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日本語の乱れ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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日本語の乱れ(にほんごのみだれ)とは、規範とされる日本語標準語国語)と現実の日本語の食い違いを否定的に捉えた語である。食い違いは現実の日本語が変化することでも規範が変化することでも生じうる。乱れは、なくなることもあれば定着することもあるが、その受容の過渡的段階で特に盛んに取りざたされる。 古い時代の日本語は現代以上に激しく変化し続けてきたとし、昨今言われている日本語の乱れというのはやぼなことと考える意見もある[1]。この立場からは「言葉は生き物」などと喩えられる。

日本語の乱れは言語学上の概念ではない。科学人文科学)の一分野である言語学では物事に対して価値判断をしない。言語の実態と文法が一致しない場合、言語学では実態に合わせて文法を修正すべきだと考え、文法に合わせて実態を修正すべきだとは考えない。また規範とされる文法については規範文法と呼んで区別し、その影響などは社会言語学などで研究の対象となる。このような中立の視点からは「文法的におかしい」のような表現は「規範的な日本語と異なる」ことに対する捉え方の一つと解釈する。

ウィキペディアでは、規範的に誤った表現であるものなどは日本語の誤用として、変化が定着したものは日本語の変化として日本語の乱れと便宜上区別しているが、本来三者に明確な境界線を引くことはできない。

概要

日本語の乱れは近年に始まったことではなく、古くは清少納言が作者とされる『枕草子』においても若者の言葉の乱れを嘆いている。

なに事を言ひても、「そのことさせんとす」「いはんとす」「なにせんとす」といふ「と」文字を失ひて、ただ「いはむずる」「里へいでんずる」など言へば、やがていとわろし。(『枕草子』)

一般社会では往々にして憂慮される現象だが、専門家の間には言語は変化するのが当然であり、乱れでなく「変化」であるという意見が多くみられる。実際、上記枕草子に批判される「ムズ(ル)」も中世期に入るとひとつの助動詞として定着していくことになる。

また日本語の乱れは個人の語感によるほかに、日本政府によっても少なからず注意を払われる。政府が言葉の変化に敏感になるのは、国語統制が国民国家における国民統合の上での重要なイデオロギーのひとつであるためでもある。

ただし、政府の姿勢は日本語の変化を即悪いことと考えるようなものではなく、変化を容認することもあれば、積極的に日本語を改造することさえある。例えば、明治38年に政府は『文法上許容すべき事項』を定め当時の書き言葉に現れていた「従来破格又は誤謬と称せられたるもの」の一部を追認した。このとき追認された誤用の多くは現在では誤用とは認識されなくなっている。戦後になって『当用漢字』では漢字数の削減と字体の簡略化を打ち出した。『現代かなづかい』は、それ以前の歴史的仮名遣いと違って、文法や語源に関係なく発音通りに表記することを原則とした。『これからの敬語』では敬語の簡略化を図った。

古くからある表現や文法現象でも日本語の規範が変化することで日本語の乱れとされることがある。例えば、「全然」が否定的意味を持たない語を修飾する表現(例.「その意見は全然正しい」など)は明治時代には広く見られたが、現在では「全然」は否定の表現を伴うべきであるという規範が定着しており、「全然正しい」といった表現は日本語の乱れとみなされることが一般的である。

一方、最近の変化であっても批判なく受け入れられるものもある。例えば、動詞アクセントの起伏化は名詞アクセントの平板化と違いあまり批判されない。

※日本語の変化の一例として指摘すれば、この「日本語の乱れは……注意を払われる」という表現も昔ながらの日本語ではない。「注意を払う」は英語の pay attention の直訳であり昔からある慣用句ではないし、「乱れ」という抽象概念を主語にした表現法も西欧語の直訳から生まれたものである。このような西欧語の直訳のような表現を欧文脈という。

批判

日本語の乱れについての見解例。

  • かつての日本語は地域ごとに方言があり意思疎通に支障があるほどだった。共通語が普及し方言が薄れつつある現代は、かつてバラバラだった日本語が統一されつつあるのだから、「日本語の乱れ」どころか乱れが収まりつつある状況である[2]

文法の「揺れ」に関するもの

ら抜き言葉

「見る」のような上一段活用動詞、「食べる」のような下一段活用動詞、また「来る」のようなカ変動詞の可能表現としてそれぞれ「見れる」「食べれる」「来れる」と綴られるものは、「ら」の文字を含んでいないということから「ら抜き言葉」と呼ばれることがある。

この語法自体は、「左団扇と来(こ)れる様な訳なんだね。」(永井荷風『をさめ髪』1899年)のように明治時代の文献にも観察されるが(松井栄一『国語辞典にない言葉』南雲堂 1983)、第二次世界大戦後には急速に広まった。「ら抜き言葉」という用語が用いられるようになったのは、比較的新しく、1988年の読売新聞社会部『東京ことば』(読売新聞社)では(ら抜き“れる”言葉)の見出しのもと、(「ら」抜きの言葉)(“れる”言葉)などの言い方が使われ、特に(“れる”言葉)が多用されている。また当時は「れる言葉」の発生は「『ら』を抜くことで舌が楽をできるから」と説明されることが多かった。

