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天皇

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天皇

  1. てんのう
    1. 日本の古代から(近時の有力説によると天武朝以降)の君主称号律令制にも規定がある。謚号に用いられた。すめらみことすめらぎすべらきなどとも読まれた。みかど(帝,御門)、だいり(内裏)などさまざまによばれた。大日本帝国憲法(明治憲法)において、はじめて「天皇」という公称が確立された(なお、対外的には「皇帝」と称していた時期もあった)。統帥権から「大元帥」とも言われた。日本国憲法においては、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(憲法1条)とされるに至ったが、これが元首や君主に該るかどうかには論議がある。
    2. 日本国憲法で定められた地位および日本国の象徴。(本項で記述)
  2. てんこう
    1. 中国皇帝の尊称。高宗がこの称号を用いた。
    2. 中国の伝説上の帝王で、三皇五帝の三皇の一人。天皇 (三皇)を参照。
    3. 道教における北極星を司る最高神。天皇 (道教)天皇大帝を参照。

天皇の呼称

十六弁八重表菊紋。天皇家の家紋であり、天皇の紋でもある。

現在、在位している天皇は今上天皇(きんじょうてんのう)又は当今の帝(とうぎんのみかど)と呼ばれ、死後、追号が定められるまでの間は大行天皇(たいこうてんのう)と呼ばれる。

また、皇太子など後継者に譲位した場合は、太上天皇(だいじょうてんのう)または上皇と呼ばれる(光格天皇仁孝天皇に譲位して以後は事実上、明治以降は制度上存在していない。これは皇室典範が退位に関する規定を設けず、天皇の死去(崩御)によって皇嗣が即位すると定めたためである)。上皇はまた仙洞などとも呼ばれ、出家すると法皇と呼ばれる。

古代、国内では天皇に当たる地位を大王(おおきみ)と呼んだ。雅語ではすめらのみこと(すめらみこと)。平安時代以降は、みかど(御門、帝)と呼ばれた。 「みかど」は本来天皇の居所また朝廷を示す言葉であり、天皇を示す婉曲的な表現である。陛下(階段の下にいる取り次ぎの方まで申し上げます)も同様である。また天子(てんし)、 天朝(てんちょう)という名も使われる(江戸時代まで一般的に使われていた)。

天皇という表記が採用されたのは、7世紀後半の天武天皇の時代とするのが有力な説であるが、「てんのう」と呼ぶことが正式になったのは明治時代である。

なお、一般的に各種報道等において、天皇の敬称は皇室典範に規定されている「陛下」が用いられ、「天皇陛下」と呼ばれる。宮内庁などの公文書では「天皇陛下」のほかに、他の天皇との混乱を防ぐため「今上陛下」と言う呼称も用いる。 会話における二人称では、単に陛下と呼ぶことが多い。お上、聖上、当今(とうぎん)という呼称もあるが近年ではまれである。三人称として、敬称をつけずに「今の天皇」、「現在の天皇」、「今上天皇」と呼ばれることもある。また天皇や皇族には姓氏はない。これは、日本のが、天皇から臣下に下されたものであることにより、法的論拠は絶無である。

現行における天皇

現在において天皇(てんのう)は、日本国憲法(1946年11月3日 公布1947年5月3日 施行)第1章に記されている。

天皇の地位

天皇は日本国と日本国民統合の「象徴」とされ、これは主権の存する日本国民の総意に基づくものとされる。天皇が日本国憲法の下における「元首」であるのか否か(あるいは、そもそも日本国憲法の下における元首は誰か)については議論があるが、「象徴」ではあっても立憲君主制国家として国家の事実上の「元首」という見解もある(その論拠としては、天皇が国事行為(後述)として、通常元首が行うとされる行為を行うことが挙げられることが多い)。憲法に鑑みると日本国は無元首国家(元首が存在しない)と見るのが多数説であるが、異説もある。 天皇が「君主」か否かも問題とされることがあるが,結局は君主をどう定義するかによるのであり、意味のある論点ではない。

