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F-15 (戦闘機)

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F-15 イーグル

F-15はマクドネル・ダグラス社(現ボーイング社)の開発した制空戦闘機。愛称はイーグル)。


概要

ワシントンD.C.上空を飛行する第71戦闘飛行隊所属のF-15C

第4世代ジェット戦闘機に分類される、長射程ミサイルの運用能力と高性能なレーダーを持つ双発の大型制空戦闘機である。また、F-15の操縦士は「イーグルドライバー」と呼ばれる。アメリカ空軍の保有・運用したF-4の後継として開発された。

二枚の垂直尾翼を持つとはいえ、平凡な平面形の主翼に水平安定版を組み合わせた保守的な設計のまま、当時としては画期的な機動性を実現した機体である。採用国は2007年現在までに空戦における被撃墜記録はないとしている[1]。単座型と複座型の2種類があるが飛行性能・戦闘能力に大きな差はない。

一機当りのコストが約3,000万ドル(アメリカ空軍での単価)と高価な機体となったため、アメリカ空軍ではF-16との「Hi-Lo-Mix」運用を甘受し、また購入可能な国は限られた。それに加えてその能力から政治的・軍事的に親密な国への売却に限られた結果、新造機からの運用はアメリカの他イスラエル日本サウジアラビアの3ヵ国のみの総計1,233機(ライセンス生産を含む)で終わった[2]。F-4と共に冷戦下のアメリカ空軍とマクドネル・ダグラス社を代表する戦闘機といえる。

現在では主力から、派生型のF-15Eや、後継機であるF-22へ移行中である。

開発の経緯

前史

1956年に配備の始まったサイドワインダーを装備したF-86が、1958年台湾海峡における金門砲戦時の大規模な空中戦などで戦果をあげた[3]。これを受け、アメリカ空軍では今後の戦闘機同士の戦闘は「遠距離から射程の長いミサイルを発射して相手を撃墜するものになる」という「ミサイル万能主義」が主流となり、対空兵装としての機銃は軽視されるようになっていった。また、1950年代ソ連によるM-4バイソンTu-95ベアといった新型爆撃機の配備を重大な脅威と看做して、対抗する必要を唱える「ボマーギャップ」論が広まった。そのためにアメリカ空軍は、要撃機と爆撃能力の拡充に重点を置くこととなった。

これらの結果、新規開発の比重は対戦闘機戦闘を主目的とした制空戦闘機から、(核)ミサイルによる爆撃機要撃のためのF-102を始めとした要撃戦闘機や、対地攻撃力を補充するF-105のような戦闘爆撃機に移っていった。当初F-86の後継とされたF-100も徐々に戦闘爆撃機に転用され、F-101F-104も運動性を軽視した仕様となった。

結果、アメリカ空軍にはベトナム戦争開始時期に充分な格闘戦能力を持つ機体が無く、緒戦での同士討ちに対する文民の反応として押し付けられた有視界外戦闘を禁止した交戦規定により、旧式のMiG-17相手の格闘戦闘に巻き込まれて苦戦を強いられた。幸運にも、1961年当時の国防長官ロバート・マクナマラの推し進めた空海両軍の機種統一により導入したF-4戦闘機が、比較的機動性に優れていたためベトナム戦争を凌ぐことはできた。

さらにマクマナラ国防長官はコスト削減と合理化を図るべく、空軍主体で開発する戦闘爆撃機を海軍向けに艦隊防空用の要撃機に発達させ共通化を図るTFX計画を進めたが、重量増加、エンジン(TF30)のストール、海軍用の新ミサイル(AIM-54)や新火器管制装置(AWG-9)の開発遅延といった問題が山積し、結局、空軍用のF-111Aのみ実用となった。だが、ようやく実用化に漕ぎ着けたF-111Aもコスト高や運動性能等の問題を抱えていた。

F-X開発

海軍はTFX実用化断念後の1965年に、次期戦闘攻撃機VFAX(後に中止)や次期戦闘機VFX(後のF-14)の開発研究を開始していた。空軍もF-111どころかF-4さえ重すぎて制空戦闘に不適と考え、同年4月、F-Xの開発研究に着手した。

1966年3月、ノースアメリカン・ロックウェルロッキードボーイングの3社とTactical Support Aircraft(戦術支援機)に関する4ヶ月間の概念作成研究契約を締結した。同年9月3社の研究結果の評価を完了したが、開発方針の決定には至らなかった。その概要は以下の通りである。

  • 機体重量約27トン(60,000lb+)
  • 瞬間最大速度マッハ2.7、最大速度マッハ2.5
  • 推力重量比0.75
  • F-111よりも良好な加速・上昇等飛行性能を有し、可変後退翼を備える
  • 中射程空対空ミサイル・爆弾を装備

この様な中、1967年7月に行われたモスクワドモジェドヴォ空港での航空ショーMiG-25が突如出現し、上空を高速で通過していった。ソ連はこの航空ショーに、MiG-23・MiG-25・Su-15を初めとした試作機や実験機を含む多種の機体を第3世代ジェット戦闘機として出品した。MiG-25の公開も周到に演出されたものであり、大きな衝撃を受けた西側の航空機専門家はソ連の意図通りにその実体以上の過大な評価を下した。アメリカ空軍首脳も公開された機体に対抗し得る機体を自軍に保有していないと考え、ソ連の爆撃機に加え、戦闘機にも危機感を募らせていった。

空軍での制空戦闘機の検討時期に、各方面のキーマンからファイター・マフィアと呼ばれる少人数のグループが出現していた。その中の一人、ジョン・ボイドは自らの「Energy-Maneuverity理論」を基にした判断によりF-Xの最初の提案要求(RFP)を却下し最終版に改定した[4]。 1967年8月にマクドネル・ダグラスおよびジェネラル・ダイナミクスの2社と、戦闘機に関する6ヶ月の概念作成契約を締結した。

モスクワ航空ショーの翌年の1968年9月に、アメリカ空軍は国内の航空機メーカー8社と研究契約を結びRFPを出した。RFPの主な内容は以下の通り。

  • マッハ0.9、高度30,000フィートにおける高G機動で異常振動を生じない
  • 上記空力特性を持つ翼を使い、広い飛行速度高度域で充分なエネルギー/運動能力を持つ
  • 空中給油、または増槽のみで大陸間の長距離回送飛行が可能
  • 搭載兵器は全任務に対して一人で操作可能
  • 現実的な空対空戦闘を想定して4,000飛行時間の疲労寿命の安全係数を4として試験で証明する
  • 最新の技術を利用した操縦席艤装を行い、特に近接格闘戦ではヘッドアップディスプレイを利用する
  • 理論整備工数は1飛行時間あたり11.3人/時
  • 構成機器の平均故障時間は上記整備工数内で対応
  • 操縦席の視界は360°確保すること
  • 主エンジンは機内設備のみで起動できること
  • 機体構造、電気、油圧、操縦装置は戦闘状況下で無事に基地に帰投できる高度の生存性を持つ
  • 対戦闘機戦闘装備状態の総重量は40,000ポンド(約18.1トン)級
  • サブシステム、構成部品、装備品は少なくとも試作品による実証済みのものに限る
  • 最大速度は高空においてマッハ2.5
  • 自機よりも低高度の監視能力を持つ長距離パルス・ドップラー・レーダーを備える

これらに加え、試作競争は実施しないことや空対空戦闘能力に重点を置く事も決定する。

1968年12月、提出された各社案を基にマクドネル・ダグラス、フェアチャイルドノースアメリカン・ロックウェルの3社を選出して、詳細提案のための6ヶ月の研究契約を結び、各社は期日通り設計案を提出した。フェアチャイルド社案は、胴体の両側の変形デルタの主翼の半幅にエンジンナセルを置き、二次元型空気取入口から排気口を一線上に配置した、双発一枚垂直尾翼の機体であった。ノースアメリカン・ロックウェル社案は、オージー翼を持つブレンデッドウイングボディ構成の胴体下に二次元型空気取入口を付けた、胴体内並列双発一枚垂直尾翼の機体だった。

これらに対しマクドネル・ダグラス社案の機体は、前縁45度というそれほど大きくない後退角を持つ、広い面積の主翼を持っていた。これは当時の超音速戦闘機には、まず採用されることのないものだった[5]。この時、マクドネル・ダグラス社は37,500ページにも及ぶ文書を提出、設計には大型計算機を用いて数千種類の機体形状を検討していた。

原型機発注
原型機
主翼先端及び水平尾翼の形状が異なるのがわかる

1969年12月にアメリカ空軍は、マクドネル・ダグラス社と開発契約を結んだ。設計主任はジョージ・グラーフ、空力担当にはドン・マルバーンが就任した。また、セントルイスの工場では2基の空対空戦闘シミュレーターが開発され、研究に用いられた。

本開発では900時間以上の設計改善が行われ、風洞実験では100種類以上の主翼形状の試験が行われた。風洞実験の結果、主翼前縁の高揚力装置を省く代わり、基本翼形のキャンバーを翼付け根前縁を頂点とした円錐に合わせて翼端では翼形全体までも湾曲させるコニカルキャンバーを与え、大迎角でも高い揚力が得られるようになり、これが前縁45度という後退角を持つ主翼を有するに至った経緯となる。

F-4の戦訓も生かされた。F-4は双発機であるにも拘らず、片方のエンジンが被弾すると両方のエンジンが停止したり、火災で墜落する例が見られた。このため、F-15ではエンジンの間に縦通材として組み込む等エンジン周りにチタニウムを多用し、消火システムの充実や燃料タンクの配置の工夫も行われた。