「ら抜き言葉」は、標準語圏においては口語として若年層を中心に用いられやすくある一方で、それ以外の一部の地域においては正当な活用形として使われている。土佐弁圏、名古屋弁圏、北陸地方、一部の中国地方などにおいてはかなり古くから「れる」と「られる」を区別した動詞化が一般的となっている。

また東北地方などでは能力可能と状況可能において、「れる」系と「られる」系に使い分けるということもなされており、「ら」が抜けたから一概に「誤った日本語である」と考えることはできない。


「ら抜き言葉」の使用は関東地方においては大正期から始まったが、この傾向は国家の教育方針のもとで抑制されてきた。1970年に調査された東京都内の小中学生1539名は、「れる」と「られる」の使用について以下のような比率で分かれた。

  • 見られる - 64.5%
  • 見れる - 9.5%
  • 両方 - 24.1%
  • 来られない - 41.7%
  • 来れない - 10.2%
  • 両方 - 47.5%

(土屋信一「東京語の語法のゆれ」『NHK文研月報』21-9, 1971年)

言語学的には、「ら抜き言葉」の語形は従来から五段動詞に適用されてきた可能動詞化の法則を一段動詞にも適用したものだと解釈でき、この変化の背景には可能表現と受け身表現の形態上の区別がつくようになるという効果があったという説が広く受け入れられている。

こうした言語学的解釈を根拠に、「ら抜き言葉」は日本語を乱すものではなく、むしろ日本語をより合理的な言語体系へと発展させるべく寄与する「機能分化」であるとする議論も一般には見受けられる。 現在においては「ら抜き言葉」を無意識的に用いるものと意識的に用いるものとがある。後者は可能動詞化の法則にまつわる合理性に準拠するかたちで敢えて非慣用的・非伝統的な「ら抜き言葉」を使う者である[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。。彼らは「ら抜き言葉の使用によって、可能表現と受け身表現・自発表現の違いが形態上明確になる」と議論する。すなわち従来標準語圏においては可能・受身自発尊敬といった種々の意味をすべて「られる」という語形で表すことが規定されてきたが、これが表現の曖昧さをもたらしかねないということがここでは問題視されている。 また日常会話においては、特に若年層の間ではら抜き言葉の使用が好まれる傾向にある。


「ら抜き」を「ar抜き」とする意見もある。対象の語の音素をそのようにローマ字で表記すると問題の性格がより明瞭となることが指摘されている。すなわち、五十音表記のみに注目していると、たとえば「書く」「触る」「見る」のそれぞれの活用変化の間の関係について見いだせるものがないが、ここで当の語の音素を構成する子音と母音とを峻別して観察してみると、次のような共通点を確認できるようになる:

「kak-u」(原形)、「sawar-u」(原形)、「mir-u」(原形)
「kak-ar-er-u」(受動、尊敬)、「sawar-ar-er-u」(受動、尊敬)、「mir-ar-er-u」(受動、尊敬)
「kak-er-u」(可能)、「sawar-er-u」(可能)、「mir-er-u」(?)

「書ける」や「触れる」を可能表現として確立させた要素(ar抜き)を「見れる」が所有していることから、これを正当な言語変化として認識できる、ということが主張される。これは更に、動詞の活用にまつわる従来の国学的な解釈にもとづく法則の数々(上一段、下一段、カ行変格など)をより合理的に統一することになる。この場合、「ら抜き言葉」という呼称、またそのような言葉を非文法的として排除する観点そのものが根拠を失うこととなる。

なお、五段活用の「書ける」「読める」のような可能表現も、かつては「書かれる」「読まれる」と受動表現と同じ形が使われたものが「ar抜き」を起こした形であり、通時的に見れば現在は可能表現における「ar抜き」が五段活用から一段活用へも広まりつつある状態ということができる。

参照: 平成12年度「国語に関する世論調査」の結果について<問14>

ら入れ言葉

ら抜き言葉を避けようとするあまり、本来不要な「ら」を付け足してしまうもの。たとえば五段動詞「しゃべる」に対応する可能表現を「しゃべれる」とするのは五段動詞「書く」に対する可能表現を「書ける」とするのと同じくら抜き言葉ではないが、末尾の「れる」がら抜き言葉の語形と共通していることからこれをら抜き言葉と誤認し余分な「ら」を付け足して「しゃべられる」としてしまう場合がそれである。ただし、単に必要な「ら」を入れているものを含めて、ら抜きでない言い方全般を ら入れ言葉と称することもある。