天皇の皇位継承

皇位継承世襲のものであって、皇室典範によって細かく定められている。皇室典範第1条では皇位は皇統に属する男系(直系)の男子がこれを継承すると記されている。

天皇の国事行為

天皇は日本国憲法の定める国事に関する行為のみを行うとされ、国政に直接関与する権能を有しない。天皇の行う国事行為は以下のとおり。

などであり、国家の儀礼式典のほとんどを行っている。また天皇の国事行為は、内閣の助言と承認が必要とされ、内閣がその責任を負う。

大日本帝国憲法における天皇

大日本帝国憲法プロイセンドイツ)の憲法を参考に作成されたと言われている。日本は憲法制定に関し、イギリスドイツに倣って(外見的)立憲君主制を取っており、絶対君主制を取っていない。

大日本帝国憲法においての天皇は絶対の存在とみられがちだが、明治以降も、天皇が直接命令して政治を行うことはあまり無く、政治の表舞台に出たことはほとんどない。この点において天皇は「君臨すれども統治せず」といった現在の英国王室に近い存在であったと言える。

天皇の地位

大日本帝国憲法においては、その第1条で、「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定められていた。

天皇の権限

大日本帝国憲法において天皇は以下のように記されている。

国会において政府に反対する勢力が多くを占めることを予想して、国会内閣の権限を弱め、天皇の名を借りて政府や軍部の権限を強化してあるといえる。この構造が昭和に入ってから軍部に大きく利用されることとなり、「軍の統帥権は天皇にあるのだから政府の方針に従う必要は無い」と憲法を拡大解釈して軍が大きな力を持つこととなった。

ちなみに日清戦争日露戦争等では明治天皇が最後まで開戦に反対していたという逸話が残っており、昭和天皇太平洋戦争の開戦に強い不信感を持っていたといわれている。

皇紀と神話

皇紀(こうき)とは紀元前660年に神武天皇が即位した日から現在までの年数である。 西暦 + 660年 = 現在の皇紀 となっている。 第二次世界大戦中、大日本帝国政府では皇紀を用いて西洋諸国よりも歴史が長く自国が優れていると強調した為、 現在では皇紀は、その過去の経緯からほとんど使われない。

注:皇紀の年数については諸説ある。

天皇の歴史

天皇の一覧古墳も参照のこと。

古代の天皇

天皇の位を継承してきた天皇家は、『日本書紀』を初めとする史書を元に系図が作られ、紀元前660年に即位した神武天皇、さらにその始祖であるクニノトコタチなどの神々に始まるとされている。しかし、日本書紀は天武天皇の勅命により編纂されたものであり、神話などの伝承を多く含んでいる。そのため、天皇家の祖先にまつわる伝承や事績、および初期の天皇の存在や業績、系図については、個人との対比を含め事実であったかは疑わしい。 特に欠史八代の天皇については、古代中国革命思想に則って天皇家の歴史を正当化すべく後世に年代が水増しされた、とする説がある(実在については諸説ある)。

歴史学上、天皇家は古墳時代に見られた大和王権の「治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)」(あるいは「大王(おおきみ)」)に由来すると考えられている。3世紀中期に見られる前方後円墳の登場は統一的な政権の成立を示唆しており、このときに成立した王朝が天皇家の祖先だとする説がある。また、弥生時代邪馬台国卑弥呼の系統を天皇家の祖先とする説、天皇家祖先の王朝は4世紀に成立したとする説、など多くの説が提出されており定まっていない。

中国の史書『宋書』倭国伝には、5世紀前期から同後期にかけて存在した倭の五王(讃・珍・済・興・武)についての記述が残っている。これら五王は、仁徳天皇から雄略天皇までの天皇に比定されており(比定には諸説ある。詳しくは倭の五王を参照のこと)、天皇家の始源をこれら五王に求める意見もある。これら五王は、中国王朝から倭国王に封じられており、対外的にはこの称号を名乗っていたと推定される。国内向けの王号としては、熊本県埼玉県古墳から出土した鉄剣・鉄刀銘文に「治天下ワカタケル大王」「ワカタケル大王」とあり(ワカタケルは雄略天皇の実名)、「治天下大王」または「大王」が用いられていたことが判る。