エンジンの開発はプラット・アンド・ホイットニーゼネラル・エレクトリックの2社が行い、1970年3月にプラット・アンド・ホイットニーがF100ターボファンエンジンの開発契約を結んだ。初期推力試験は1972年3月末までに終了し、1年後には型式証明を取得するための試験を終了させた。

レーダーはヒューズ社とウェスチングハウス社の提案から、1970年9月にヒューズ社のAPG-63レーダーを選定している。

固定武装のM61A1機関砲には、当初フィルコ・フォード社の無薬莢式の弾薬を使用する予定であった。だが、不規則な弾道性能が問題となり、フィルコ・フォード社からの開発期間の延長の申し入れを受け入れずに計画を撤回し、従来の弾薬を採用することとなった。

1971年2月、アメリカ議会上院歳出委員会はF-14とF-15の比較検討を行い、F-14はF-15の任務をすべて果たせるが、F-15はF-14の任務をすべて果たすことはできないとF-15の劣性を指摘し、空軍・海軍共に同じ機種を採用すべきとの、F-111の教訓を無視した意見が挙げられた。これに対し空軍は、F-14は艦隊防衛に特化した機体であり、F-15は機動性の高い制空戦闘機であると反論した。一方、アメリカ国防総省内部からはF-15を基本とした海軍型(艦上戦闘機)のF-15Nの検討を指示する動きもあった。

開発にあたり当初12機、1972会計年度で8機の前生産型を発注し、それぞれ以下のような作業や試験が割り当てられた。

F1 ( 1号機) (71-0280) 性能領域の探求、運用特性、外部搭載物試験
F2 ( 2号機) エンジン試験
F3 ( 3号機) 電子装備開発、気流速度計測(これ以降の機体はAPG-63火器管制装置を搭載)
F4 ( 4号機) 構造試験
F5 ( 5号機) 機関砲・兵装・兵装架射出試験(これ以降の機体はM61A1 ガトリング砲を搭載している)
F6 ( 6号機) 電子装備試験、及び飛行制御・ミサイル発射評価
F7 ( 7号機) 兵装、燃料、兵装架
F8 ( 8号機) 異常姿勢特に錐もみ特性、高迎角評価
F9 ( 9号機) 機体、エンジン適合評価
F10 (10号機) レーダー、電子装備の試験
T1 (11号機) 複座型評価。後にF-15S/MTDとなる
T2 (12号機) 複座型。マクドネル・ダグラス社の飛行実演機。後にF-15E試作機となる。
F11 (13号機) 実用試験
F12 (14号機) コンフォーマル燃料タンク装備機:実用試験
F13 (15号機) 実用試験
F14 (16号機) 気象環境試験。試験終了後にイスラエルに売却
F15 (17号機) 使用されず、イスラエルに売却
F16 (18号機) 実用試験、及び飛行実演後にイスラエルに売却
F17 (19号機) 「ストリークイーグル計画」に使用
F18 (20号機) 使用されず、イスラエルに売却

1972年6月26日に初号機がマクドネル・ダグラス社セントルイス工場で完成。同日、ロールアウトを記念した式典が行われた。

後日一旦分解され、C-5輸送機によりカリフォルニア州エドワーズ空軍基地への搬入・再組み立てを受け、7月27日モハーヴェ砂漠上空でマクドネル・ダグラス社チーフテストパイロットのアービン・L・バローズにより、約50分間の初飛行を実施した。1973年7月には飛行回数1,000回を数え、その間に最大速度マッハ2.5、最大到達高度18,290mを記録。

2年余りに及ぶ原型機による試験・評価作業による修正は以下の細部変更に止まり、原設計の堅実さを証明することとなった。

  • 主翼端後部の切り落とし
  • 水平安定板へのドッグ・トゥースの追加
  • エア・ブレーキの大型化とそれに伴う開度制限

特徴

機体
F-15C
外形はF-111F-14の可変後退翼、F-16ブレンデッドウィングボディといった新機軸を採用することなく、MiG-25A-5といった前例のある肩翼配置クリップトデルタ翼に双垂直尾翼と全浮動の水平尾翼を配置した堅実な構成となった。
主翼は基本翼形のキャンバーを翼付け根前縁を頂点とした円錐に合わせ、翼端では翼形全体までも湾曲させるコニカルキャンバーを与えることで前縁フラップを省略した、単純フラップと補助翼のみを動翼とした簡素なものである。主翼付け根の膨らみは、ストレーキ類似の離着陸性能と運動性向上の効果を持つ。この主翼付け根の膨らみは機関砲の内蔵スペースともなり、また、後方へ延長されて尾翼の取り付け部となっている。
胴体上面キャノピー後方に大型のエアブレーキを装備し、ドラッグシュートを廃止している。このエアブレーキは、アルミ・ハニカムと炭素繊維複合材(グラファイト・エポキシ)を組み合わせた軽量構造になっている。水平尾翼と垂直尾翼はチタン、間にアルミ・ハニカム、表面をボロン繊維複合材を使用し、軽量かつ強固な構造となった。他にも、軽量化と耐熱性強化のためにエンジン回りや主翼取り付け部の円矩など、各所に構造重量の25%以上に及ぶチタン合金を使用しており、外形からは窺えないF-15の特徴となっている。
機体最上面に張り出す涙滴型の風防は、単座型と複座型で大差がない程の大きな空間により、抵抗を増やさず360度の視界を確保している。初期の機体では高温強度の高いポリカーボネートにアクリルを拡散蒸着した材質だったが、紫外線による劣化で曇りが出たため強化アクリルガラスに変更された。
操縦系統は操縦桿・フットバーと舵面の油圧サーボ・シリンダーを機械的な結合で接続し、方向舵及び水平尾翼とのリンクに並行してCAS(Computer Augumentation System)を追加して安定増強や操舵補正を行っている。F-16のようなフライ・バイ・ワイヤとはなっていないが、機械的な結合が破損してもCASにより飛行を継続できる。しかしながら、F-16のようなCCVの概念の導入は不可能である。
電子装備
火器管制システムは高性能のレーダー(APG-63/70シリーズ)を中心とした高度の自動化設計により、単座運用を実現している。APG-63レーダーの最大探知距離は、小型戦闘機程度の投影面積である目標に対しては100マイルとされている。搭載のデータリンクを使用した早期警戒管制機(AWACS)との連携により、高度な迎撃能力を発揮する。機密性が高く輸出を許可していなかったTEWS(Tactical Electronic Warfare System:戦術電子戦システム)は、AN/ALR-56レーダー警戒受信機、AN/ALQ-128電子戦警戒装置、AN/ALQ-135内蔵妨害装置、AN/ALE-45 チャフフレア放出器を統合し、自動化を進めたものである。
エンジン
プラット・アンド・ホイットニー社のF100ターボファンエンジンを2基装備する。初期型のF100-PW-100でも1基当たり10,810kgの推力を発揮するため、最小飛行重量に近い状態であれば推力重量比は1を超え、主翼揚力を利用せずにエンジン推力だけで垂直に上昇できることになる。実用上は推力のみで上昇できることに意味はないが、十分な余剰推力は高機動下における急激な運動エネルギー損失の回復に活かされる。
胴体の左右にある二次元型空気取入口は、上方4度下方11度で可動し内部の可動式斜板やバイパス口と協調動作して様々な姿勢及び速度において、適切にエンジンへ外気を導入する。
持続時間制限を受けない最高速度はマッハ2.3であり、マッハ2.3を超え公称最高速度の2.5まではエンジン吸入空気温度その他の制限から1分間に制限されている。
なおF-15Aでも高度10,000ft~45,000ft格闘戦時基準重量33,000lb前後ならば戦闘時推力により、僅かながらマッハ1.0を超える速度での飛行が可能である。
武装
F-15Cの下面
F-15の武装はベトナム戦争の戦訓より固定装備とした右翼の付根前縁にある、装弾数940発のM61A1バルカン砲を始め、主翼下の2か所のパイロンの両側のサイドレールに計4発のAIM-9 サイドワインダー、胴体下面4か所のランチャーに計4発のAIM-7 スパローとなっている。
M61A1バルカン砲の940発という装弾数はF-4に比べて約50%増加しており、一秒間の射撃を14回行うことができる。機関砲の射線は空中戦用途を主として、機体の基準線から2度上に向けている。
スパローの電波誘導セミアクティブホーミング方式は、電波誘導アクティブホーミング方式ではミサイル自体で行う目標への電波照射を母機から行うため、誘導部が簡単で小型軽量になる代わりに命中まで母機の運動を制約するという欠点を持つ。このため、半導体技術の進歩により誘導部の小型化を果たしたアメリカ軍AIM-120 AMRAAM[6]航空自衛隊99式空対空誘導弾といった、電波誘導アクティブホーミングミサイルの運用能力がF-15に追加されている。
この他にも、各国向けの仕様の変更や使用武装の追加など様々な更新を制式採用以後も受けている。
拡張性
約30年も前に設計された機体であるが、将来の発展のための余裕を持った設計とされたため、ロシアのSu-27、国際共同開発のユーロファイター タイフーン、フランスのラファール等の新鋭機の登場した現在でも、各種の近代化改修(新型ミサイル対応、電子装備、エンジンの換装)によって第一線での任務をこなす能力を維持している。

ストリーク・イーグル

計画に使用されたF-15
機首部分に「STREAK EAGLE」の文字が読める
(画像は腐食防止のために再塗装されたもの)