「書くことができる」の意味で「書かれる」という表現も古めかしくはあっても存在するので「しゃべられる」自体は必ずしも誤りではない。普段「書くことができる」を「書ける」でなく「書かれる」と表現する者ならば、「しゃべることができる」を「しゃべれる」でなく「しゃべられる」と表現するのは単に古めかしい言い方であって、ここでいう ら入れ言葉ではない。しかし、「書くことができる」を「書ける」と表現する者が「しゃべれる」だけを殊更に嫌って「しゃべられる」と言い換えたとしたら、ら入れ言葉である。

五段活用の動詞は「ら抜き」に当たることはないと考えればこうした過剰修正は起こらない。五段活用かどうかの判別法としては未然形や命令形を作ってみてその語形を見る方法が指導されることがあるが、ある動詞に対する正しい可能表現をら抜き言葉と錯覚してしまう者は、逆に誤った未然形や命令形を作り出してしまっても正しく作れたように錯覚する恐れもあるので、こうした判別法に頼ることは危険である。辞書を引いて活用種別を確認するのがもっとも確実な方法である。

い抜き言葉

「〜している(してゐる)」のような言葉を「〜してる」と表現するのが「い(ゐ)抜き言葉」である。

実際に話される言葉としては「い」の発音されない傾向にあり、これを反映して文学作品では明治時代から次のような例が見られた。

NHKニュースではアナウンサーは「い」を発音しているが、ニュース字幕にはい抜き言葉が散見されこれに違和感を覚える者もいる。ただしこれは画面内に文字を収めるための省略表記である場合もある。

さ入れ言葉

使役の助動詞は、下記のように使う者が多いことから、五段活用動詞とサ行変格活用動詞の後では「せる」が使われ、上一段活用下一段活用カ行変格活用の動詞の後では「させる」が使われるという規則が見出されてきた。

  • やる(五段) → やら+せる
  • 叩く(五段) → 叩か+せる
  • 降りる(上一段) → 降り+させる
  • 受ける(下一段) → 受け+させる

しかし、一部では、下記のように上一段活用、下一段活用、カ行変格活用の動詞の後でも「させる」を使うことがある。これがいわゆる「さ入れ言葉」である。

  • やる(五段) → やら+させる
  • 叩く(五段) → 叩か+させる

敬語(特に謙譲語)に不慣れな人が、過剰に敬意表現を並べてしまうために使われるのではないか、ということから若い世代に多いと言われる[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。

「ら抜き」は以前から乱れの代表格として指摘されているものの、こちらは2000年代に入ってから取り沙汰されるようになった。特にバラエティ番組「SMAP×SMAP」のコーナー「ビストロSMAP」で中居正広が「(ゲストが注文した料理を)作らせていただきます」と言っているのはおかしいのではないかと新聞に投書が掲載されたことがある。

1967年の映画『クレージーだよ天下無敵』にも「伺わせていただきます」との台詞がある。脚本の田波靖男は1933年の生まれで、すでに故人である。

例:

  • ×やらせていただきます。(正:やらせていただきます、または「する」を使って させていただきます)
  • ×行かせていただきます。(正:行かせていただきます)
  • ×叩かせられる。(正:叩かせられる)

れ足す言葉

ら抜き言葉とは逆に、可能動詞に「れ」を足す言葉がある。1971年12月放送のテレビアニメ『ルパン三世』第10話にも「隠せれる」という用例がある。

例:

  • ×行ける(正:行ける)

また、ら抜き言葉「見れる」「来れる」に「れ」を足して「見れれる」「来れれる」としてしまう用例もある。

音便

い(良・善・好)くない
「いい」は、「よい」が変化した話し言葉である。終止・連体形でのみこの形を使い、それ以外では元の「よい」を使って「よくない」「よかった」などとするのが一般的だが、若者の間で1980年代中盤からの一時期「いくない」のように規則的に変化させた形が流行した。

仮名遣いの誤り

現代仮名遣いでは認められないものを挙げる。「おまえ→×おまへ」などの間違いは児童に多く、学校教育を受けるにつれて直るものであるが、以下に記す事例は、まま見られる。ただし、現代仮名遣いは、その前書きにおいて「この仮名遣いは,科学,技術,芸術その他の各種専門分野や個々人の表記にまで及ぼそうとするものではない」と定めている。現代仮名遣いに沿っていないからといって個々人の表記をあげつらうのは、逆に現代仮名遣いの趣旨に反する。

こんにちわ→正:こんにちは

  • ワと発音する音節は「わ」と表記するのが原則だとしながら助詞の「は」にだけ「は」と書いてワと読ませる例を残した現代かなづかいの主観性は『私の国語教室』などで強く批判されたところだが、この規定は現行の改訂現代仮名遣いにも引き継がれた。1946年の規定では助詞の「は」を「わ」と書くことをも許容する含みを持たせていたものが、現行の規定では明確に「は」と書くと定められている[3][4]。「今日は御機嫌いかがですか」のような表現の省略されたものであり、もともと助詞の「は」だったから「は」と書くのだ、と説明されることがある[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。

