)
機関 パーソンズ型蒸気タービン
(高圧タービン2基、低圧タービン2基)
68,000馬力シャフト
4枚羽スクリュー
速力 26ノット(48km/h)
最高速力28ノット
乗客定員 2165名
1等客 563名
2等客 464名
3等客 1138名
乗務員 802名

モーリタニアRMS Mauretania、通称Maury)は、ルシタニアの姉妹船で、スワン・ハンター造船所で建造されたオーシャン・ライナーである。1906年9月20日に進水し、後に世界最大・最速の客船となった。

特に注目に値する点は当時まだ開発段階であった蒸気タービンを姉妹船ルシタニアと共に採用したことで、このことは、後に大西洋定期船のデザインに大きな影響を及ぼすこととなる。モーリタニアはその豪華さ・速度・安全性から乗客に好評であった。

モーリタニアの船名の由来はローマ属州の1つであったマウレタニアMauretania)であるが、後に使用され始めたモーリタニアMauritania)へは改名しなかった。ちなみに、姉妹船ルシタニアの船名の由来は同じくローマ属州であったルシタニアLusitania)で、マウレタニアとはジブラルタル海峡を挟んだ反対側に位置する。

初期

モーリタニアの側面図
ポストカード
速力のテストを行うモーリタニア

1897年ドイツの客船カイザー・ヴィルヘルム・デア・グロッセが22ノット(41km/h)を記録しブルーリボン賞を受賞した。これにより、それまで客船カンパニアルカニアによってブルーリボン賞を保持していたキュナード・ラインは、世界最速の証を奪われることとなった。また、アメリカの資産家ジョン・モルガンは、大西洋定期船を運航する海運企業を買収する大規模な計画を立てており、買収候補としてあがっていた企業の中にはキュナード・ラインのライバルである大手企業ホワイト・スター・ラインもあった。これを受けてキュナード・ラインは、イギリス政府の支援のもと、買収などはされず、独立した企業として営業する意思を表した。1903年キュナード・ラインイギリス政府と、2隻の定期船を建造することで合意し、ルシタニアとモーリタニアの計画が発案された。最高速力は24ノット以上とし、イギリス政府は£2,600,000の援助をすることを決定した。但し国家有事の際には武装商船として軍に引き渡すこと、補助金に2.75%の利子をつけて20年以内に返却することを条件とした。

後に補助金の額が上がったこともあり、モーリタニアは1906年に進水した。両船の外見上の違いは通風管の形(モーリタニアが筒状であったのに対しルシタニアはドラム缶のような形をしていた)、全長(モーリタニアが5フィート長かった)である。また、モーリタニアは蒸気タービンが2つ多く付けられており、前方のタービンがルシタニアのものよりも大きかった。これにより、その後のブルーリボン賞はこの2姉妹船が独占することとなり、また、ブルーリボン賞を受賞した船舶で最初に蒸気タービンを採用した船舶であった(しかし後に蒸気タービンは減らされた。)。

モーリタニアは1907年11月16日に処女航海を行い、ジョン・プリットチャード船長(John Pritchard)のもと、リヴァプールを出港した。そして数ヵ月後、モーリタニアは東回り航路で平均速力23.69ノット(43.87km/h)を記録し、ブルーリボン賞を受賞した。また、1909年9月、西回り航路でブルーリボン賞を受賞し、その後20年以上に渡ってその記録を保持している。しかし1910年12月、モーリタニアは故障し、係留所から漂流してマージー川に辿り着き、多大なダメージを受けた。これにより当初予定していたニューヨークへ向かうクリスマスの航海が中止となった。

モーリタニアが使用不能となったためクリスマスの航海は急遽ルシタニアに回され、ルシタニア目的地であるニューヨークへ行っていたジェームズ・チャールズ船長(James Charles)が突然ルシタニアの船長として呼び戻されるという大混乱が発生した。それでも無事にクリスマスの航海は終了した。

また1914年1月26日リヴァプールで作業中だったモーリタニアで、ガスシリンダー6つが爆発し、4名の男性作業員が死亡、蒸気タービン1基が破損するという事故が発生した。

第一次世界大戦

徴用されたモーリタニア

イギリスドイツに正式に宣戦布告した後の1914年8月4日、モーリタニアと3番目の姉妹船にあたるアキタニアは、仮装巡洋艦として徴用されることが検討されたが、船のサイズと燃費が釣り合わないことから、一般の商船として8月11日に復帰した。1915年5月、姉妹船ルシタニアが撃沈されたことを受け、モーリタニアはリヴァプールに抑留された。その影響もあり、モーリタニアは結局軍事輸送船として徴用され、ガリポリの戦いに向け、兵士を輸送する役目を任された。モーリタニアは高速であったため、Uボートに攻撃を受けることはなく、その後1916年1月25日に、アキタニアブリタニックと共に病院船として運航された。6ヵ月後には、カナダ政府の依頼でハリファックスからリヴァプールへ兵士を輸送する輸送船として使用され、アメリカドイツに宣戦布告した1917年には、アメリカ兵も輸送するようになった。これは終戦まで続いた。