この頃までの代々の天皇の出自や系統については、伝承通りの「万世一系」ではなく、倭国内各地の有力豪族及び倭国に進出してきた中国大陸朝鮮半島系の勢力の間での、複雑な権力移動が裏にあったとする見方も存在する。 例えば、雄略天皇の子の清寧天皇には後嗣がなく、履中天皇の孫である仁賢天皇顕宗天皇が王位を継いだとされているが、実際は王位簒奪ではなかったかとの説もある。また、仁賢の子の武烈天皇も跡継ぎがなく、応神天皇5世の孫とされる継体天皇が王位に就いているが、これにより仁徳以降の血統が途絶えていることから、王朝交代があったとする説も一部にある(具体的な論拠に乏しいため異論も多い)。しかし、実際にどのような経緯があったかについては、依拠しうる史料が日本書紀などに限られていることもあり、前述の各説はあくまで数多ある諸説のうちの一説に過ぎない。当時は、一つの血統が倭国王位を継いだのではなく、複数の有力な豪族たちの間で倭国王位が継承されたとする考え(連合王権説)も一部の学者に見られる。

不安定な基盤にのっていた王統が確立したのが継体の子である欽明天皇の頃(6世紀中期)だと言われている。欽明以後、中国の制度・文化の摂取が積極的に行われるようになっていき、7世紀初頭には冠位制度の導入など、天皇家を中心とした政府が形成され始めることとなった。また、この時期、中国王朝()に対して「倭国王」ではなく「天子」と自称したことが中国史書(隋書)に見え、中国から独立する意思をうかがわせる。このことから、天皇の称号の成立をこの7世紀初頭に求める意見もある。

7世紀中期から中国()の法令体系である律令を導入することにより、天皇を中心とした政府・国家体制を構築しようとする動きが活発となっていった。それらの試みは豪族らの反発により一気に進展はしなかったが、最終的には、天武天皇及びその後継者によって完結することとなった。特に天武は、自らの実力で皇位についたことを背景として、絶対的な権力を行使していった。天皇の称号は、天武が創始したとする説もある。天皇位の開始時期には、前述の7世紀初頭とこの天武期とに説が分かれ、激しい議論がくり広げられている。

さて、律令制下で天皇は太政官組織に依拠し、実体的な権力を振るったが、この政治形態は法令に則っていたため、比較的安定したものだった。主要な政策事項の実施には、天皇の裁可が必要とされており、天皇の重要性が確保されていた。しかし、平安初期の9世紀中後期ごろから、藤原北家が天皇の行為を代理・代行する摂政関白に就任するようになった。特に858年天安2年)に即位した清和天皇はわずか9歳で、史上初めての幼帝であった。このような幼帝の即位は、天皇が次第に実権を失っていたことを示すもので、こうした政治体制を摂関政治という。摂関政治の成立の背景には、国内外の脅威がなくなったことに伴って政治運営が安定化し、政治の中心が儀式運営や人事などへ移行していったことにある。そのため、藤原北家(摂関家)が天皇家の統治権を請け負うことが可能となったと考えられる。また、摂関家の権力の源泉としては、摂関家が天皇家の外祖父(母方の祖父)としての地位を確保し続けたことにあるとされている。この頃、関東では平将門が蜂起して自ら新皇(新天皇)と名乗り、王朝の任命した国司を追い払って関東7カ国と伊豆に自分の国司を任命した。新国家の樹立とも言えるが、3ヶ月で平定された。

平安後期の後三条天皇は、摂関家が握っていた統治権を天皇家へ取り戻すため、記録荘園券契所の設置など、さまざまな政策を展開していった。後三条は天皇譲位後も上皇として政治の運用にあたることを企図していたが、その実現の前に没した。後三条の子の白河天皇は後三条の遺志を継ぎ、上皇(院)として政務に当たるようになった。この院政の展開により、藤原氏の勢力は著しく後退した。院政を布いた上皇(院)は、自身の政庁である院庁を置き、治天の君(事実上の国王)として君臨したが、それは父権に基づくもので、外祖父として権力を握った摂関政治よりも一層強固なものであった。治天の君は、自己の軍事力として北面武士を保持し、平氏源氏などの武士を登用したが、このことが結果的に平氏政権の誕生や源氏による鎌倉幕府の登場をもたらすこととなる。鎌倉時代には院の軍事力強化を目的とした西面武士を設置した。院政はこの後、江戸時代まで続くが、実体的な政権を構成したのは、白河院政から鎌倉時代末の後宇多上皇までの約250年間と見られている。