ゆう→正:いう

  • 動詞「言う」は、発音どおりに表記するという現代仮名遣いの原則に従えば「ゆう」だが、特例として「いう」と表記すると定められている。現代仮名遣いによれば「いう」と表記して「ユー」と発音するものだが、「イ・ウ」と発音するのが正式だと誤解している者もいる[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。

この他、正仮名遣(歷史的仮名遣ひ)こそ「日本語として本來あるべき仮名遣ひだ」として、現代仮名遣い自体が批判されることがある。この立場からは、先に挙げた「おまへ」の表記こそが正しく、「おまえ」の方が間違っていることになる。

品詞の転成

品詞の転成は古くから見られる現象である。「白・青・赤・黒→白い・青い・赤い・黒い」「群れる→群・村」「すごい→すごむ」「涼しい→涼む」「広い→広める」「見せる→店」「〜すべし→〜すべきだ」「好く→好きだ」のように、今日普通に使われている語の中にも、元々は品詞の転成によって生まれたものは枚挙に暇がない。古くに品詞の転成を起こしたものは日本語の乱れとされないが、比較的最近に品詞の転成を起こしたものは日本語の乱れとされることがある。

動詞の形容詞化

  1. 動詞「違う」を「違かった」「違くない?」のように形容詞化。同じように動詞から形容詞に転成した例には「涙ぐむ→涙ぐましい」「恐る→恐ろしい」などがあるが、これらは転成した時期が古いので日本語の乱れとはされない。
  2. 「好きではない」→「好きくない」。「好きだ」という形容動詞自体「好く」という動詞から転成したものだが、「好く→好きだ」の変化は同じ品詞の転成でもやや古く通常日本語の乱れとはされない。

形容詞の副詞化

  • 形容詞「すご(凄)い」を無活用のまま「すごい速い」と連用修飾で副詞的に使用。
    • 近畿方言においては、「えらいびっくりした」のような形容詞を終止形で使用する例は江戸時代より見られる。

鼻濁音の消失

鼻濁音[ŋ]については、以前より関西を除く西日本方言ではあまり使われていなかったが(鼻濁音は本来、関東・東北地方などの東国から近畿地方にかけてのみに認められる特徴であった)、若年層においては東京など東日本でも使われなくなる傾向がある。さらに、鼻濁音と同様の用法を持つ有声軟口蓋摩擦音[ɣ]が広まっている。これについても、年配層からは日本語の乱れであると指摘する声がある。

たとえば、程度を表す副助詞「〜くらい」と「〜ぐらい」の混用が目立ち、

  • 「これくらい」と「これぐらい」
  • 「息もつかないくらい」と「息もつかないぐらい」

などが挙げられる。

外来語表記

機械を表す外来語では、長音を伴わないのが専門用語的・学術的、伴うのが一般語的とされる傾向にある。また世代差、各人が持つ表現の嗜好によっても左右される。

固有名詞でも「ゆれ」の収まったもの(「レーガン」と「リーガン」(アイルランド系であるレーガンがアイルランドではレーガンと発音すると言うことでレーガン自身がレーガンを使ったので「ゆれ」ではない)など)と「ゆれ」の残るもの(「リンカーン」と「リンカン」、「ヒトラー」と「ヒットラー」など)がある。「BMW」の読み方は、以前はドイツ語読みの「ベーエムヴェー」が一般的だったが、近年は英語読みの「ビーエムダブリュー」(若しくは略して「ビーエム」)の方がよく用いられる。

NHKのアナウンサーは「エヌエイチケイ」と発音しているが、たとえば静岡市内を走るしずてつジャストラインの路線バスの車内放送では、「NHK前」を「エヌエッチケーまえ」と発音している。「正しい発音」だと年配の乗客が認識できず、乗り過ごしてしまう人が多いためである[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。

アクセントに関するもの

名詞アクセントの平板化

かつて起伏型に発音されていた名詞が平板型に発音されるようになる現象。

一般に新語や外来語は後ろから3番目の音節にアクセント核が置かれる。

例:

  • ード → レコード
  • ファイル → ファイル


用言アクセントの起伏化

用言のアクセントについては名詞とは逆に起伏型に移行する傾向がある。

動詞はアクセントの点で、

  1. 終止形が起伏型に発音されるもの(原則として2拍語は頭高型と中高型。3拍語では中高型が多いが、「CVVCV」の構造を持つ以下の6語頭高型になる。"入る、参る、帰る、返す、通る、通す"。4拍語以上は中高型。全体を通して、尾高型は2拍の頭高型や3拍以上の中高型が、母音の無声化によってアクセント核が後部に1拍ずれた場合を除けば存在しない。例:「吹く」の「ふ」の無声化)。※C=consonant V=vowel
  2. 終止形が平板型に発音されるもの

の2つに分類されるが、かつて (2) に属していた動詞が (1) に移行する傾向が近年強まっている。特に複合動詞で特にこの傾向が強い。保守的なアクセントを用いると考えられているNHKのアナウンサーでも既にかなりの揺れが見られる。

例:

