コンテンツにスキップ

奥村易英

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。松茸 (会話 | 投稿記録) による 2009年9月28日 (月) 14:25個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (旧暦換算等)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

奥村 易英(おくむら やすひで、元亀2年(1571年) - 寛永20年12月21日1644年1月30日))は、加賀藩年寄。加賀八家奥村分家初代当主。

父は奥村永福。兄弟は奥村栄明奥村栄頼。正室は横山長隆の娘。子は奥村和忠、奥村易貞、篠原監物重好室、多賀左兵衞秀識室。養子に奥村正富。初名栄卿。幼名又十郎。通称主殿、備後、因幡。

天正12年(1584年佐々成政末森城を攻められた際に父や兄と共に城を守る。その後1000石の知行を賜り世子前田利常に仕える。天正18年(1590年小田原の役に出陣し、八王子城攻めで戦功を立てる。慶長5年(1600年大聖寺城攻めで戦功を立て2000石加増。

慶長19年(1614年大坂冬の陣に利常に従い出陣し真田丸の戦闘に参加。4500石を加増される。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣には父永福と共に金沢城の留守居を務める。元和2年(1616年)家老となる。元和3年(1617年前田利次、元和4年(1618年前田利治誕生の際に蟇目役を務める。父永福の没後その遺領3300石を相続。寛永20年(1643年)12月21日没。享年73。家督は嫡男和忠が先立って没していたため奥村庸礼が嫡孫承祖した。また外孫の正富も養子となり1000石を賜り分家して馬廻組となった。

参考文献

  • 『加賀藩史稿』