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小牧山

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小牧山
小牧山(撮影場所:小牧市堀の内)
標高 85.9 m
所在地 愛知県小牧市堀の内1-1
位置 --
山系 --
種類 --
初登頂 --
プロジェクト 山
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小牧市中心市街地から小牧山を望む(撮影場所:小牧市小牧4丁目)
史跡小牧山公園
案内図
分類 史跡公園
所在地
設備・遊具 芝生広場、他
駐車場 有り
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1987年度(昭和62年)に撮影された国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成写真上側を走る太い道路は、国道155号。写真右側を流れるは、合瀬川

小牧山(こまきやま)は、愛知県小牧市にある

かつて織田信長の居城であった、小牧山城があった。現在は山全体が公園となっており、の名所としても知られる。公園の分類は「史跡公園」。

なお現在山頂にある城は、1967年に建てられたものである(小牧市歴史館(小牧城)参照)。

概要

  • 標高は、85.9メートルの小山である。平野の真中にある為、山の頂上からは周囲を見渡す事ができる。
  • 山の大きさは、東西約600メートル、南北約400メートルである。
  • 山全体の総面積は、約21ヘクタール。
  • かつてこの山の頂上には、織田信長の命により、山城が建てられていた。この城は、後に徳川家康小牧・長久手の戦いで使用した事で有名である(この城については、下記の「小牧山城」参照)。
  • 公園内には、かつての城跡や、曲輪(くるわ)や井戸の跡、土塁を復元した物などの歴史的資料が展示されている。
  • の名所としても、有名である。
  • 北部に、タブノキがある。タブノキは、この地方では小牧山のみに自生している。

歴史

小牧山城築城以前

小牧山築城以前の歴史は、あまりはっきりと解かっていない。しかし発掘結果などから、寺院などの宗教関係の施設が存在していたと考えられている。 また間々観音に残る縁起(寺院の沿革)では、「元は小牧山に寺院(間々観音)があったが、織田信長の命によって、現在の地に移設された」とある。

小牧山城

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小牧山城
愛知県
城郭構造 山城
築城主 織田信長
築城年 1563年
主な城主 織田氏徳川氏
廃城年 1567年
遺構 曲輪井戸土塁
指定文化財 なし
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築城から一度廃城になるまで

織田信長は、永禄3年5月19日1560年6月12日)の桶狭間の戦いに勝利したのち、念願の美濃国併呑を実現すべく、早くもその3ヶ月後から美濃攻めを開始した。永禄5年1月15日1562年2月18日)には徳川家康清須城においていわゆる清洲同盟を結び、完全に東側の脅威がなくなった。ここにおいて、信長は全力で美濃を攻める体制をつくるために、本拠地ごと北方へ前進する策を採った。この新しい本拠地に選ばれたのが、広大な濃尾平野の中に孤峰を保つ小牧山であった。早速、丹羽長秀を奉行として小牧山山頂に城を築き、永禄6年7月には主要兵力をそっくり小牧山城に移した。

この小牧山移転にはあるエピソードがある。清須から北方へ移転するという噂が織田家中でささやかれ、誰もが不服に思っていた。そこで信長は一計を案じ、小牧山よりさらに北方の丹羽郡二ノ宮山(現・愛知県犬山市楽田地区二ノ宮の本宮山)に城を築き移転すると布告した。果然清須城内は反対一色となった。信長は反対意見が十分に出たころを見計らい、家中の意見を吟味した結果として、移転先を小牧山に変更することを申し渡した。すると、今度はほとんど反対意見もなく、皆小牧山への移転に同意したという。この計略は人間心理をたくみに利用したものであり、似たようなエピソードは古今東西に多数あることから本当かどうかはわからないが、それでも応永年間以来約150年間にわたって国府として栄えた清須から他の地へ移ることへの抵抗が大きかったことを想像させる。

信長が築いた小牧山城の構造は、山全体(約21ha)を城域とし、多数の曲輪と重臣の館から成っていたということがわかっている。また、山麓南側から西側にかけては、清須から移転させた城下町が形成された。移転後、織田軍は小牧山城を本拠地として美濃への侵攻を繰り返し、ついに永禄10年8月15日1567年9月17日)、美濃稲葉山城は落城、信長は稲葉山城を岐阜城と改めて移住した。これにより、小牧山城は約4年間の役目を終え、廃城となった。