  • 複合動詞
    • 立ち寄る - たちよる → たちよ
    • 持って行く - もっていくっていく
  • 単純動詞
    • はしゃぐ - はしゃぐ → はしゃ
    • 養う - やしなう → やしな

また、形容詞のアクセントも同様に2つに分類されるが、もともと(2)に属する語が少ないこともあって、(1)のように発音される傾向がある。

例:

  • 宜しい - よろしい → よろし
  • くすぐったい - くすぐったい → くすぐった

(2) に属する語は以下のとおり[5]
「赤い」「浅い」「厚い」「甘い」「荒い」「薄い」「遅い」「重い」「堅い」「軽い」「きつい」「暗い」「けむい」「つらい」「遠い」「眠い」「丸い」「明るい」「危ない」「怪しい」「いかつい」「おいしい」「重たい」「悲しい」「黄色い」「けむたい」「冷たい」「眠たい」「平たい」「優しい」「宜しい」「くすぐったい」「難しい」

敬語に関するもの

日本語の誤用敬語に関するもの)も参照されたい。

二重敬語

尊敬語や謙譲語を重ねる表現。万葉集の時代から第二次世界大戦に至るまで天皇などに対しては積極的に使われ、また口語では天皇など以外に対しても用いられた。「いらっしゃる」(<いらせらる<いる+尊敬の助動詞「す」+尊敬の助動詞「らる」)や「思し召す」(思うの尊敬語「思す」+尊敬語「召す」)のように、二重敬語が慣用化して一語になったものも古くからある。

戦後になって、敬語の簡略化を目指した政府により、これからの平等社会には相応しくないとされるようになった。特に皇室関連では、それまで通例であった二重敬語が意識的に排除された。

一般に日本語の規範と考えられているNHKアナウンサーも、中立性を求められるNHKが皇族を過剰に敬ってはならないので皇族に対しては二重敬語を使わないようにしているものの、それ以外ではしばしば使っている。ただし、敬語の使い方を特に取り上げた番組では、誤りではないが好ましくない敬語として扱う。

例:

  • その年の夏、御息所、はかなき心地にわづらひて、まかでなむとしたまふを、暇さらに許させたまはず。(『源氏物語』)

「許す」に尊敬の助動詞「す」を接続させたところへ更に尊敬の補助動詞「給ふ」を接続させている。古典文学において二重敬語は、地の文では天皇などに対する最高敬語として用いられる。会話文では天皇以外に対しても幅広く用いられる。

  • 家のだんなさまが、お前さんに会いたいから、つれて来いと、おっしゃられた。(昭和23年、菊池寛アラビヤンナイト』)

かつては普通に用いられた表現だが、現代社会においては、尊敬語「おっしゃる」と尊敬を表す助動詞「れる」を二重に用いるのは過剰で、「おっしゃいました」または「言われました」が相応しい。

  • お葉書、拝見いたしましたが、ぼくの原稿、どうしても、――だめですか?(昭和12年、太宰治二十世紀旗手』)

かつては普通に用いられた表現だが、現代社会においては、「見る」の謙譲語「拝見する」に対してさらに「いたす」をつける必要はなく、「拝見します」で十分である。

謙譲語+れる・られる

決して新しい表現ではなく、古典文学[1][2]から明治期の文学[3][4]、そして現在に至るまで使い続けられてきたものだが、敬語の理論を機械的に当てはめると矛盾した表現としても解釈できるため誤りとされることがある。古典で使われる場合は二方向敬語であると解釈する。最近ではその用法でない場合がある。例えば、下の森鴎外の例などは二方向敬語とは解釈できない。

  • 拾得さんはいつごろから当寺におられますか。(大正5年、森鴎外寒山拾得』)
    「いる」の謙譲語「おる」+尊敬を表す助動詞「れる」。この表現を誤りと見る人もいる。
  • ある日山から虎に騎って帰って参られたのでございます。(同上)
    「来る」の謙譲語「参る」と尊敬の助動詞「れる」を接続した表現で、誤りとする人もいる。誤りだと言われないためには「いらっしゃる」が無難。「帰って」きたわけなので、二方向敬語と解釈すると自らを敬っていることになってしまう。
  • その講師の申されるのを聞けば、どのやうな破戒の罪人でも、阿弥陀仏に知遇し奉れば、浄土に往かれると申す事ぢや(大正10年、芥川龍之介往生絵巻』)。
    「言う」の謙譲語「申す」と尊敬を表す助動詞「れる」を接続した表現で、誤りとする人もいる。誤りだと言われないためには「おっしゃる」が無難。

形容詞・動詞+です

丁寧な断定の助動詞「です」が形容詞や動詞に接続することが誤った用法とされることがある。このうち「おもしろいです」のように形容詞に接続したものについては、昭和27年の国語審議会『これからの敬語』により「合法化」された。動詞に接続したものについては『これからの敬語」でも合法化されず「ます」を接続するのが正しいという感覚をもつ者が多い[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。