中世

中世の国家体制については、一般的には天皇・公家の後退と武家の伸張によって特徴付けられるが、公家と武家が両々相俟って国家を維持したとする権門体制論も提出されているなど学説も多様である。荘園制の普及にもかかわらず律令体制下の公領(国衙領)がなお根強く残されていたことから、鎌倉幕府の成立前後までは上皇がかなりの権力を振るう余地はあった。 しかし承久の乱(1221年)以降の天皇の権威の失墜は著しく、モンゴル襲来に当たっての外交的処理や唐船派遣などの外国貿易など、いずれも鎌倉幕府の主導の下に行われており、武家一元化の動向を示していたことは事実であろう。武家の進出のため公家の家門の分裂が起こることも多くなった。天皇家でも、大覚寺統持明院統に分裂した。鎌倉幕府の崩壊後、一時天皇親政が行われた。しかしその後の内乱を通じて南北両朝が並立し、足利方の北朝南朝を吸収することで収拾された。 この頃は天皇の権威の低下が著しく、室町幕府三代将軍足利義満は、自分の子義嗣を皇位継承者とする皇位簒奪計画を持ったと言われるが、義満の死後、朝廷が義満に太上(だいじょう)天皇の尊号を贈ろうとした際には、室町幕府がこれを固辞しているので、その真相については未だ定かではない。戦国時代末期には京都での天皇や公家の窮乏は著しく、烏帽子を逆さまにして寄付金を集めに回ったり、共同浴場に出向く公家も生じるようになったが、有力戦国大名織田政権が天皇・公家を政治的・経済的に意識的に保護したことによってその後まで制度として継続することになる。

近世

江戸時代においては、天皇は政治的実権を奪われ、実際の石高は1万石(のち3万石)程度の経済基盤しか持たなかった。また禁中並公家諸法度により、その言動も幕府から厳しく制限された。庶民の尊敬の対象は大名征夷大将軍(上様)に向けられ、天皇や公家は非現実的な雲の上の存在として敬意が払われる程度であったと考えられてもいる。しかしながら、公家は実権は失ったものの茶道俳諧等の文化活動においてその嫡流たる天皇の権威高揚に努め、天皇は改元にあたって元号を決定する最終的権限を持っていたことを初め、将軍や大名の官位も、形式の上では全て天皇から任命されるものであり、権威の源泉として重要な意味を持つ存在であった。江戸時代後期には光格天皇が父親の閑院宮典仁(すけひと)親王太上天皇の追号を送ろうとしたが、天皇に在職しなかった者への贈位は前例がないとして反対した幕府の松平定信と衝突する尊号一件と呼ばれる事件が発生した。

