フーゴー・グローティウス
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フーゴー・グローティウス(オランダ語でHugo de Groot, またはHugo Grotius, 1583年4月10日 - 1645年8月28日)は、オランダの法学者。フランシスコ・ダ・ヴィトーリア(en)、アルベリコ・ジェントリ(en)とともに、自然法に基づく国際法の基礎を作ったことから、「国際法の父」と称される。
グローティウス自身は、哲学者、劇作家、詩人でもあった。 著書として『自由海論』、『戦争と平和の法』などがある。
幼年期
八十年戦争が展開されていたオランダのデルフトに、グローティウスは生まれた。彼の父であるヤンはライデン大学でジュストゥス・リプシウス(en)とともに勉強したこともあった。ヤンは、息子のフーゴーに対し、幼年期からヒューマニズムとアリストテレス的な教育を施した。神童であったフーゴーは11歳の時にライデン大学に入学した。フーゴーが入学した当時のライデン大学は北ヨーロッパでもっともアカデミックな教育を行う大学として知られており、フランシウス・ジュニウス(en)、ジョセフ・ジュストフ・スカリゲール(en)、ルドルフ・スネリウス(en)がライデン大学で活躍していた時代であった[1]。
1599年、グローティウスは、デン・ハーグで官職を得て、1601年には、ホラント州の史学史研究員となった。1604年に初めて国際法に携わることとなり、体系的な国際法の手稿を著した。そして、オランダ商人によるシンガポール海峡におけるポルトガルのキャラック船とその船の貨物の差し押さえの訴訟手続きに従事することとなった。
『自由海論』
1603年、オランダの船員・探検家でもあるヤコブ・ヴァン・ヘームスケルク(en)がポルトガル船サンタ・カタリーナ号を拿捕した時代とは、スペイン・ポルトガル連合がオランダと交戦していた時代(八十年戦争)であった。ヘームスケルクはオランダ東インド会社の子会社であるアムステルダム独立会社の社員として働いていたが、彼自身には、オランダ政府や東インド会社から権力を行使する権限を付与していたわけではなかったが、オランダ東インド会社の株主は、ヘームスケルクがもたらした富を受け取ることを望んでいた。とはいえ、オランダ国内ではヘームスケルクにおける拿捕の妥当性が問われていただけではなく、倫理面からもオランダ東インド会社の一部の株主から拿捕による物品の獲得を拒否する動きもあった。もちろん、ポルトガルも貨物の返還を望んでいた。オランダ東インド会社の代表は、グローティウスにこの拿捕における論証を依頼することとなった[2]。
1604年から1605年にかけてのグローティウスの活動は、『De Indis』と題された書簡にまとめられた。グローティウスは、東インド会社による拿捕の妥当性を自然法に求めようとした。
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1609年、グローティウスは、『自由海論』(原題:Mare Liberum、en)を著した。グローティウスはこの本により、海は国際的な領域であり、全ての国家は、海上で展開される貿易のために自由に使うことができると主張した。
当時のイギリスは、貿易においてオランダと競合関係にあったため、グローティウスの主張に真っ向から反対した。スコットランド人の法学者であるウィリアム・ウエルウォッド(en)が英語で初めて、海事法について著した人物であり、1613年にはグローティウスに対抗する形で、『Mare Liberum in An Abridgement of All Sea-Lawes』を執筆した。グローティウスはそれに反論する形で1615年、Defensio capitis quinti Maris Liberi oppugnati a Gulielmo Welwodoを著した。1635年、ジョン・セルデンは、『封鎖海論』(原題:Mare clausum)において、海は原則として、陸地の領域と同じ適用を受けるものと主張した。
海事法をめぐる論議が成熟するにつれて、海洋国家は海事法の整備を推進することとなった。オランダ人の法学者であるCornelius van Bynkershoekが自著『De dominio maris』(1702年)において、陸地を護るために大砲が届く範囲内に海の支配権(領海)はその沿岸の国が保有すると主張した。この主張は各国で支持され、領海は3マイルとするとされた。
この論争は最終的には、経済論争にまで発展した。たとえ、モルッカ諸島でナツメグとクローブを独占していたとしても、オランダは、自由貿易を主張していた一方で、イギリスは、1651年に航海条例を制定することでイギリスの港湾にイギリス船籍以外の入港を禁じた。航海条例の制定によって、第一次英蘭戦争が勃発した。
オランダ国内の神学論争とグローティウス
グローティウスは、ホラント州の法律顧問であるヨーハン・ファン・オルデンバルネフェルト(en)のもとで政治的キャリアを積むようになった。1605年、オルデンバルネフェルトのアドバイザーとなった後、1607年には、ホラント州、ゼーラント州、フリースラント州の財務の管理者となり、1613年にはロッテルダムのペンショナリー(en)となった。
一方で、私生活においても、マリア・ファン・レイゲスベルゲンと結婚し、8人の子をもうけた(もっとも、そのうちの4人は夭逝した)。