F-15の性能を示す一例として「ストリーク・イーグル」がある。これは1975年当時の上昇時間記録に対して、F-15原型機の内の1機を使用して更新を狙ったアメリカ空軍による企画[7]である。名称中のstreakには本来の「電光石火の」という意味とともに、機体塗装を剥がしてしまった改装から、当時流行した裸で人前を走り回る「ストリーキング」をかけている。これは記録更新機自体の名称にもなった。

1962年に行われたアメリカ海軍の「プロジェクト・ハイジャンプ」においてF-4は3,000、6,000、9,000、12,000、15,000、20,000、25,000、30,000mの8高度までの到達記録を更新した。 それに対して1973年にソビエト連邦はMiG-25の特殊改造機(E266)により、20,000から30,000mまでの3つの記録を更新していた。本計画は国際機関の公認する上昇記録を、ソビエト連邦やアメリカ海軍から奪取することでアメリカ空軍の持つF-15の優位を誇示する狙いがあった。

原型5号機と19号機から約360kg軽い19号機を選び、レーダー・緊急用フック・機銃など不要な装備品を取り外し塗装すら剥がして徹底的な軽量化を図った。ただし、特別な推力装置の追加といった改修・改造を施してはいない。計測は1975年の1月16日から2月1日にかけてノースダコタ州グランド・フォークス空軍基地で空軍のロジャー・スミス少佐、W・R・マクファーレン少佐、デイブ・ピーターソン少佐の操縦により行われた。その結果、以下の様に8つの上昇記録をすべて更新した。機体の改修に要したコストは210万ドルだった。

到達高度 従来記録[秒] プロジェクト記録[秒]
3,000m 34.52 25.57
6,000m 48.787 39.33
9,000m 61.629 48.86
12,000m 77.156 59.38
15,000m 114.50 77.02
20,000m 169.80 122.94
25,000m 192.60 161.02
30,000m 243.86 207.80

ソビエトはこの記録更新に対して、同年5月にMiG-25の特殊改造機E-266Mにより25,000mを154秒、30,000mを189秒と更新していおり、現在ではSu-27/P-42が3,000mから15,000mまでの記録を更新しているため、F-15は20,000mの記録のみ保持している。

アメリカ空軍での運用

概要
第65アグレッサー飛行隊所属機(2007年)
Su-27のものを模倣した塗装が施されている
1976年バージニア州ラングレー空軍基地の第1戦術戦闘航空団がF-15Aを受領し、初の実戦部隊となる。以降、F-4F-104F-106といった旧式化した戦闘機と置き換える形でアメリカ国内の部隊や在日アメリカ空軍在欧アメリカ空軍の部隊へ配備が行われた。また、アメリカ空軍州兵への配備も行われた。
当初はF-15が制空戦闘機要撃機の役割を担う予定だったが、高価な機体であるためにアメリカ軍でも十分な数を調達し切れず、安価なF-16を開発して大量に配備する「Hi Lo Mix(ハイローミックス)」運用となっている[8]。この体制は、後継機種であるF-22F-35にも引き継がれる。
最終的なアメリカ空軍のF-15A/B/C/D購入数は911機で、2007年11月現在でも442機を保有している。
当時、要撃機として運用されていたF-106の老朽化が進み、その後継としてアメリカ海軍F-14と採用を争った。しかし結果としてどちらにも決定されなかった。結局はF-106が退役するに伴い、なし崩し的にF-15とF-16が要撃任務を引き継ぐ恰好になっている[9]
現在は派生型のF-15Eや、後継機であるF-22の調達により数を減らしている。
配備開始
アメリカ空軍はまず、1974年11月14日にアリゾナ州にあるルーク空軍基地の第58戦術戦闘訓練航空団に複座型の量産一号機を配備し、以降も優先的にこの部隊へ配備を進めた。この部隊では後に編成される部隊の中核要員として、ベトナム戦争の従軍経験のあるF-4やF-104の飛行経験が豊富な操縦士を主体に機種転換訓練を実施した。
1976年1月9日バージニア州ラングレー空軍基地の第1戦術戦闘航空団が、F-15Aと機種転換訓練を終えた操縦士の編入により最初の実戦部隊となった。以降はアメリカ国内のF-4部隊の更新が続き、1979年までにニューメキシコ州ホロマン空軍基地の第49戦術戦闘航空団、フロリダ州エグリン基地の第33戦術戦闘航空団がF-15A/Bの受領を開始した。
また、1980年からは生産がF-15C/Dに切り替わり、F-4およびA/B型を並行して更新することとなった。F-15C/Dの配備は迅速に行われ、同年8月には海外の部隊も含めたすべての実戦部隊がC/D型の受領を完了した。余剰となったF-15A/Bは第58戦術戦闘訓練航空団の後身である第405戦術訓練航空団や、新たに編成されたフロリダ州ティンダ空軍基地の第325戦術訓練航空団へ配備された。また、アメリカ空軍の予備部隊とも言えるアメリカ空軍州兵(Air National Guard)へ、2005年には第65アグレッサー飛行隊へ余剰となったF-15の配備も行われている。
海外の部隊への配備
アメリカ本土以外での最初の配備は、1977年1月5日から西ドイツ西部のビットブルク空軍基地駐留の第36戦術戦闘航空団へ行われ、F-15A/Bの約80機、3個飛行隊が編成されワルシャワ条約機構軍攻撃機の迎撃の任務に就いた[10]1980年からは順次F-15C/Dへと更新されている。
次は1978年9月に、オランダのソエステルベル基地第32戦術戦闘飛行隊に配備された。アムステルダムに近いこの基地が選ばれたのは、ワルシャワ機構軍が西ドイツに侵攻する場合、ソビエト軍の長距離爆撃機が北海バルト海から侵入すると予想されていたためである。
1985年には、アイスランドの第57戦闘迎撃飛行隊に配備されたF-4と入れ替えが行われた。この部隊もソビエト軍長距離爆撃機の迎撃任務を主としていた。
極東では1979年日本嘉手納空軍基地に所属する第18戦術戦闘航空団の老朽化したF-4の交替機としてF-15C/Dを順次配備し、1980年8月に3個飛行隊すべての更新を完了した。
配備基地
アメリカ国内
太平洋空軍
在日アメリカ空軍
在欧アメリカ空軍
  • レイクンヒース基地(イングランド) - 第48戦術戦闘航空団第493戦闘飛行隊
アメリカ空軍州兵
  • フロリダ空軍州兵(ジャクソンビル国際空港) - 第125戦闘航空団第159戦闘飛行隊
  • ハワイ空軍州兵(ヒッカム空軍基地) - 第154航空団第199戦闘飛行隊
  • マサチューセッツ空軍州兵(バーンズ空港) - 第104戦闘航空団第131戦闘飛行隊
  • モンタナ空軍州兵(グレートフォールズ国際空港) - 第120戦闘航空団第186戦闘飛行隊
  • オレゴン空軍州兵(ポートランド国際空港) - 第142戦闘航空団第123戦闘飛行隊
  • ルイジアナ空軍州兵(ニューオルリンズ海軍基地) - 第159戦闘航空団第122戦闘飛行隊
冷戦の終結以降は旧東側、現在では北大西洋条約機構(NATO)の一員となっているルーマニアのコスタンツァ基地など、多くのNATO軍基地にF-15が展開している。
一方で、後継機のF-22などの配備に伴い更新が進められている。
まず、2005年にラングレー空軍基地の第1戦闘航空団に編成されている3個飛行隊のうち、2個飛行隊がF-22に更新された。2006年にはアラスカ州エルメンドルフ空軍基地とニューメキシコ州ホロマン空軍基地、ハワイ州ヒッカム空軍基地への更新・配備が行われた。フロリダ州ティンダル空軍基地の転換訓練飛行隊への配備も行われる予定である。
F-15 ASAT
ASAT発射実験
1983年、当時のロナルド・レーガン大統領の推し進めた一連の「SDI計画」(スター・ウォーズ計画)の中に、F-15を衛星攻撃ミサイルの発射母機とする計画が存在した。
古くは1962年F-4を発射母機とする「カレブ」という四段式固体燃料ロケットの開発、及び二段式ロケットの発射実験を行ったのが始まりである。
この実験では、SDI計画の発表以前の1979年からボート社に発注されていた二段式の試作型攻撃破壊ミサイル「ASAT」を使用した。弾頭部はその形状から「フライング・トマト・キャン」と呼ばれた。空中発射実験は1984年1月12日に、実際に軌道上の目標に対する発射実験は1985年9月13日に行われた。
これらは計画の大幅な見直しで実験が中断され、「ASAT」とパッケージ化されアメリカ西部海岸防空の為に編成された第318迎撃戦闘飛行隊も解散した。また、計画の一部はMD計画に引き継がれている。(衛星攻撃兵器ミサイル防衛も参照のこと)
実戦投入
アメリカ軍所属のF-15の初の実戦は1990年に発生した湾岸戦争であり、初飛行から18年後となる。
湾岸戦争
1990年8月2日イラク軍は隣国クウェートに侵攻し約4時間でクウェート市を占領、8月6日にはサウジアラビア国境付近まで展開した。これに対してサウジアラビアはアメリカ合衆国を含む友好国に派兵を要求、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領(当時)は即座に派遣を決定した。要請の翌日である8月7日から、バージニア州ラングレー基地の第1戦術戦闘航空団第71戦術戦闘飛行隊の24機のF-15Cは10回以上の空中給油を繰り返し大西洋から地中海まで13,000kmを15時間無着陸で横断し、アメリカ軍で最初に派遣された部隊ともなった。
この派遣を皮切りに、当時最新鋭だったF-15Eを含むアメリカ空・海軍の飛行隊が、順次サウジアラビア入りした。11月29日国際連合にて「国際連合安全保障理事会決議678」が採択され、イラク軍のクウェートからの撤退期限を1991年1月15日としたが、それまでの間のサウジアラビアへの部隊配備や物資輸送作戦を「砂漠の盾」作戦と呼称し、F-15は24時間のフル稼働で戦闘空中哨戒を行った。
イラクは1月15日の撤退期限を無視。このため多国籍軍は、1月17日「砂漠の嵐」作戦(Operation Desert Storm)を発動させる。同日の早朝、イラク領内の爆撃のためにF-15EやF-111などの護衛として4機のF-15Cが出撃した。イラク上空を警戒中の早期警戒管制機E-3が所属不明機の機影を捉えて連絡、F-15はIFF(敵味方識別装置)での識別後、AIM-7Fを発射。パイロットのテイト大尉がアメリカ空軍のF-15による最初の撃墜を記録することとなった。この撃墜は湾岸戦争での最初の撃墜記録ともなっている。同日、この撃墜を含め3機のMiG-29と3機のミラージュF1の撃墜が確認されている。
以降の作戦期間中、アメリカ空軍所属のF-15(E型を除く)は38機のイラク軍機を撃墜し、自軍機の被害はゼロだった。撃墜した38機のうちの約六割がAIM-7による撃墜である。
この一方的な戦果には、湾岸戦争の交戦規定ではベトナム戦争では禁じられていた目視外距離戦闘が許可された影響が大きい。IFFの照合のみで敵味方を判断してAIM-7を使用することで一方的に撃墜でき、さらにE-3などの早期警戒管制機とのデータリンクによって成果を上げている。皮肉にも、ベトナム戦争で果たされなかったミサイルキャリアーの概念を、ベトナム戦争の戦訓から生まれた格闘戦闘機F-15が実現したといえる。
コソボ紛争
コソボ紛争にもF-15は投入された。しかし、空中戦がほとんど発生しなかったため、AIM-120によってMiG-29を4機撃墜したに留まっている。
イラク戦争
第1戦闘航空団第71飛行隊所属のF-15が、2003年イラク戦争でイラク軍のミラージュF1を撃墜している。
近代化改修
現在、アメリカ空軍のF-15はMSIP-1及びMSIP-2と呼ばれる近代化改修を行っている。
MSIP-1
F-15A/Bに対して段階的に行われた近代化改修。レーダーをAPG-63 (V) 1へ、エンジンをF100-PW-220へ交換し、あわせて電子戦機器の近代化を行った。改修対象外となった多くの機体はモスボールされている。これらについて一時ボーイング社が東欧諸国へC/D相当に改修した上での売却を計画していた。
MSIP-2
F-15C/Dに対して1989年から行われた近代化改修。レーダーをAPG-70、更にAPG-63 (V) 1[11]へ、計器のデジタル化、AIM-9Xに対応した機器(JHMCS等)の追加、リンク16への対応等を段階的に行う。
21世紀を迎えて
冷戦構造下の1980年代において、F-15の後継機の開発のための「先進戦術戦闘機計画」により、ステルス戦闘機F-22が開発された。だが、ソ連崩壊による冷戦の終結で、1996年末より運用を開始するはずだったF-22の開発・配備計画が先送りとされ、アメリカ空軍に配備されていたF-15に前述の近代化・延命改修が施され、AIM-120やAIM-9Xなどの新型ミサイル、JHMCSなどの新型機器の運用が追加された。
こうして、第4世代ジェット戦闘機の中でも初期に出現した機体ながら諸外国の戦闘機と十分渡り合える性能を維持し続け、2025年を目処に現用の442機のF-15C/Dを全機退役させる予定だった。ところが、2007年10月2日に発生したF-15Cの空中崩壊事故を受けて全機を検査した結果、うち180機で金属疲労による老朽化が判明し、当該機を即退役とするために当初の機材繰り予定の大幅な変更を余儀なくされる公算が高まりつつある。しかし、2008年アメリカ合衆国大統領選挙で、バラク・オバマ大統領に当選したことからF-22の生産ラインの閉鎖がほぼ確実視されている為、一部8,000時間とした寿命を10,000時間に引き上げるなどの対策を行っている。