明治維新

幕藩体制が動揺し始めると、江戸幕府も反幕勢力もその権威を利用しようと画策し、結果的に天皇の権威が高められていく。ペリー来航に伴う対応について、幕府は独断では処理できず、朝廷に報告を行った。このことは前例にないことであった。このことによって天皇の権威は復活したが、幕府は当初、公武合体により、反幕勢力の批判を封じ込めようとした。しかしこの画策は失敗し、薩摩長州を主体とする反幕勢力による武力倒幕が行われようとした。幕府はその機先を制して大政奉還を行ったが、将軍は「辞官納地」(全ての官職と領地の返上)を強要され、それに不満の旧幕府軍は鳥羽・伏見で官軍と衝突し、内戦となった。その過程で北海道 函館では、榎本武揚らによって一時共和制が宣言され、選挙によって大統領(総裁)を選出し、外国の一部の承認も得たが、官軍に程なく平定された。この戊辰戦争を通じて倒幕に成功した大久保利通らは、天皇を中心とする新政権を当初、京都の太政官制度によって運営した。しかし征韓論政変によって参議から下野した板垣退助らが自由民権運動を開始し、それが次第に議会開設の国民運動として発展すると、支配層は大日本帝国憲法を発布し、議会と内閣制度を発足させた。これにより皇室制度は、プロイセン式の立憲君主制の外見を採ったが、大日本帝国憲法と同時に制定された皇室典範は、憲法と同等の権能を有しており、皇室制度は国民支配の神権的機関として利用されるようになる。そのため議会内閣も国民に対しては何ら責任を負わず、天皇に対して責任を負うものであった。こうした皇室制度は、国民から隔絶した絶対的な権力を有するものであり、天皇制絶対主義と規定する学者も多い。
※「天皇制」とは、コミンテルンの用語であり、それに該当する歴史的用語は「皇室制度」である。

明治以降

明治31年(1898年)には、第一次大隈重信内閣の文部大臣尾崎行雄が、ある教育会の席上で藩閥勢力の拝金主義を攻撃した演説に「日本で共和制が実施されれば、三井・三菱は大統領となるだろう」とあったため、「共和演説」として問題となり、皇室制度の下にあって共和制を想定することは不敬にあたるとして辞任に追い込まれた。その背景には反大隈勢力の桂太郎派の画策があったと言われるが、後任の文相には犬養毅が任命された。明治44年(1911年)には大逆事件が生じ、時の政権から社会主義者弾圧の口実に使用され、明治天皇を暗殺しようとしたとして幸徳秋水ら12人が死刑に処された。この事件は当時の多くの文化人にも衝撃的な影響を与えた。徳富蘆花は、「謀反論」を書き、謀反を恐れてはならないとし、石川啄木は「時代閉塞の現状」への宣戦布告を行ったが、永井荷風はこれを機に社会的関心から意識的に遠ざかるようになった。その後は、政府の方針に対する世論の批判をかわす目的で天皇の存在は利用され、天皇を批判する言論は不敬罪として厳重に罰せられたこともあって、天皇批判は影を潜め、「冬の時代」とも称されるようなった。

その後、二度にわたる憲政擁護運動を経て、大正デモクラシーと言われるように言論界も活況を呈するようになる。大正デモクラシーの時期には、皇室制度自由主義的に解釈する吉野作造民本主義美濃部達吉天皇機関説も現れたが、大正14年(1925年)には普通選挙法と同時に治安維持法が公布され、国体の変革を否定する言論や運動が禁止された。政府や軍の活動に対する世論の批判を抑える目的として天皇の存在は大きく利用されることとなった。

世界恐慌の後、五・一五事件二・二六事件を踏まえ、軍部が台頭し天皇の存在を大きく利用する。明治憲法において軍の統帥権は、政府ではなく天皇にあると定められていることを理由に、政府の方針を無視し満州事変等を引き起こした。また天皇の神聖不可侵を強調して、政府に圧力を加え軍部大臣現役武官制統帥権干犯問題、国体明徴宣言を通じて勢力を強めていく。この頃には、津田左右吉久米邦武らの日本古代史学者が、神話は歴史事実とは異なるとしただけで職を追われ、学校には御真影とする天皇・皇后の写真を覆いをかけて飾り、拝謁することや、歴代天皇の名前を暗誦することが強制されるようになった。その権威が頂点に達したのは太平洋戦争時であり、昭和13年(1938年)の国家総動員法が発令された頃より、軍部により現人神(あらひとがみ)と神格化され、天皇を中心とした戦時国家体制が作られた(皇国史観を参照)。この時代には、ドイツナチス政権やイタリア戦闘者ファッショ政権といったファシズム体制が成立し、日独伊三国同盟が結ばれたことから、日本の皇室制度についても、それを天皇制ファシズムとする説もある。