グローティウスがオルデンバルネフェルトのもとで働いていた時代とは、スペインとの戦争状態が12年間休戦状態になった時代であった。1609年、オランダはスペインとアントウェルペンにおいて、12年休戦条約を締結した。この結果、オランダを覆っていた外患は取り除かれ、国際的地位は向上することとなった。一方、オランダ国内では、改革派の「予定説」の解釈をめぐる神学論争が起きた[3]。
この神学論争の焦点は、アルミニウス派(中心は、ライデン大学の神学教授ヤーコブス・アルミニウス)が「予定説」の解釈に対して寛容であることを説いたことに対して、厳格に解釈することをホマルス派(中心は同じくライデン大学のホマルス)が主張した点にあった。グローティウスやグローティウスの上司に当たるオルデンバルネフェルトをはじめとするオランダの上流階層はアルミニウス派を支持する姿勢を示していた[3]。一方で、ホマルス派の支持層は、南部諸州から逃れてきた改革派の亡命者や難民、都市の下層民などであった[3]。その結果、神学論争はオランダ独立の過程での階級闘争、さらに国家と教会の間でどちらが上位に立つべきかという国家論に発展した[3]。
1618年、ドルトレヒトにおいてドルト会議が開催された。その結果、ホマルス派の全面的勝利に終わり、オルデンバルネフェルトは1619年5月に国家反逆罪で処刑され、グローティウスは逮捕されレーヴェシュタイン城(en)に収容された。
1621年、妻の協力を得て、グローティウスは脱獄に成功し、本1冊を胸に携え、一路、パリへと亡命した。この本に関しては、アムステルダムのen:Rijksmuseumとデルフトのen:Prinsenhofがそれぞれ、自らが所有する本が脱獄の際に持ち出した本を所蔵していると主張している。
グローティウスはパリに到着するとルイ13世は年金を与えられる生活を送ることとなった。フランスにおいて、グローティウスは、彼自身でもっとも有名である哲学の作品集を完成させることとなった。
『キリスト教の真理』と『戦争と平和の法』
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パリの滞在中、グローティウスは、様々な分野で執筆作業を行っている。グローティウスは、神学に関心を抱き続けており、『ペラギリウス派についての探求』(1622年)、『ストバエウス』(1623年)、『キリスト教の真理』(1627年)、『アンチクリスト論』(1640年)、『福音書注解』(1641年)、『旧約聖書注解』(1644年)と著し続けた[4]。その中でも『キリスト教の真理』("De veritate religionis Christianae")は6分冊によって構成され、護教論の分野における最初のプロテスタントのテキストブックであった。グローティウスは『キリスト教の真理』において、神が存在すること、神の唯一性、完全性、無限性、永遠・万能・全知・まったき善であること、万物の原因であることを論証していった[5]。
もう一つが『戦争と平和の法』("De jure belli ac pacis")である。『戦争と平和の法』によって、「戦争が法による規制を受けるものであることを明らかにするという「実践的目的のための理論的道具」としての「自然法論」を展開した[6]」格好となった。
スウェーデン大使、最期
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レモンストラント派の多くが、オラニエ公マウリッツが死亡した1625年以降、オランダへの帰国を果たす中で、オランダからの恩赦を断ってきた。1631年に一度、グローティウスは、ロッテルダムへ戻ったことがあるが、その直後に、ハンブルクへ走った。
1634年、駐仏スウェーデン大使として働く機会を得ることができた。当時のスウェーデン国王グスタフ2世アドルフは、戦場で軍隊を指揮する際には、たえず鞍の中に、グローティウスの『戦争と平和の法』を携行していたとされる[7]。グスタフ2世アドルフの後を継いだアクセル・オクセンシェルナもまた、グローティウスを駐仏スウェーデン大使として雇用した。グローティウスは1645年にその職を解かれるまで、亡命期間中に利用していたパリの自宅を利用した。
グローティウスの最期は突然であった。フランスからスウェーデンへの旅の途上、グローティウスが乗る船が難破し、グローティウスは、ロストックに漂着した。衰弱していたグローティウスは、ロストックで1645年8月28日に病没した。彼の遺体は、青春時代をすごしたデルフトのデルフトの新教会で眠っている。
関連項目
脚注
- ^ See Vreeland (1919), chapter 1
- ^ See Ittersum (2006), chapter 1.
- ^ a b c d 佐藤弘幸 著「Ⅱ ベネルクス第1章 オランダ共和国の成立とその黄金時代」、森田安一編 編『新版世界各国史 14 スイス・ベネルクス史』山川出版社、1998、pp.252-253頁。ISBN 4-634-41440-6。
- ^ 太田(2003)p.102
- ^ 太田(2003)p.96
- ^ 安武真隆 著「〔書評〕太田義器著, 『グロティウスの国際政治思想-主権国家秩序の形成』, ミネルヴァ書房, 二〇〇三年」、関西大学法学会編 編『關西大學法學論集 第五六巻 四号』関西大学法学会、2006、pp.986-1004頁。ISSN 0437648X。
- ^ Grotius, Hugo The Rights of War and Peace Book I, Introduction by Tuck, Richard: Indianapolis: Liberty Fund, 2005.