世界のF-15

F-15採用国
水色はF-15のみ、赤はE型のみの採用

当初は高価な戦闘機だったため、アメリカ政府はF-15の輸出による機体単価の低減と外貨獲得を目論み、国防上のリスクの低い友好国への積極的なセールスを実施した。ただし結果としてその高価格がネックとなり、諸外国での採用例は少ない。

最初の提案先は、王政時代のイランだった。アメリカと比較的良好な関係にあった当時のイランは(イランの歴史も参照)、ソ連軍の偵察機による度々の領空侵犯への対策として新型戦闘機の導入を計画した。マクドネル・ダグラス社は過去にイランに対してF-4の輸出実績があったため、同じく候補に挙げられていたF-14と競争して売り込みを行った。しかし、イランはF-15の対空火器に加えてAIM-54フェニックスミサイルを運用できるF-14を1973年に選定した。しかしながら、同時期に提案していたイスラエルサウジアラビアではF-15を採用している。

1970年代末には先進国に対する売り込みを図ったが、比較検討を実施したオーストラリアカナダでは価格を理由にF/A-18を採用するなど実績に乏しかった。唯一、日本航空自衛隊1976年12月次期主力戦闘機として採用した。

結局、イスラエル日本サウジアラビアの3か国での採用に終わった基本型は米軍向けや日本でのライセンス生産を含めても1,233機で2007年に生産を完了した[12]

これら採用各国空軍においては、現在でも第一線に配備されており、今後も長く運用される見通しである。また、各国において近代化改修の計画・実施が行われている。

イスラエル

翼下にパイトン3を装備したF-15A
概要
第四次中東戦争におけるF-4の多大な消耗を受けて、早急な戦力回復を図りF-15を導入した。1975年に最初の導入計画を立案し、原型機を含むF-15A/Bを25機発注する。以降段階的に発注を行い、総計でA/B型を44機とC/D型27機の71機を保有する。
ピースフォックス
古くはフランスから軍用機を調達していたイスラエルが、第三次中東戦争後のフランスによるイスラエルに対する武器輸出の禁止を受け、アメリカから軍用機の供給を図ることとなった。その結果1969年よりF-4EやA-4を調達している。しかし、ヨム・キプール戦争(第四次中東戦争)における当時の主力戦闘機F-4Eの多大な損耗(27機を喪失)により、早急に戦力の回復が必要となったため、1974年から次期主力戦闘機の選定を開始。翌年に、ほぼ無競争でF-15の導入を決定した。イスラエル空軍は1975年5月に25機のF-15A/Bを発注する。アメリカ側ではこの計画を「ピースフォックスI」と呼んだ。国情からイスラエルは配備を急いだため、アメリカ空軍は保有の原型機16、17、18、20号機を量産型に改修して1976年5月に引き渡している。
以後、残りの21機を1976年末に引き渡され(ピースフォックスII)、イスラエルは初のF-15A/Bによる部隊「第133飛行隊」を編成した。その後もF-15C/Dタイプを1978年(ピースフォックスIII)と1989年(ピースフォックスIV)までに導入し、合計でF-15A/Bバズ(38機/6機)、F-15C/Dアケフ(16機/11機)の71機を導入した。なお、1994年からF-15Eのイスラエル仕様である「F-15I」の導入を開始している(ピースフォックスV、詳細はF-15E (航空機)を参照)。
機体
国産の対空ミサイルパイソン3の運用能力を追加した。アメリカからの輸出時点では核兵器搭載能力を削除している。TEWSの輸出を認められなかったために、「AN/ALQ-119 (V) ジャミングポッド」「エルタAL/L-8202ジャミングポッド」「AN/ALQ-132フレアポッド」を装備している。
イスラエル空軍は長らく使用していた独自のデザート迷彩をF-15に施したが、近年ではアメリカ空軍航空自衛隊のような制空迷彩へと変更している。
近代化改修 パス2000 (バズメショパー)
1995年開始されたF-15近代化改修プログラムBaz-2000により、INS/GPS航法装置、機内ジャミング発生装置の装備、AIM-120対応及びイスラエル国産ミサイル ダービー、パイソン4、5への対応、DASHヘルメットキューイングシステムの装備、セントラルコンピュータの換装及びF-15E相当のグラスコクピット化を行っている。
実戦投入
初の実戦参加と戦果
1977年6月27日レバノン南部のPLOキャンプ攻撃の任を帯びたF-4とA-4をクフィルと共に護衛中、8機のシリア空軍所属MiG-21機と交戦し、一方的にサイドワインダーにて4機を撃墜した(イスラエル側の主張。クフィルの撃墜分を合わせて計5機を撃墜し、2機に損傷を与える)。
この戦闘で最初にミグを撃墜したパイロットはマグダネル・ダグラスのF-15開発チームに対して世界で最初に戦果を挙げると約束し、それを成し遂げた。
ガリラヤの平和作戦
1982年レバノン侵攻作戦で計40機のシリア空軍機を撃墜した(イスラエル側の主張)。また地対空ミサイル陣地への対地攻撃も実施した。オブザーバーを送っていたソ連は、この戦闘の間にシリアMiG-23MLが3機のF-15を撃墜しているとしたが、西側諸国は認めていない。シリア側ではこの他にMiG-21もF-15の撃墜を記録しているが、これはMiG-21の放ったR-3ミサイルがF-15に突き刺さって大破した状態で帰還したという例がある。このようにF-15は当初計画通りの高い生存性を発揮している。
事故
片翼着陸
1983年に防衛任務の演習中にA-4とF-15Bが空中接触し、ほぼ片翼を失ったF-15が15キロメートル離れた基地への着陸に成功した。その時のパイロット、ズィヴィ・ネヴィーディ大尉は着陸後に自分の機体を見るまで片翼で飛行していた事実を知らなかった。日中戦争における九六式艦上戦闘機のパイロット樫村寛一など、片翼を失った機体が生還した例は特に珍しいものではないが、過去のそうした例は操縦士の技量によるものであり、操縦士が片翼を失ったことを知らずに継続飛行していたというのは、本機の高い生存性を示すものといえる。
墜落
1988年8月15日、訓練飛行中に2機のF-15が失われた。この事故で中佐少佐の2名の飛行経験豊な操縦士が死亡した。