太平洋戦争降伏後

太平洋戦争降伏後、連合国(UN)の間で、軍国主義の一因として天皇を廃止すべきだという意見があったが、皇室制度の維持を日本政府が強く唱えたこともあり、ダグラス・マッカーサー元帥連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)は、日本の占領行政を円滑に進めるためにも天皇は存続させるべきだという方向性を取った。天皇の戦争責任についても多くの意見があったが、占領当局は追及しないこととした。当時、民間には、天皇をめぐる各種の意見が生じたが、戦前、皇国史観のために被害を受けた津田左右吉なども天皇自体の存在は否定しないと言明した。その外、天皇の廃位を唱える見解や昭和天皇の退位と皇太子の即位により元号を改正するのが妥当とする説も、南原繁佐々木惣一らが唱えたが、一部に止まった。昭和天皇自身は退位の意向を示したが、かえって戦争責任を認めることになるとして周囲から強い反対があり、撤回した。日本国憲法では、天皇を日本国の象徴と位置づけ、国政への関与は禁じるという現行の体制となった。

この後、連合国総司令官のマッカーサー元帥と昭和天皇が並んで写っている写真が新聞に掲載された。今まで現人神とされ、写真も「御真影」等と呼ばれていた天皇が、しかも肩の力を抜いた姿の元帥の隣に直立不動の姿勢で、普通に新聞に写っていることは国民の衝撃を呼んだ。さらには“天皇は現人神ではなく人間である”という人間宣言もなされた。

人間宣言をした後、昭和天皇は極東国際軍事法廷で戦争犯罪人として告発される可能性がなくなる前に沖縄を除く日本全国各地への巡幸をはじめた。この「巡幸」は多くの日本国民に歓迎をもって迎えられ、昭和天皇も率先して国民との交流を持った。

皇位継承権論争

昭和40年の秋篠宮文仁親王の誕生以来、皇男子や皇男孫が生まれていないことから、将来の皇位継承者をどうするかついて、皇室典範を改正し、女子や女系の者に皇位継承権を認めるか否かの論争が起きている。

現行の皇室典範による皇位継承順位
  • 第1位: 皇太子徳仁親王
  • 第2位: 秋篠宮文仁親王
  • 第3位: 常陸宮正仁親王
  • 第4位: 三笠宮崇仁親王
  • 第5位: 三笠宮寛仁親王
  • 第6位: 桂宮宜仁親王
女性天皇を容認(直系優先)した場合の皇位継承順位
  • 第1位: 皇太子徳仁親王
  • 第2位: 愛子内親王
  • 第3位: 秋篠宮文仁親王
  • 第4位: 秋篠宮眞子内親王
  • 第5位: 秋篠宮佳子内親王
  • 第6位: 常陸宮正仁親王
  • 第7位: 三笠宮崇仁親王
  • 第8位: 三笠宮寛仁親王
  • 第9位: 三笠宮彬子女王
  • 第10位: 三笠宮瑤子女王
  • 第11位: 桂宮宜仁親王
  • 第12位: 高円宮承子女王
  • 第13位: 高円宮典子女王
  • 第14位: 高円宮絢子女王
女性天皇を容認(男子優先)した場合の皇位継承順位
  • 第1位: 皇太子徳仁親王
  • 第2位: 秋篠宮文仁親王
  • 第3位: 常陸宮正仁親王
  • 第4位: 三笠宮崇仁親王
  • 第5位: 三笠宮寛仁親王
  • 第6位: 桂宮宜仁親王
  • 第7位: 愛子内親王
  • 第8位: 眞子内親王
  • 第9位: 佳子内親王
  • 第10位: 彬子女王
  • 第11位: 瑤子女王
  • 第12位: 承子女王
  • 第13位: 典子女王
  • 第14位: 絢子女王


旧11宮家旧皇族)の皇籍復帰

天皇家では、現在に至るまで男系による皇位継承が一貫して行われてきたため、過去の女帝が皇位継承者が成長するまでの中継ぎであったこともあり、女帝及び女系に皇位継承が移ることについて慎重な意見も多い。また、小泉純一郎の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」では、皇族の絶対数が少ない為、一部に過重な公務負担がかかっているとの意見もあり、1947年に連合国軍最高司令官総司令部により、皇籍剥奪された人々を復帰させるべき、との考えも出ている。また、一部の報道では、皇籍剥奪された人々の内、何人かが復帰に前向きの意向を示しているとされるが、特定個人名は出ていない。