参考文献
- 佐藤弘幸 著「Ⅱ ベネルクス第1章 オランダ共和国の成立とその黄金時代」、森田安一編 編『新版世界各国史 14 スイス・ベネルクス史』山川出版社、1998、pp.252-253頁。ISBN 4-634-41440-6。
- 太田義器『グロティウスの国際政治思想-主権国家秩序の形成』ミネルヴァ書房、2003。ISBN 4-623-03803-3。
- 安武真隆 著「〔書評〕太田義器著, 『グロティウスの国際政治思想-主権国家秩序の形成』, ミネルヴァ書房, 二〇〇三年」、関西大学法学会編 編『關西大學法學論集 第五六巻 四号』関西大学法学会、2006、pp.986-1004頁。ISSN 0437648X。
以下は英語版作成の際に採用されている参考文献である。日本語版作成において参考とはしていない。
- van Ittersum, Martine Julia (2006). Hugo Grotius, Natural Rights Theories and the Rise of Dutch Power in the East Indies 1595-1615. Boston: Brill
- Vreeland, Hamilton (1917). Hugo Grotius: The Father of the Modern Science of International Law. New York: Oxford University Press
- Craig, William Lane. The Historical Argument for the Resurrection of Christ During the Deist Controversy, Texts and Studies in Religion Volume 23. Edwin Mellen Press, Lewiston, New York & Queenston, Ontario, 1985.
- Dulles, Avery. A History of Apologetics. Eugene, Oregon: Wipf & Stock, 1999.
- Dumbauld, Edward. The Life and Legal Writings of Hugo Grotius. Norman, OK: University of Oklahoma Press, 1969.
- Edwards, Charles S. Hugo Grotius: The Miracle of Holland. Chicago: Nelson Hall, 1981.
- Grotiana. Assen, The Netherlands: Royal Van Gorcum Publishers. (journal of Grotius studies, 1980-)
- Haakonssen, Knud. Grotius and the History of Political Thought, Political Theory, vol. 13, no. 2 (May, 1985), 239-265.
- Haggenmacher, Peter. Grotius et la doctrine de la guerre juste. Paris: Presses Universitaires de France, 1983.
- Hugo Grotius, Theologian. ed. Nellen and Rabbie. New York: E.J. Brill, 1994.
- Hugo Grotius and International Relations. ed. Bull, Kingsbury and Roberts. New York: Clarendon Press, 1990.
- Knight, W.S.M. The Life and Works of Hugo Grotius. London: Sweet & Maxwell, Ltd., 1925.
- Lauterpacht, Hersch. The Grotian Tradition in International Law, British Yearbook of International Law, 1946.
- Nellen, Henk J. M. Hugo de Groot: Een leven in strijd om de vrede (official Dutch State biography). The Hague: Balans Publishing, 2007.
- Stumpf, Christoph A. The Grotian Theology of International Law: Hugo Grotius and the Moral Fundament of International Relations. Berlin: Walter de Gruyter, 2006.
- Tuck, Richard. Philosophy and Government: 1572-1651. New York: Cambridge, 1993.
- Tuck, Richard. The Rights of War and Peace: Political Thought and the International Order from Grotius to Kant. New York: Oxford, 1999.
- Vollenhoven, Cornelius van. Grotius and Geneva, Bibliotheca Visseriana, vol. vi, 1926.
- Vollenhoven, Cornelius van. Three Stages in the Evolution of International Law. The Hague: Nijhoff, 1919.
外部リンク
- Biography in 1911 Encyclopedia
- Stanford Encyclopedia of Philosophy entry
- Extensive catalogue of Grotius' writings at the Peace Palace Library, The Hague
- Grotius resource page, with other links to texts
テキスト・オンライン
- Hugo Grotius, On the Laws of War and Peace (abridged)
- Hugo Grotius, On the Laws of War and Peace (unabridged), The Free Seas, and more.
- Hugo Grotius, On the Laws of War and Peace (Latin, first edition of 1625) via the French National Library (télécharger to download)
- Hugo Grotiusの作品 (インターフェイスは英語)- プロジェクト・グーテンベルク
- Physicarum disputationum septima de infinito, loco et vacuo; disputation by Hugo Grotius, 14 years old, at Leiden University
- Logicarum disputationum quarta de postpraedicamentis; another disputation by Hugo Grotius, 14 years old, at Leiden University
- Preparing Mare Liberum for the Press by Martine Julia van Ittersum Puts into context of truce negotiations 1608-09. Ittersum (p.18) notes Grotius' citing of School of Salamanca figures, as well as the ancient Greek, Roman and early Church Fathers (p.12).