日本

F-15J(2003年
概要
日本航空自衛隊第3次F-Xにより主力戦闘機として、単座 F-15C の日本型 F-15J 165機と複座 F-15D の日本型 F-15DJ 48機の合計213機を調達した[13]。一機当たりの調達価格は約120億円[14]。最初はマクドネル・ダグラス社からの輸入で始まったが、のち三菱重工業でのノックダウン生産ライセンス生産による調達が行われた。
導入後、11機(J型:8機、DJ型:3機)を事故で失ったが、2008年現在でも202機を運用しており、アメリカに次ぐ大量保有国となっている。F-15J/DJの配備は旧式化したF-104J及びF-4EJを更新する形で進み、1986年頃からはF-4EJの機数減少とF-104Jの全機退役によって、数の上でもF-15Jが主力戦闘機となった。
航空自衛隊とアメリカ空軍のF-15に細かな装備を除いて外見的な違いはないが、迷彩塗装の色調はアメリカ空軍のものに比べて明るい。また、2005年のアメリカ空軍での再編成までアグレッサー部隊でF-15を使用していたのは航空自衛隊の飛行教導隊だけだった。一方で、F-15保有国では日本のみがF-15Eを採用していないが、これは対地及び対艦攻撃任務はF-1支援戦闘機(退役済み)とその後継のF-2が担っているためである[15]
導入からやがて30年経ち、細かな近代化改修を重ねながらも、その優れた性能から現在も航空自衛隊の主力戦闘機として日本の防空任務を担っている。
導入経緯
1974年に提出された来年度予算案にて、初めて主力のF-104J/DJF-4EJの後継機、第3次F-X調査費が盛り込まれた。
翌年の調査では13種挙げていた候補から
の7機種に絞った。この7機種に対して、防衛庁は調査団をそれぞれ派遣した。1976年には調査結果をもとにF-14、F-15、F-16の3機種を候補として選出し、再度調査団が派遣された[16]
その最中、1976年10月入間基地で行われた「第5回国際航空ショー」では、F-14とF-15の熾烈な売り込み合戦が行われた。この時点でF-X選定作業はほぼ完了し、F-15の導入がほぼ確実とされていたが、グラマン社は起死回生を狙い、西太平洋を航行していた原子力空母エンタープライズ」のアメリカ海軍第二戦闘飛行隊の艦上戦闘機、F-14を呼び寄せた。対するマクドネル・ダグラス社も、アメリカ建国200年記念塗装を施し増槽タンクを装備したF-15Bをアメリカ本土より飛来させた。F-14とF-15の二機はその飛行性能を最大限に主張すべく、展示飛行を行った。無論、他のF-X参加企業も自社ブースにて宣伝活動を行うが、前者の二社には及ばなかった[17]
正式採用
1976年2月、航空自衛隊は次期主力戦闘機としてF-15J/DJを正式採用し、アメリカ側はこのF-15導入計画を「ピースイーグル計画」と呼称した。1978年昭和53年)度予算で初めて調達され、1980年(昭和55年)7月にマクドネル・ダグラス社のセントルイス工場で最初の機体が引き渡された。10月にエドワーズ空軍基地での29回の飛行検査後、一旦アメリカ空軍に返され、3月1日にアメリカ軍パイロットにより嘉手納基地に空輸され、そこでアメリカ軍マークを日の丸に描き直した。
航空自衛隊パイロットの適合訓練の終了を待った約1か月後の3月27日に岐阜基地へ空輸された。そこで到着したばかりの2機のF-15Jをバックに、防衛庁関係者や企業関係者による記念撮影が行われている。なお、この最初の2機(02-8801/802)は三菱重工で再組み立てを受けている。続く8機(12-8803 - 22-8810)はノックダウン生産、残りは部品を国産化したライセンス生産で155機(22-8811 - 82-8965)を調達した。
F-15DJはJ型と同時に、最初の12機(F-15C/Dのblock 26相当、12-8051 - 52-8062)を完成品輸入、8機(82-8063 - 92-8070)をノックダウン生産、28機(02-8071 - 92-8098)をライセンス生産で調達した[18]
製造に関わった国内企業は、以下の通りである。
企業名 担当
三菱重工業(主契約社) 前・中部胴体、機体最終組立て
川崎重工業 主翼、後胴、水平・垂直尾翼
住友精密工業 脚部
富士重工業 前脚・主脚扉、チタン合金ケミカルミリング加工
日本飛行機 パイロン、AAMランチャー
新明和工業 機外燃料タンク
石川島播磨重工業 F100エンジン
日特金属工業株式会社
(現在は住友重機械工業に吸収合併)
20mm機関砲システム
三菱電機 火器管制レーダー AN/APG-63、UHF無線機 AN/ARC-164、UHF/DF装置 OA-8639/ADR、インディケーターグループ OD-60/A、姿勢方位基準装置 AN/ASN-108、対気諸元計算装置 AN/ASK-6、セントラルコンピューター CP-1075/AYK
日本電気 タカン装置 AN/ARN-118(V)
日立製作所 データリンク装置 J/ASW-10
東洋通信機 IFF応答装置 AN/APX-101(V)、IFF質問装置 AN/APX-76A(V)
島津製作所 ヘッド・アップ・ディスプレイー AN/AVQ-20
東京芝浦電気 リードコンピューティング・ジャイロ CN-1377/AWG、慣性航法装置 AN/ASN-109
東京計器製作所 レーダー警報装置 J/APR-4
J型の生産は1998年11月4日の165号機[19][20]、DJ型は1999年10月25日の48号機(92-8098:098号機)で終了し、12月10日までに合計213機の配備となった。
部隊配備
F-15J/DJは、F-104飛行隊である200番台の飛行隊、及びF-4飛行隊である300番台の飛行隊に配備された。1981年(昭和56年)12月7日に、アメリカ合衆国ルーク空軍基地でアメリカ空軍要員と共に訓練を受けた操縦士が中心となり、宮崎県新田原基地に臨時F-15飛行隊が編成され、1982年(昭和57年)12月21日に第202飛行隊(元F-104J配備)に改編した。F-15J要員の転換訓練部隊でもあった第202飛行隊には、F-15J型の複座型であるF-15DJが集中的に配備された。以後、1993年(平成5年)までに203、204、201、303、304、305の各飛行隊をF-104J/DJ、F-4EJからF-15J/DJ飛行隊に改編した。
飛行教導隊1990年(平成2年)に5機のF-15DJを受領し、使用機をT-2から更新した[21]
1997年(平成9年)3月には第306飛行隊が第8飛行隊(支援戦闘機部隊)にF-4EJ改を譲ってF-15J/DJ飛行隊へと改編し、8個飛行隊編成となった。その後、T-2での教育を終えた操縦士の機種転換訓練を行ってきた第202飛行隊は、教育飛行隊の新設にともない解隊され、1999年(平成11年)8月3日にF-15臨時飛行教育航空隊が発足し、2000年(平成12年)には正式に第23飛行隊となり、現在は7個飛行隊となっている。
F-104Jが実戦部隊から退いた1986年(昭和61年)からは主力戦闘機として使用している。なお、事故で11機が失われ、2008年9月12日時点で保有数は202機である。
航空自衛隊機は製造番号がアメリカ空軍と同じ7桁表記(xx-xxxxと表記は同じだが、番号の持つ意味が異なる)になっているが、下3桁が機体記号であり、この3桁は各機体の種類別に割り当てられた番号で、F-15Jは801から965、F-15DJは051から098である。
機体
F-15J/DJはF-15C/D型を原型とするが、TEWSを提供されなかったためレーダー警報受信機と機内搭載電子妨害装置は国産品を開発し、チャフ・フレアディスペンサーを個別に輸入してJ/TEWSを構成し代替している。このため、アメリカ空軍向けF-15では左の垂直尾翼先端に内蔵され非対称となっているIRCM装置が取り付けられていないため、左右対称の垂直尾翼を有する[22]
なお、独自装備の一つとしてBADGEシステムから時分割データを受信する日立製作所製「J/ASW-10」を搭載している。
1992年(平成4年)10月17日第305飛行隊の72-8884号機が訓練中に操縦不能となり、操縦士が脱出時に頭部を風防へ強打し死亡した事故の対策として射出時にキャノピーを破砕する装置である、キャノピーブレーカーを追加装備している。
電子機器類の技術移転が少なかったこともあり、国内メーカーからは割に合わないとの不満もあった。一方で、F-15と同時に国産化されたAIM-9LをF-4EJ及びF-4EJ改にも装備できるようになった。[23]。兵装についてはF-15C/Dのものに加え、近年では国産ミサイルである90式空対空誘導弾(AAM-3)と99式空対空誘導弾(AAM-4)を搭載する。
三菱による生産中に何度か機体仕様が変更されており、大まかに分類すると2種類のタイプに分かれる。一般に導入初期の機体をPre-MSIP機、導入中期から機体をMSIP機と呼称している。
Pre-MSIP
1981年(昭和56年)から1984年(昭和59年)までに調達した機体のことを、便宜的にPre-MSIP機と呼称する。該当機体は、F-15J 97機(02-8801号機から82-8898号機)とF-15DJ(12-8051号機から52-8062号機)である。 F-15Jの42-8832号機は1991年(平成3年)に地上滑走中の暴走事故により機首部を損傷したため、三菱重工業に陸送され、MSIP機として修理再生され、後に小松基地306飛行隊所属となった。
チャフ/フレアディスペンサーは1983年(昭和58年)に調達された機体から装備されている。
J-MSIP(Japan-Multi-Stage Improvement Program)
日本多段階能力向上計画。米国のMSIPと同様、日本でも調達中に独自の能力向上を実施した。1985年(昭和60年)以降に調達された機体(F-15Jの82-8899号機以降、F-15DJの52-8063号機以降)に適用される。またPre-MSIP機にも順次適用され、不具合などで緊急に定期修理(IRAN)入りしたPre-MSIP機にも施されている(正確な数は不明)。MSIP機の最低保有数は105機(J型の損失機はすべてPre-MSIP機)。
Pre-MSIPとの違いは以下の通り。
  • セントラルコンピューターの処理能力向上と新型空対空ミサイル(AAM-4)搭載のための火器管制装置の性能向上に向けた電気配線の追加。
  • 兵装制御盤をアナログ式から画面式に変更。
  • F-15J 42-8944号機以降、F-15DJ 52-8088号機以降の機体に、エンジンを電子制御して耐久性が向上したF100-IHI-220Eへ変更。
  • F-15J 62-8958号機以降にはJ/APQ-1後方警戒レーダーを追加装備。
F-15J/DJ新型空対空ミサイル対応改修
当初はF-15J/DJのMSIP機の定期修理(IRAN)時に行われていたが、最近ではMSIP機を対象とした近代化改修計画に組み込まれている。
改修内容は、AIM-120Bの試験運用時に製作されたプログラムの書き換えと搭載インターフェイスの変更により、AAM-4とAIM-120双方の運用能力を追加するもので、具体的な改修機の数は公表されていない。
改修機の外見での識別点は以下の二点だが、機体の近くに寄ってU-106/Aを確認する以外の有効な確認方法がないため、識別は困難である。
  • St.3及びSt.4、St.6及びSt.7のAU-106/Aミサイルランチャー中央部の製造者銘板を前方に移動し、銘板のあった位置のやや後方にコネクターを追加。
  • ミサイル取り付けリング中央部のワイヤーの除去。
対地攻撃能力について
防衛庁(当時)による昭和53年3月4日付け「F-15の対地攻撃機能と空中給油装置について」では、「ある程度の対地攻撃機能を付随的に併有しているが、空対地誘導弾や核爆撃のための装置あるいは地形の変化に対応しつつ低空から目標地点に侵入するための装置を搭載しておらず、この機能は、主として目視による目標識別及び照準をおこなうことができる状況下において、通常爆弾による支援戦闘を行うための限定されたものである。