客船として復帰

1919年9月21日、モーリタニアは再び客船として復帰した。モーリタニアの航海スケジュールは非常に忙しく、1920年にスケジュールの見直しが行われたが、1921年にEデッキで火災が発生したことを受け、キュナード・ラインは本格的な改修を検討し始めた。モーリタニアはタインドックへ移動させられ、ボイラーは主缶重油専焼へ変えられ、1922年3月に使用され始めた。だが速力などの問題から、1923年サウサンプトンで大規模な改修が行われ、蒸気タービンは廃止された。しかし改修の途中でストライキが起こりモーリタニアの工事がストップしたため、キュナード・ラインはモーリタニアをシェルブールまで曳航し、工事は別の造船所で再開された。何とか工事を終えたモーリタニアは、1924年5月に大西洋での運航を再開した。

2等船客の喫煙室
白色塗装されたモーリタニア

1928年、モーリタニアの内装は新しいデザインへと変更されたが、その翌年、ドイツの客船ブレーメンが平均速度28ノット(52km/h)を記録し、22年間保持してきたブルーリボン賞を奪われた。このことについて8月27日キュナード・ラインは、再びブルーリボン賞に挑戦するようなことはしないと発表した。モーリタニアは改装で、十分な馬力のあるエンジンを搭載していたが、それでもブレーメンを追い越すのには力不足であり、また、革新的な次世代な客船にモーリタニアで挑むのには無理がある、との判断だった。こうしてモーリタニアはブレーメンに挑むことなく西回り航路、東回り航路の両方を奪われることとなった。

1929年、モーリタニアはロビンズ暗礁付近で鉄道連絡船と衝突したが、両船共に怪我人、死者は出ず、双方の損傷もそれほどひどいものではなかった。1930年頃から始まった世界恐慌の影響で大西洋定期船からクルーズ客船に転用され、1934年ホワイト・スター・ラインキュナード・ラインが合併し、オリンピックマジェスティックなどの客船が就航したことによってモーリタニアはあまり使用されなくなっていった。

引退

解体ドックに移されたモーリタニア(右)とオリンピック(左)

モーリタニアはキュナード・ラインによって1934年9月ニューヨークからサウサンプトンへ向けて最後の大西洋横断を行った。この航海では平均速力24ノットを記録し(これはモーリタニアの計画時に定められた速力である。)、長年モーリタニアが担当していたこの航路はオリンピックが代わることとなった。こうしてモーリタニアは28年間に渡るキュナード・ラインでの運航を終えることとなった。

1935年5月、モーリタニアの内装の一部がオークションにかけられ、同年7月1日、モーリタニアはサウサンプトンを出港し、T・W・ワード解体業のもとに輸送された。この時の船長はアーサー・ロストロン(Arthur Rostron)である(ロストロンはタイタニックの生存者を救助したカルパチアの船長としても知られており、以前モーリタニアの船長を務めたこともある。)。だがロストロン船長は、以前搭乗したモーリタニアを解体業者に送り込むのを拒み、乗船を拒否した。

モーリタニアは航行中に自身を造った造船所が存在するタインアンドウィア州に寄港し、ニューカッスル・アポイン・タイン市の住民に見送られながらブラウン船長(A.T. Brown)のもと、再び出航した。モーリタニアはフォース橋の下を通過し(橋にぶつかるためマストをカットした。)、無事解体業者のもとに届けられた。

歴史あるモーリタニアの解体に際してはファンからの根強い反対の声があり、大統領であったフランクリン・ルーズベルトまでもが抗議の手紙を送りつけたと言われている。

内装

オークションにかけられた内装の一部であるバー・レストランは、ブリストルモーリタニア・パブリック・ハウスに移設され、ブリストルのパーク通りで営業しており、付近にはブリストル大学などが位置している。このバーはマホガニー材でできており、1等船客用の図書館も隣接している。このバーには入り口に「モーリタニア(Mauretania)」のネオンサインが使用されている。また、別の1等客用の船室が、ロンドンパインウッド・スタジオ(映画製作会社)で使用された。

モーリタニアを元にしたテーマ曲"Firing the Mauretania"が存在し、この歌詞の途中で1924年に石炭を使用していたという部分があったが(実際はすでに重油専焼に改装していたためこれはあり得ない。)、別の部分で重油専焼について言及されている。

関連項目

出典

外部リンク

記録
先代
ルシタニア
世界最大の客船
1907年~1911年
次代
オリンピック
ブルーリボン賞 (船舶)(東回り航路)保持船舶
1907年~1929年
次代
ブレーメン
ブルーリボン賞 (船舶)(西回り航路)保持船舶
1909年~1929年