  • 一体生徒が全然悪るいです。(明治39年、夏目漱石坊っちゃん』)
  • それで君が上がられれば、これほど都合のいい事はないと思うですがね。(同上)
  • 好いですか? 妙子を囲んでいるのは寂しい漢口(ハンカオ)の風景ですよ。(大正13年、芥川龍之介『或恋愛小説』)

「〜させていただく」の濫用

上記の「さ」入れ言葉以前の問題として、誰かの許可を得て何かを「させていただく」わけでない場面で、単に「いたす」の代用として「~させていただく」と言うこと自体を嫌う向きもある。形式的にだが、反対する余地を残した言い方をすることで、高圧的な印象を薄める、同意を得て進行するという印象を持たせる、という意識が働いているわけで、これはいろいろな敬語表現に共通する発想であるとあまり否定的な評価をしない見解もある。さらに、一見、反対する余地を与えるような表現をしながら結果的には一方的に進めていくこと自体があまりに形式的として反発する向きもある。使役動詞の「させる」にへりくだるための謙譲語「いただく」をつけた言葉であるため、平等社会にふさわしくない奴隷語の一種であるとして強く批判する意見もある。元は関西地方の表現であり(伝統的に関西ではへりくだった遠回しな表現を好む傾向がある)、関西ではそれほど「させていただく」の多用が問題視されていない(奥山益朗『日本人と敬語』「させていただく」東京堂、1972年)。

例:

  • ×それでは閉会させていただきます。(「誰も閉会していいとは言ってない」「嫌だと言ったら閉会を取り止めるのか」などとして「閉会いたします」が正しいとする人もいる)
  • ×(発信者が別会社に発信し、応対者が)○○は本日、お休みさせていただいております/お休みをいただいております。(電話の発信者が休みを与えたわけではないとして、「本日は休暇をとっております」が正しいとも)

「〜していただく/お〜いただく」の誤用

「〜してもらう」の'謙譲語'という意味を離れて「〜していただく/お〜いただく」を使ってしまう現象。これが定着すると、本当に誰かに依頼して何かを「していただく」ことを言いたいときに困ってしまう。

例:

×取扱説明書をよくお読みいただいてからお使いください
この文の書き手Aと読み手Bの他に、Bより身分の高いCを想定して、(1) BからCに説明書を代読を依頼 (2) Cが説明書を読む、(3) Bが機器を使う――という手順を踏むべきだと言っているなら正しいが、読むのも使うのもBの場合は正しくは「取扱説明書をよくお読みになってからお使いください」。常体に戻して「よく読んでから使え」と「よく読んでもらってから使え」を比べてみると分かりやすい。

若者に多い事例

別項若者言葉も参照されたいが、ここでは30代以上の間でも使用され、言葉の乱れとして考察の余地があるものを取り上げておく。

ぼかし表現

「ぼかし表現」とは、あらかじめわかり切っている事柄であろうがなかろうが、はっきり言い切らないことで曖昧にしてしまうことである。従来から敢えて匿名にするため「某○○」「さる〜」としたり、「ある種」「ある意味」などは広く用いられてきたが、主として若者の言葉遣いで指摘されているのがバイト敬語に多い「〜のほう」、「私的には…」、あるいは不必要な場面での「〜とか」「〜と言うか」「〜みたいな」である。また「〜する人」といった自分を第三者に見立てた表現も然りである。もっとも今日使われている「立派な」や「田中」の「方」や「様」も、元々は人を直接指し示すのを避けて方角や様子のことのようにぼかした表現である。ぼかし表現を参照のこと。

感動表現の濫用

形容詞の語幹の用法
「すごっ」、「はやっ」のような表現は形容詞の語幹用法といって、平安時代以前からある感動表現である。口語における形容詞の終止形が「〜し」から「〜い」に変化したのは鎌倉時代なので、「すごい」「はやい」よりむしろ古くからある表現である。

接客に関するもの

バイト敬語
とりわけ、ファミリーレストランやコンビニエンスストアなどで、若者のアルバイトが使っていることが多い。詳細は別項を参照されたいが、ここではパートや従業員も用いることの多い言葉をいくつか採り上げる。
  • いらっしゃいませこんにちは。→いらっしゃいませ。「こんにちは」は不要。
    • 一語として成立しているかのように聞こえるため、聞く側は社交辞令的に感じてしまうことが間々ある。
  • 1221円からお預かりします。→正: 1221円お預かりします。「から」は不要である。
    • なお、「預かる」自体が不適切で、「頂く」「頂戴する」が正しいとする人もいる。