なお、F-15は、対地攻撃専用の計算装置などを有しておらず、対地攻撃の機能に必要な情報処理などは、要撃戦闘に用いられる計算装置を使用してなされるものである。」としている。
非破壊検査システムの導入
防衛庁装備本部が平成18年度予算で計上し三菱重工業と契約、納期は平成21年2月予定。これはF-15の主翼、尾翼等のX線透過検査及び超音波探傷機能検査を自動的に行うものである。これを導入することにより、高い精度で正確に機体疲労の度合いが把握でき、機体寿命を最大限引き上げることが可能となる。
このシステムは現在F-15を装備する基地に設置が進められている。千歳、小松、百里、新田原への設置は既に完了しており、更に築城や那覇にも設置する計画が進行中である。このシステムはF-4EJ改にも導入・適用されたことから、この措置を含めF-15にも今後何らかの延命措置が施されることになる。
近代化改修
大きく分けて、F-15J/DJのJ-MSIP機(J×53機:899 - 965、DJ×36機:063 - 098)を対象とした近代化改修計画と、Pre-MSIP機を対象にした近代化改修計画とに分けられる。
J-MSIP機の近代化改修
J-MSIP機の近代化改修計画は三菱重工業を主契約としている。当初のJ-MSIP機の近代化改修計画では、改修の進捗状況によって形態一型と形態二型に分けられ、平成17~21年度対象の中期防衛力整備計画の期間中に合わせて26機を量産改修する予定だった。
しかし、米国のF-22の輸出規制措置により2008年に航空自衛隊のF-X選定が先送りされると、F-4EJ減勢による防衛力低下を補う必要が生じた。そこで次期輸送機の獲得を先送りして割り当てた予算で、形態二型の改修の一部を前倒し適用することになった。
航空雑誌等ではこれらの改修機のことを一くくりにF-15改と呼んでいる。
進捗状況
  • 1997(平成9)年:システム設計に着手
  • 1998(平成10)年:細部設計開始
  • 1999(平成11)年:一部機材の購入を開始
  • 2000(平成12)年:レーダーやセントラルコンピュータ等の主要機材を購入
  • 2002(平成14)年:試改修作業開始。三菱へF-15J試改修初号機(12-8928)引き渡し
  • 2003(平成15)年:7月24日、試改修初号機初飛行。10月21日に飛行開発実験団へ再納入、技術的追認を実施
  • 2004(平成16)年:2機分の改修予算取得
  • 2005(平成17)年:4機分の改修予算取得
  • 2006(平成18)年:2機分の改修予算取得
  • 2007(平成19)年:F-2一括取得のために予算取得見送り。9月12日の量産改修初号機(12-8948)納入後、年度内に2005年度予算取得分までの計6機を納入
形態一型
改修内容
形態一型機に当初計画通りに実装された改修内容。
  • セントラルコンピューターの再換装
  • レーダーを従来のAPG-63から改良型機械式アンテナアレイのAPG-63(V)1へ換装、(v)3への再改修も容易である。
  • 空調設備と発電装置の改良
  • AAM-4/4改の運用能力獲得(試改修初号機には実装されず)
  • 通信装置への電波妨害対処機能付加(試改修初号機には実装されず)
  • 飛行記録装置の追加(試改修初号機には実装されず)
  • 射出座席の改良(試改修初号機には実装されず)
  • 戦闘機データリンク(FDL・戦術データリンクJTIDS)の搭載に向けた空間と配線の確保(試改修初号機には実装されず)
形態一型 IRST(赤外線捜索・追跡装置搭載実験機)搭載実験機
形態二型に進む前の実験機としてF-15J 試改修初号機(12-8928)で搭載実験が行われている。
2008年度予算による前倒し改修
改修内容
形態一型に形態二型から前倒した以下の改修内容を加えたものとなる[24]
進捗状況
  • 2008年(平成20年):20機の予算を取得。この一括調達により約168億円の経費を節減[25]。2009年度予算で22機分の改修に加えて38機分のレーダー装置の予算を計上した。中期防期間内で定められた26機を超過するため中期防を改訂し48機とした。
形態二型
形態二型への改修を受けたF-15J(2008年)
エアインテーク部分にアンテナフェアリングが備わる
改修内容
形態二型機で当初計画どおりに実装されると見られる改修内容
  • IRST(赤外線捜索・追跡装置)の搭載
  • チャフフレアディスペンサをAN/ALE-45JからAN/ALE-47へ換装
  • ヘルメット装着式表示装置(HMD)によるAAM-5への対応
  • 統合電子戦システムの搭載
  • NATO標準規格の戦術データ交換システムの追加装備
進捗状況
  • 2002年(平成14年):開発開始。
  • 2007年(平成19年):3月8日に形態二型試改修初号機(32-8942)を飛行開発実験団に再納入し実用試験を開始し、一連の試改修事業を年度内に終了した。
Pre-MSIP機への自衛隊デジタル戦闘システム(JDCS(F))の搭載
Pre-MSIP機に新開発する「自衛隊デジタル戦闘システム(JDCS(F))」を搭載して、J-MSIP機同様に戦闘機間や自動警戒管制システム(JADGE)でデータリンクを構成する計画である。J-MSIP機が搭載するLink-16端末をPre-MSIP機に搭載しようとすると、機体の残余容積やデータ処理能力の不足により改修期間と費用が莫大なものとなるため、新規にJDCS(F)を開発することとしている。JDCS(F)はLink-16端末の半分の経費で搭載可能とされ、F-2にも搭載される予定である。2009年から2012年までで試作し2011年から2013年まで試験を実施する。[26]
転用計画
F-15J偵察機転用
防衛庁(現防衛省)は2004年(平成16年)12月RF-4E/EJ偵察機の後継機として、Pre-MSIP機のF-15Jを使用した試作改修作業を2005年(平成17年)度からの中期防衛計画で行う予定であると公表した。これはRF-4EJと同様、外装式偵察ポッドの運用能力を追加する改修となる。
10~12機程度を改造配備する予定であるが、防衛大綱による作戦機体数の削減(作戦機の30機程度の定数減)のため、現有RF-4E/EJをすべて置き換えるわけではない。RF-4EJの寿命が先に尽きるがこの代替ではなく、続いて老朽廃止となるRF-4Eの代替としての配備となる見通しである。
また、防衛省は独自開発を続けていた無人航空機(UAV)を平成21年度に導入すると発表した。この無人偵察機の搭載母機としてRF化されたF-15Jが使用されるものと見られる。[要出典]エラー: タグの中に無用な文字が含まれていないか、{{要出典範囲}}と{{要出典}}を間違えていないかを確認してください。貼り付け年月は「date=yyyy年m月」、チップテキストに表示する文字列は「title=文字列」と指定してください。
F-15電子戦機転用
航空自衛隊ではEC-1を1機、YS-11EAを2機、電子戦訓練支援機として保有しているが、戦闘機に随伴して電子戦を行うエスコートジャマーは保有していない。航空幕僚監部ではF-15のPre-MSIP機を電子戦機に転用する案を検討している。
防衛省技術研究本部2008年(平成20)度より「戦闘機搭載型電子防御装置」の開発を始めた。計画では平成20年度から平成24年(2012年)度末にかけてシステム設計と母機改修設計を実施し、装置一式と試験装置一式を試作する。また、平成22年(2010年)度から平成25年(2013年)度にかけて運用環境下での性能確認試験を行う。「戦闘機搭載型電子防御装置」は600ガロン増槽と同じ大きさと形状を持つポッドに収め、母機の飛行性能への影響を避ける。
配備基地
2009年現在、8飛行隊及び飛行開発実験団でF-15J/DJが運用中である。冷戦下は対ソビエト連邦のために北海道および日本海側の防衛を重点に置いてきたが、21世紀に入ってからの中華人民共和国の軍事的台頭への懸念に加え、那覇基地で運用されているF-4EJ改の退役が迫っていることから、平成21年度1月に百里基地に所属していた第204飛行隊を那覇基地に移転配備。
同時に百里基地に転属するF-4EJ改を将来F-Xに更新するので、中長期的には首都圏の防空力も向上するものとされている。
喪失事故
撃墜事故を含めて空自ではF-15を合計11機喪失している。特に最初の10年で5機を失っている。
発生年月日 喪失 事故状況 被害
1983年10月20日 第202飛行隊 DJ型12-8053 夜間訓練中 2名殉職
1987年3月13日 第204飛行隊 J型42-8840 要撃訓練中の空間識失調による墜落 1名殉職
1988年6月29日 第303飛行隊 J型22-8804,22-8808 空中戦闘機動訓練中の空中衝突 2名殉職
1990年7月2日 第204飛行隊 J型52-8857 夜間要撃訓練後 1名殉職
1991年12月31日 第201飛行隊 DJ型12-8079 小松基地着陸進入中の燃料漏れによる爆発 1名脱出
1992年10月27日 第204飛行隊 J型72-8884
第305飛行隊貸出
帰投中の操縦不能 1名殉職
(脱出時に風防で頭部強打)
1993年10月6日 第202飛行隊 DJ型82-8064
飛行教導隊貸出
燃料系統不良 2名救出
1995年10月6日 第303飛行隊 J型72-8891 小松基地離陸中エンジントラブルで中止後滑走路外で火災 1名自力脱出
1995年11月22日 第303飛行隊 J型52-8846 ACM訓練中、僚機(62-8870)の誤射したAIM-9により墜落。
2007年時点でF-15全生産機中唯一の航空機による被撃墜
1名脱出
2008年9月11日 第304飛行隊 J型72-8883 電源系統の不具合 1名脱出
飛行停止
2007年(平成19年)11月2日アメリカ合衆国ミズーリ州で、同州空軍に所属するF-15Cが空中分解し墜落した。このためアメリカ空軍は、11月4日に実戦参加機を除くF-15系全機を機体構造の点検のために飛行停止とした。連絡を受けて防衛省も、11月5日には配備しているF-15J及びDJ全機を飛行停止とした。墜落事故発生による原因究明までの間に同型機が飛行禁止となる事は珍しいことではないが、この時はF-2支援戦闘機を飛行停止としていた[27]事も重なり、同20日のF-15の飛行停止解除までの間、通常配備の日本の防空機はF-4EJ改だけとなっていた。
能登半島沖不審船事件
1999年3月23日に発生した能登半島沖不審船事件の真っただ中に、北朝鮮羅先から出撃したMiG-212機を上空警戒中のE-2C早期警戒機が捕捉した。小松基地所属のF-15Jに緊急発進が発令されたが、MiG-21は防空識別圏手前で引き返した。このMiG-21の出動は日本側と直接の接触はなかったものの、不審船追跡に対する威嚇と推測された。
F-4EJ改の後継機関連
防衛省 (旧 防衛庁)は2005年(平成17)8月より、航空自衛隊F-4EJ改の後継機としてロッキード・マーティンF-22 ラプター、ロッキード・マーティンF-35 ライトニングII、ボーイングF/A-18E/F スーパーホーネットフランスダッソーラファール、国際(西)共同開発のタイフーンと共に、F-15FXF-15E ストライクイーグルの日本仕様)を更新機種候補としているとされる。公式な決定はなされておらず、未だ情勢は不明である。
今後
航空自衛隊ではF-15を将来に渡り運用するため、現在搭載機器のアップグレード等の近代化改修を実施している段階で、最終的に戦闘能力は第5世代ジェット戦闘機にも対抗し得る能力を持つことになる。機体寿命については、航空自衛隊の年間飛行時間から考えると初期生産分の機体が2025年あたりに基本機体寿命の8000時間を迎え最終退役の時期となる。
しかし、アメリカ空軍のC/D型が一部8000飛行時間を迎え更に飛行可能ということが判明し、飛行可能時間が8000時間から10000時間までに延長された。これは派生型のJ/DJ型に適用される可能性が高く、この場合の最終退役時期は2032年頃となる。また、航空自衛隊のF-Xの選定作業も停滞状態にあるため、将来F-Xが数を伸ばしF-15を凌いで主力戦闘機の座に就くまで、F-15は今後も航空自衛隊の主力戦闘機として任務に就くことになる。