小牧・長久手の戦い

天正12年(1584年)、豊臣秀吉徳川家康が戦った小牧・長久手の戦いでは、家康がいち早く小牧山に目を付けて本陣を置き、遅れてきた秀吉を悔しがらせたといわれる。この時、信長の築いた城跡の土塁、空堀などに大規模な改修が施され、「城」とみなせるほど強固な陣地が築かれた。秀吉の大軍も容易に手が出せず、焦った池田恒興森長可三河への無謀な長駆攻撃を敢行し、長久手方面へ突出して壊滅する事態となった。急造「小牧山城」は、徳川勝利の一翼を担ったことになる。

その後

山と城跡は、江戸時代を通じて尾張徳川家の領地として保護を受け、管理された。元和9年(1623年)には、尾張徳川家が上街道を整備する為、山の南側にあった町を東に移転させた(移転先に作られたのが、小牧宿である)。 明治維新後も尾張徳川家の所有地であったが、昭和2年(1927年)に、時の当主徳川義親によって国に寄附された。同年、国の史跡に指定される。現在でも山中の各所に土塁、空堀、井戸跡、曲輪、虎口や若干の石垣などが残り、往時をしのぶことができる。

なお現在小牧山山頂にある「小牧城(小牧市歴史資料館)」は、1967年に建設されたものである。また1947年1997年までは、山の東側の現在の史跡公園の位置に小牧中学校があったが、現在は別の場所に移転している。

年表

施設

小牧市歴史館(小牧城)

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小牧城
愛知県
小牧市歴史館
小牧市歴史館
城郭構造 山城
天守構造 復古型
築城主 平松茂
築城年 1967年
主な城主 --
廃城年 --
遺構 --
指定文化財 なし
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概要

現在ある小牧城の建物は、名古屋市に住んでいた実業家の平松茂が、自身の財産を投じて建設し、小牧市に寄贈したものである。聚楽第の「飛雲閣」をモデルとしている。中世から現代にかけての小牧市の歴史的資料が各階に展示されているほか、最上階は展望施設となっている。入場料は大人100円、小中学生30円(ただし土日祝日に限り小中学生は無料)。開館時間は午前9時から午後4時30分。休館日は毎週木曜日(祝日の場合は、翌日)と年末年始。施設の管理運営者は小牧市施設活用協会

施設の老朽化とアスベストの使用の問題から、2006年11月に改装工事が始められた。そして展示物の追加や変更なども行なわれ、2007年3月にリニューアルオープンした。また夜間にはライトアップが行なわれている。

館内案内

1階

  • 小牧山コーナー - 小牧山城や小牧山周辺から出土した様々な歴史的資料やそれを説明するパネルが、展示されている。
  • 商家コーナー - 江戸時代末期から明治時代初期にかけて小牧市内に実在した商家(商人が使っていた家)の一部が、再現されている。
  • 小牧の祭・小牧の民俗・近代~現代の小牧・平松茂氏コーナー

2階

  • 小牧・長久手合戦コーナー - 小牧・長久手の戦いの様子を表した模型やビデオ映像などが、展示されている。
  • 原始・古代~近代コーナー - 小牧市内で発掘された古代の遺物から近代の小牧市にまつわる歴史的資料など、様々な歴史的資料が展示されている。

3階

  • 情報コーナー - 小牧市内の文化財お祭りなどを紹介した映像を、見ることができる。

4階

  • 展望室 - 濃尾平野を見渡せる展望室。有料の双眼鏡が設置されている。

利用者数

1年間で約3万人の利用者があった(2006年度)。[1]


その他の施設・史跡等

青年の家
堀の内体育施設
観音洞
  • 青年の家 - 様々な講座等が行われている他、合宿・研修施設としても利用されている。
  • 堀の内体育施設 - 柔道剣道を行なう為の施設。
  • 遊歩道
  • 徳川源明公の碑 - 尾張徳川家第9代藩主である徳川宗睦の碑。
  • 観音洞
  • 小牧山緑地
  • 吉五郎稲荷
  • 桜の馬場
  • さくらの園
  • 土塁断面展示施設
  • 井戸跡
  • 売店
  • 休憩所
  • トイレ
  • 一般有料駐車場
  • バス専用駐車場

催事

  • 小牧山マラソン大会
  • 小牧山さくらまつり - 毎年3月~4月のの開花時期に行われる祭り。毎年桜の馬場野点や写生大会が行われる他、様々な催しが行われる。
  • 小牧山お月見まつり
  • 小牧山初日の出を拝む集い
  • 小牧市民まつり

所在地

愛知県小牧市堀の内1-1

交通手段

こまき巡回バスピーチバスとよやまタウンバス名鉄バスの「小牧市役所前」停留所下車。

周辺

合瀬川

関連書籍

※以下、右にある[表示]をクリックすると一覧表示される。

関連項目

脚注

  1. ^ 小牧市発行『ポケット統計 平成19年度』参照

外部リンク