バイト敬語の項参照。

  • レシートのお返しです。→正: レシートです。 または、 レシートでございます。
    • レシートは客が預けたものではないという理由である。しかしながら、「返す」には、「相手が何らかの働きかけをしてきた場合に、等しい価値を持つ働きかけをする」という意味があり、その意味でとらえれば正しいとする人もいる[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。
  • ハンバーグセットのほうお持ちしました。→正: ハンバーグセットをお持ちしました。または、 ハンバーグセットです。「ほう」は不要。
  • こちらがデザートになります。→正: こちらがデザートでございます。
    • 何かが「デザート」に変化するわけではない。
  • ご注文の品はひょうたんでよろしかっでしょうか。→正: よろしいでしょうか。
    • 既に注文したような表現であると不快に感じる人がいる。1か月前に注文した商品を今渡す場合に、記憶があいまいでないか確認するために言うのなら不自然な表現ではない。たった今目の前でした注文に対してこのように確認すると、「今言ったのにもう忘れてしまったのか」という印象を与えかねない。

若者流の敬語表現

ここでは、若者に限らず中年層でも用いられる場合が多く、かつ「乱れ」として取り上げる余地のあるものを取り上げる。

誤用

ここでは、場合によっては失礼に当たる可能性がある敬語表現について述べる。

私ってコーヒーとか好きじゃないですか。→正:私はコーヒーが好き(なん)です

  • 下記「語尾上げ」を伴う。中高年層で用いられる場合もあるものの、ともすれば自分の意見をことさら強調して押し付けがましく思われたり、目上の者に対して使うと馴れ馴れしく思われたりすることがある。
  • 「北海道って寒いじゃないですか」など、共通認識を確認する目的での使用は問題が無いという解釈もある。ただし、相手の知識を意識せず、あるいはあえて知らないと思われることに使うと、押し付けがましい、断定的、馬鹿にしていると受け取られかねない(例えば「ニュートリノって質量があるじゃないですか」など)。
  • 広辞苑によれば、例文の中に出てくる接続助詞「とか」には、「コーヒーとかお茶(とか)が…」には二つ以上の事柄を並列して述べる用法の他に、近年の用法としてここで用いられているぼかし表現としての使い方もある。

学生が上級生に敬語を使うこと

  • 学生が一学年でも上級の者に対して敬語を使うことはかつては当たり前のことであった。しかし、近年はこれに違和感を持つものや体育会系特有のものと捉える者もいる。

先輩は明日休みなんすか(っすか)?→正:休みなんですか

「っすか」は1927年生まれの金原亭馬の助の落語などにも聞かれる。

文章上の表現

かな書き

新聞や広告、テレビなどは、できるだけ多くの人がわかりやすいことが前提であるべきで、そのために制定されたのが常用漢字であり、現代仮名遣いである。新聞などではかつては常用漢字外の文字は使わずにかな書きするのが原則だったが、近年は読みを括弧書きするなどした上で漢字表記することが増えた。これに比べて、雑誌または書籍は購読者層がある程度絞られることが多いため、以前からかな書きはあまり行われてこなかった。その一方で、例外的に誤読防止や文面を和らげるために意図的にかな書きを用いることも少なくない。

例えば、

  • 「何」は、「なに」と読むのか、それとも「なん」なのか紛らわしい場合に「なにより(何より)」「なんの(何の)」と表記
  • 「私」を、「わたくし」と読んでほしいのか、それとも「わたし」であるのか明確にするために「わたし」と表記
  • 「〜の方」を、指示語の「ほう」か、「〜の人」の意の「かた」なのかを明確にするためにかな書きとする

といったケースは少なくない。このほかにも、

  • じつは」「じつに」「そのじつ」→
  • とくに」→「特に
  • なかでも」「〜のなか」→「

とする場合がある。編集者以外の記者が書いた原稿は、筆者のオリジナリティーを尊重する観点から原文ママとすることがある。

交ぜ書き

公文書でも、かつては常用外漢字については基本的に交ぜ書きまたはかな書きされることが多かったが、この常用漢字も別記のように限界が見えてきたので、文部科学省は2005年、「数年以内に見直しを検討する」としている。

新聞・雑誌・書籍などにおいてもこうしたケースは少なくなく、たとえば

  • 「荒唐無稽」→×「荒唐無けい」
  • 「誹謗中傷」→×「ひぼう中傷」
  • 「拉致」→×「ら致」

といった具合に表記することがある。

当て字」とは、規範的な漢字の読みを無視して、便宜的または慣用的にまったく別の読みを当てることである。江戸時代から明治時代にかけては盛んに行われたが、近年はあまり行われない。それでも歌謡曲の歌詞では近年でも次のような表現が残る。

  • 理由 - 「わけ」(正しくは「りゆう」)
  • 孤独 - 「さびしさ」(同上「こどく」)
  • 娘 - 「こ」(同上「むすめ」)
  • 宇宙 - 「そら」(同上「うちゅう」)

送りがなの区別

「行」は「い・く/ゆ・く」「おこな・う」の2つの訓を持つが、連用形や過去形では両者の区分が付かない(「行った:いった/おこなった」)。このため便宜的に「おこなう」の送りがなを「おこ・なう」として区別することがある。