サウジアラビア

概要
空中給油中のサウジアラビア空軍所属のF-15
サウジアラビア空軍は長くイギリス製戦闘機、及びイギリス型の部隊編成を行っていた。当時は35機のBAC 167 ストライクマスターや42機のBACライトニングを保有していたが、1977年にライトニングの後継機選定を発表した。最終的にはF-14とF-15の一騎討ちとなり、迎撃戦闘機であるライトニングの後継機に、艦載機であるF-14よりは制空戦闘機であるF-15が適切であるとしてF-15の導入を決定した。導入はアメリカ側で「ピースサンI(Peace Sun I)」と呼ぶ有償軍事援助計画で行われた、
発注した機体はC型が47機にD型が15機の計62機だったが、エジプト・イスラエル平和条約の合意(キャンプ・デービッド合意)を背景としたイスラエル周辺諸国の軍事的圧力の低下を目指し、サウジアラビアも保有する戦闘機の総数に60機の制限を受け、C型46機、D型16機に変更された。発注分から余った2機はマクドネル・ダグラス社が保管し、事故等での消耗分の補充にあてることとなった。引き渡しは1981年から行われ、アラビア半島の西岸に展開する第6飛行隊や東岸のペルシャ湾に面するダーランのキング・アダブル・アジズ基地の第13飛行隊、南部のカミス・ムシャイト空軍基地の飛行隊の計3個の飛行隊に配備され、同年9月より運用を開始している。1989年にはF-15の生産ラインの閉鎖を目前に、定数を維持するためC/D型12機の追加発注を行った。これらもマクドネル・ダグラス社が保管を行っている。
1995年からは湾岸戦争中に自国内の空軍基地をアメリカ軍に提供する見返りとしてF-15Eの購入を要請した結果、サウジアラビア向けのF-15Sを調達している。
機体
輸出に際してイスラエル同様にある程度の能力の縮小を受けた。またサウジアラビア側が希望したコンフォーマルタンクの調達数には制限が設けられ、かつ保有数も上記の様に60機との制約を受けた。
配備基地
  • キング・アダブル・アジス空軍基地 - 第13飛行隊
  • プリンス・ファハド空軍基地 - 第6飛行隊
  • カミス・ムシャイト空軍基地
実戦参加
  • イラン・イラク戦争中の1984年6月5日に、サウジアラビア領空に接近したイラン空軍F-4をアメリカ空軍の早期警戒管制機がレーダーに捉えた。ペルシャ湾を航行するイラク行きタンカーへの攻撃を意図するものと判断したサウジアラビア空軍は、2機のF-15を差し向ける。2機のF-15はF-4が進路変更の意思がないとしてスパローにより2機を撃墜し、これがサウジアラビア所属F-15の初戦果となった。その1時間後には10を超すイラク軍機の接近をレーダーが捉えたため、サウジアラビア空軍はそれに匹敵する数のF-15を緊急出撃させた。最終的には30以上の目標をレーダーが捉えたが、イラク軍機が突如反転したため戦闘は回避された。結果的にアメリカにおける主力戦闘機F-15が、その前の主力戦闘機のF-4を葬り去るという興味深い戦闘だったといえる。
  • 湾岸戦争では「砂漠の嵐作戦」に参加したF-15が、イラク領内でイラク空軍のミラージュF1を2機撃墜した。湾岸戦争において、アメリカ空軍以外で唯一の空対空撃墜となった。