天皇に関する現在の論評

1950年代から1960年代には、平等を訴える左派勢力により、天皇制の廃止を訴える意見も多く存在した。昭和天皇崩御の際、テレビ朝日の『朝までテレビ』でこの問題が取り上げられたのを契機に、爾来天皇制廃止論を取り上げるマスコミはなくなった。また、現在においては廃止を唱える意見は寧ろ少ない、とされている。

女性天皇問題

皇室典範等の変更なしに、現状のまま皇位継承制度を続ければ、秋篠宮文仁親王以降の男子皇族が絶無である(2005年4月4日現在)が故に、皇室21世紀中に存続できない可能性もでてきた。皇室が一貫して男系による万世一系による皇位継承を行ったのは、日本の皇室が一部の欧州諸国のような、他家出身の男性の姓に繋がる女系男子による皇位継承、即ち万世一系の断絶とそれに伴う王朝交代を容認しなかったことと、欧州諸国の王室と異なり一夫多妻制が採られていたため、男系の男性皇族を比較的確保し易かった為であるが、女性天皇を容認し民間人からの婿養子をとった場合、万世一系が断絶してしまう事が問題とされているが、一般国民のこうした問題への理解は乏しく、皇室という憲法14条の例外的な存在と一般国民を履き違えた単純かつ安易な「男女平等」論で、センセーショナルに世論調査等で女性天皇容認が多数を占めているのが現状である。こうした事から産経新聞によれば、戦後にGHQ/SCAPの皇室財産の制限政策によって皇籍を剥奪された旧宮家の内で、現存する11宮家の復帰、あるいは、旧宮家からの皇室への養子を迎える事を政府が検討しているとの事である。

一方、皇室のあり方について手本とされてきた英国王室に対し、本国以外の英連邦に属している各国ではその改革を求める意見も少なくない。オーストラリアでは、国家元首を英国王室のと定めているため、英連邦からの脱退を求める世論が強まっている。

王室をめぐる環境は国際的にはかなり変化しつつある。日本でも、国民に愛される皇室のありかたや後継者に関しての女性の天皇の可否について議論が生じるなど、そのあり方をめぐって、新しい問題を投げかけ始めている。

2004年12月27日、政府は皇室典範を改正して女性天皇を認めるべきかどうかを審議するため、有識者による懇談会の設置を決め、翌2005年1月26日、小泉純一郎の私的諮問機関を「皇室典範に関する有識者会議」として、産業技術総合研究所理事長を務める吉川弘之を座長に互選し、議論を始めた。しかし、有識者会議とはいうものの、皇室の伝統への知識に精通した者は少なく、始めから女性天皇ありきの小泉首相のイエスマンとの批判も多い。

2005年3月18日、全国約八万社の神社で組織する神社本庁は、「皇室典範に関する有識者会議」が皇位継承のあり方について検討していることを受けて、本庁としての考えを「皇室典範改正に関する神社本庁の基本的な姿勢」としてまとめ、各都道府県の神社庁に送付した。見解は「歴史的に、皇位は男系男子によって継承された」と指摘。政府や有識者会議には「男系男子による継承の歴史的な意義と重みを明確にした上で、将来にわたって安定的に皇統を護持するための具体的な論議がなされるべきだ」と求め、歴史と伝統に基づいた男系男子による皇位継承の重要性を尊重する立場を明確にした。 また、天皇、皇族は憲法の基本的人権の「例外」とされることから、男女平等の観点から女性天皇を論じるのは不適切と主張。皇位継承のあり方に関し「海外の例を安易に取り入れることは、国柄の変更をもたらす恐れがある」とし、伝統を無視した結論ありきの安易な議論に対して警鐘を鳴らしている。 今回の基本姿勢については、神社本庁の運営に皇室及び旧皇族の縁者が深く関わっていることなどから、立場上公に意見を表明できない天皇陛下の真意を代弁したものではないか、と推測する向きもある。