カタカナ文の濫用

昔から多い表記の揺れが、文章中にカタカナをやたらに多用することである。戦前の文学作品、手紙を書く時や個人経営の商店のチラシ、10~40代前半が対象の雑誌、テレビバラエティ番組等でのテロップ、そして携帯端末パソコンe-メールなど、数えだしたらきりがないが、次のような表現が目に付く。

  • そんな無茶なことを云い出しては人迷わせだ。腕で無くって何で芸術が出来る。まして君なぞ既(すで)にいい腕になっているのだもの、いよいよ腕を磨(みが)くべしだ。(昭和14年、幸田露伴鵞鳥』)
  • 我々は見学だ(昭和6年、宮本百合子ソヴェト労働者の夏休み』)

風刺の意図を込める表現

  • と慰めて? 遣ったら、長江画伯イヨイヨ茫然とした淋しい顔になって眼をパチパチさせた。(昭和10年、夢野久作呑仙士』)

連用形の連体修飾

「×許可なく立ち入りを禁ず」の類。「許可なく」は連用形なので「立ち入り」という名詞を修飾することはできず、文法的に「禁ず」を修飾していると解釈される。正しくは「許可なき立ち入りを禁ず」のように「許可なく」を連体形にするか、「許可なく立ち入ることを禁ず」のように形式名詞を用いる必要がある。

全然〜ない

全然 - 「全然〜ない」などと後ろに否定や打ち消しを伴うのが正しいとされ、そうでない場合に「日本語の乱れ」とされる。しかし夏目漱石などによる近代初期の文学作品に否定を用いない例があり、社会における規範の方が変化した可能性が高い。「漢字の意味を考慮するなら『乱れ』どころか自己是正現象である」とする立場もある。全然の後ろに肯定を伴いたいときには、「全く」、「とても」、「完全に」、「非常に」などと言い換える方法などがある。全然の後ろに肯定で伴うと違和感を覚える者がいる。但し、「全然違う」、「全然だめ」、「全然反対」、「全然別」などは、否定的な要素が含まれていて、古くから使われているので、正しい言葉であるとしている。[6] 話し言葉では正しく、書き言葉では誤りとすべしという意見もある。

例:

全然大きい
正: 全然小さくない、全く大きい、完全に大きい、明らかに小さくない

例:

全然平気
正: 全然問題ない、全然構わない

新たな解釈として、本来「全然~ない」という言い方をするつもりだったのが、途中で肯定語による表現に変わってしまったために起こったというものがある。

例:

全然大きい
本来は「全然小さくない」ということを伝えたいのだが、「全然」と言った後で、(前の「全然」と言ったことはとりあえず抜きにして)「小さくない」という表現よりも「大きい」という表現が簡潔で明快だということで『小さくない→大きい』の変換が頭の中で瞬時に無意識的に行われた結果、「全然大きい」となってしまった。


「全然」は、否定的表現を伴うわけではなく、「予想に反するもの」を伴うという説もある[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。。 例:

  • 「コンサートは楽しかった?」「(あなたは楽しいと思っていたでしょうが)全然楽しくなかった」
  • 「この本はつまらなかったでしょう」「(あなたはつまらないと思っていたでしょうが)全然良かった」

語尾上げ

文節の語尾をいちいち上昇させて話すこと。「今朝ねバタートースト↑食べたんだけど、まだ消化してない↑のかしらおなか空いてない↑つうかあ、…」。話す内容は肯定文なのに疑問文のように聞こえるため、聞き手にとっては逐一確認されているように感じて疲れてしまう。広い層にわたって蔓延している。

自分の話す内容に自信が持てないか、話すのと同時進行で相手から同意を得ていないと不安になるという心のありようが原因と推察される。米国の"Up talking (upspeaking) "が輸入されたものとみられ、日本にも受け入れる下地があったということである。※独自研究色濃厚。要出典-->


海外での事例

  • このような「乱れ」は歴史上どの言語でも起こっていることである。また、本来生き物である言語を過剰に統制しようとすることを批判する立場も古今東西で共通している。
  • 近年の日本の曲(いわゆるJ-POP)の中にも、「乱れた」日本語を用いた歌詞を持つものが多くある。そういった曲も台湾香港などで流通している。それらの曲を聴いた現地の人が、それが標準的な日本語だと思ってしまうという問題も存在する。

参考文献

  1. ^ 金田一春彦『金田一春彦著作集 第二巻』玉川大学出版部、2004年、30頁。
  2. ^ 金田一春彦『金田一春彦著作集 第二巻』玉川大学出版部、2004年、166-168頁。
  3. ^ 渡部晋太郎『国語国字の根本問題』新風書房、1995年、第1部。
  4. ^ 飛田良文・佐藤武義『現代日本語講座 第6巻 文字・表記』明治書院、2002年。
  5. ^ 『新明解日本語アクセント辞典』金田一春彦監修(三省堂、2001年 ISBN 4-385-13670-X
  6. ^ 『問題な日本語』大修館書店、2004年、ISBN 4469221686

関連項目

外部リンク