形式

基本型

F-15A
F-15A
F-15Cとコンフォーマルタンク
初期量産型。1972年から1979年までに384機製造[28]。アメリカ国内外の旧式化したF-104・F-106・F-4等を代替。C/D型導入後は戦術訓練航空団等の教育・訓練部隊に配備。
F-15B(旧称TF-15A)
F-15Aの複座量産型。1972年から1979年までに61機製造[28]。機種転換訓練用だが実戦にも対応。内蔵電子妨害装置を省略し、内部燃料タンクを小型化して後部座席を設置。操縦システムは前席後席それぞれに独立した系統を持ち、後席からの操縦も可能。ただし、計器盤は備わっているものの、レーダーやエンジン始動関連のパネル、兵装操作パネルなどは無い。
F-15C
生産第4040号機以降となるPEP2000(Production Eagle Package 2000)適用機。1979年から1985年までに483機製造[28]。外見上はF-15Aと大差はない。
アメリカ空軍は、F-15A/Bの実用テスト期間中に燃料と兵装のバランスを最適化するという評価法を適用した結果より燃料搭載量の増強を要求した。特に機内燃料については2,000ポンド(約1,100リットル)の増加により、撃墜可能性も戦闘行動半径も約二倍となるしている。その対策案がPEP2000で、機内燃料の増加とコンフォーマル・パレット搭載のための内部配管の追加、重量増対策としてのタイヤとブレーキの強化を行うものである。
PEP2000自体での採用は見送られたが、マクドネル・ダグラス社が自主開発したFAST(Fuel And Sensor Tactical)PACKと呼ばれるコンフォーマル・パレットは6.43平方メートルの使用可能容積を持ち、増槽とした場合は両側でドロップタンク2.5本となる約5,680リットルの燃料を収納する。着脱は約15分の地上作業で済むが空中投棄はできない。クリーン状態の抵抗を1とするドラッグ係数はマッハ0.9以下ではフィレット類似の整流効果により1を下回りそこからマッハ1.1前後での1.15まで漸増した後に横ばいとなる。ドロップタンクのマッハ0.8からマッハ1.0直前まで急増した後マッハ1.2までは減少し横ばいとなる特性と比べると巡航性能への寄与は大きいといえる。しかし、F-15Cでは機内燃料量がドロップタンク3本分を超え、進出にドロップタンク、対戦闘機戦闘と帰還に機内燃料を使用できることとなった。このため十分な燃料の確保ができるとし、空中投棄できないコンフォーマル・タンクの実戦での運用回数は少ないという[29]
もっとも多く生産されたタイプであり、アメリカ国内及び在日米軍・在欧米軍と多くの部隊で配備・運用された。
F-15D
F-15Cの複座量産型。1979年から1985年までに92機製造[28]。B型同様教育・訓練用だが実戦にも対応。FAST PACK搭載能力を持つ。
F-15J
日本向けのF-15C。1981年から1998年までの期間に165機製造。C型をベースとしているが、航空自衛隊はFAST PACKを保有しない。
F-15DJ
F-15Jの複座型。1981年から1999年までに48機製造。
RF-15
F-15の偵察機型。プロトタイプF-15E(複座型原型2号機:71-0291)の機体を改修したデモンストレーター。偵察用のFAST PACKを装備する。

派生型

F-15ACTIVE
F-15E
複座型原型2号機をベースとした戦闘爆撃機。制式採用にあたり機体の約60%を再設計し、チタニウムを多用した軽量化と構造強化を行った。プロトタイプでのグリーンを基調とした暗い迷彩塗装は、制式化に際して夜間・悪天候飛行中に効果的な暗灰色へと変更している。
F-15 S/MTD, F-15ACTIVE, F-15IFCS
複座型原型1号機をベースとした実験機。
F-15N[30]
1970年代初期に提出された海軍艦上戦闘機)型F-15。AIM-54の運用能力や主翼の折りたたみ機構、着艦フックなどを有する。F-14が飛行試験段階にあったことで、構想のみに終わる。愛称は「Sea Eagle」。

スペック

F-15C
三面図
三面図
  • 乗員: 1名(B/D/DJ型は2名)
  • 全長: 19.43 m
  • 全幅: 13.05 m
  • 全高: 5.63 m
  • 翼面積: 56.5 m2(C)
  • 空虚重量: 12,973 kg
  • 最大離陸重量: 30,845 kg
  • 発動機: F100-PW-220ターボファンエンジン(A/B:10,640 kgf)× 2
  • 最大速度: M2.3 / M2.5(M2.3以上は1分以内の制約)
  • 巡航速度: M0.9
  • 航続距離: 3,450 km(フェリー)、 4,630 km(増槽)以上、5,750km(CFT装着)以上
  • 実用上昇限度: 19,800m(65,000ft)
  • 固定武装: M61A1 × 1 (6砲身 口径20mm 装弾数 940発)
  • 製造単価、約3,000万ドル

フィクションの小道具としてのF-15

脚注

  1. ^ 2005年現在、米・イスラエルは実戦における空中戦での被撃墜はゼロとしているが、複数の交戦相手国がF-15撃墜を主張し、ソ連も交戦当事者ではないものの、戦地に派遣したオブザーバーによりMiG-23など自国製の戦闘機が数機のF-15を撃墜したと記録しており、現代でもロシアなどではこれを「事実」としている。
  2. ^ 1,233機中877機がアメリカ空軍機
  3. ^ この際、台湾のF-86が中国のエース王自重操縦のMiG-17をサイドワインダーで撃墜したことは良く知られている。
  4. ^ それでも不十分と考えた彼らはF-X以降も活動を続け、LWF(Low Weight Fighter:軽量戦闘機)計画としてF-16およびYF-17F-18の原型)を実現した。
  5. ^ 当時の完成予想図では尾部下面にF-16Su-27の様なフィンを備え、風防形状も現状のものと異なっていた。
  6. ^ 冒頭の写真にもあるように、AMRAAMは主翼下パイロン側面装備のサイドレールへの搭載可。
  7. ^ マクドネル・ダグラス社側もこの計画を強く推進した。
  8. ^ F-16はアメリカ空軍・海軍合わせて2,244機が調達されたが、F-15は911機に止まる。
  9. ^ F-16の場合はスパローの運用能力を追加する改造が行われたが、F-15は適合性取得のための追加は行われていない。
  10. ^ ワルシャワ条約機構軍の侵攻の際に出来るだけ打撃を受けないようにという配慮から国境からできるだけ遠いこの基地が選ばれた。
  11. ^ 一部の部隊では、アクティブ・フェーズドアレイレーダーである APG-63 (V) 2 AESAやAPG-63 (V) 3
  12. ^ なお、派生型のE型については、むしろその後登場した新型戦闘機との比較(特にアメリカ空軍における後継機のF-22)では相対的に低価格とみなされ、各国に盛んに売り込まれ、採用例も多くなった。
  13. ^ 計画当初はDJ型を含めて100機程度だった。また、1990年の時点では1992年までの生産とされていた。
  14. ^ ただし、調達価格は時代によって差があり、1990年度での調達価格は約86億円であった(「エアワールド」1990年5月号 p70)。
  15. ^ F-1の後継機候補にF-15も挙がったが、当時米軍未配備のE型ではなくC型ベースだった。
  16. ^ ミリタリー・イラストレイテッド25「F-15イーグル」ワールドフォトプレス編 p160~p162
  17. ^ ミリタリー・イラストレイテッド25「F-15イーグル」ワールドフォトプレス編 p162~p165
  18. ^ J/DJともに国産化を承認されなかった部品については米国の有償援助で輸入するか、同等の国産機器で代替した。現在でも故障した際の修理のために、胴体部以外の治具を保管している。また、フィート・インチ法による図面とメートル法による工作機械では細かなずれを生じるために、図面をすべてメートル法で書き直している。
  19. ^ J型の調達は、まず4個飛行隊分に当たる100機分の発注からスタートした。当初の調達価格は約70億円とされたが、この時は最終的に101億5600万円まで上昇した。
  20. ^ 丸[MARU] 2008年3月号P93
  21. ^ 前述の通り、アメリカ空軍の第65アグレッサー飛行隊が再編成されるまで、アグレッサー部隊で高価なF-15を使用していたのは航空自衛隊のみだった。
  22. ^ F-15J/DJ唯一の外見上の違いでもある。
  23. ^ ミリタリー・イラストレイテッド25「F-15イーグル」ワールドフォトプレス編 p169
  24. ^ 平成20年度概算要求の概要3ページ
  25. ^ 朝雲ニュース2月21日付け 20年度防衛費重要施策を見る(5)
  26. ^ 平成20年度 事前の事業評価 自衛隊デジタル通信システム(戦闘機搭載用)
  27. ^ 2007年10月31日F-2離陸直後に墜落し炎上した事故対策。
    原因が配線接続ミスと判明し各機体の点検作業を行い11月16日以降に順次飛行を再開
  28. ^ a b c d Davies 2002
  29. ^ 派生型のF-15Eでは戦闘爆撃機として長距離任務が主となるので、より多くの燃料搭載と巡行域での抵抗軽減の利点を認めてコンフォーマルタンクを標準で装備する。
  30. ^ Nは海軍(Navy)の意

参考文献

関連項目

外部リンク

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