女性天皇問題について,男女平等(憲法14条)の見地から容認すべきとの意見も出されている。もっとも,これに対しては,皇室制度はそもそも日本国憲法の基本原理とは相容れない制度(「憲法の飛び地」(長谷部恭男)。「制度体保障」(石川健治)。)であり,平等主義の適用は失当とする反論がなされている。皇室制度に期待されるものとして国家の安定をもたらすことが挙げられるが、女性天皇が即位し女性の皇位継承権が認められた場合、何年後のことであれ、皇位継承権の正当性を巡って内乱・内戦となる可能性があり、国家が複数に分裂する事態も否定し得ない。また、時の政治的・軍事的実力者が皇族女性との婚姻を通じて皇統の簒奪を企図する危険性も憂慮されるところである。国民の多くが女性天皇の即位について寛容であるとの報道もあるが、このような様々な問題点についてどれだけ考慮されているか疑問であり、旧皇族を始めとする男系男子に限定した皇族の養子容認案や側室制度復活の可能性も含め、国民の多くがより一層この問題に深い関心を持つことが期待される。

国体論争

大日本帝国憲法では、天皇は統治権の総攬者とされていたのに対し、日本国憲法では日本国・日本国民統合の象徴とされ、かつ国民主権原理を採用したため、日本国憲法の制定により日本の国体が変わったか否かについて起きた論争。

特に、尾高・宮沢論争佐々木・和辻論争が有名である。

国家元首としての天皇と憲法改正に関して

自民党憲法改正試案、民主党鳩山氏憲法改正試案、民主党小沢氏憲法改正試案、6省庁を主務官庁とする中曽根元総理属する財団法人世界平和研究所憲法改正試案が、国家元首を天皇にすべきと提言している。 議案提出権を有しない衆議院憲法調査会、及び議案提出権を有しない衆議院憲法調査会では天皇の地位に関して現在も議論中であり、結論は出ていない。また両院憲法調査会で、そもそも天皇制を廃止すべきとの意見は出なかった。読売新聞憲法改正試案では天皇制は現状維持と述べている。

外交儀礼における天皇の相対的地位

外交儀礼(プロトコル。国際礼譲)における天皇の位置付けについては、国際的な慣行により次のような扱いがなされる。

  • 天皇・皇帝・女帝(Emperor、Empress) ≧ ローマ教皇(Pope) > 国王・女王(King、Queen) > 大統領(President) > 首相(Premier)

2005年現在の世界では国家元首等のうち皇帝級の職位を称するのは日本国天皇のみとなっている。「学問上の定義として天皇と皇帝は異なる」と主張する一部の学者等からは英訳呼称として Emperor でなく Tenno が提唱されることもあるが、実際の国際慣行においては日本国天皇は皇帝(エンペラー、カイザー)として扱われている。

プロトコル(プロトコール)の厳然たる存在を示す実例としては、国際的な場において同席する際にイギリスのエリザベス女王が天皇に上座を譲ること、天皇・皇后訪米の際アメリカ大統領が空港へ白ネクタイ(ホワイト・タイ)で出迎えること(この歓迎方法は米国大統領にとって最敬礼のものとされており、現在その対象となるのは日本国天皇、ローマ教皇、英国国王のみ)などが挙げられる。

なお、これらの扱いはあくまで外交儀礼上かつ相対的なものであって、現実の国際社会の様々な局面においてまで「日本国天皇が世界中で最も地位が高い・権限がある」等々のことを示すものではない。

海外からみた天皇

天皇の訳語は英語で皇帝を表す「エンペラー」と呼ばれ、おおむねの国はこのような訳語を使用している。ただ大韓民国では。皇帝とは複数の国を治める王のことであり、天皇は日本一国のみの統治者であるとして。皇帝より一段低い呼び名である王を使い、日本の王という意味である「日王」と言う呼び方をしている。なお、韓国でこのような呼び方がされる理由には、韓国併合後、高宗の呼び名を「皇帝」から「王」にされたためとも、反日感情のためとも言われている。

関連項目

外部リンク