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アッシジのフランチェスコ

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フランチェスコ(画:フランシスコ・デ・スルバラン

アッシジのフランチェスコFrancesco d'Assisi、本名 ジョヴァンニ・ディ・ベルナルドーネ Giovanni di Bernardone、1181年或は1182年 - 1226年10月3日)は、フランシスコ会の創設者として知られるカトリック修道士。悔悛と神の国を説き、中世イタリアにおける最も著名な聖人のひとりであり、カトリック教会聖公会で崇敬される。シエナのカタリナと共にイタリアの守護聖人

原音主義に従い、ここではイタリア語の「フランチェスコ」という表記を採っているが、一般には「フランシスコ」と表記されることが多い。フランシスコ会でも伝統的に「聖フランシスコ」と表記している。

生涯

フランチェスコは、西欧中世の盛時、12世紀後半、ピエトロ・ディ・ベルナルドーネ(Pietro di Bernardone)を父に、イタリアはローマの北に位置するウンブリア地方アッシジの町に生まれた。フランチェスコとは「フランス風」の意味である。織物商人であった父親が仕事上フランス語が非常に堪能だった(あるいはフランスびいきだった)ことから、母親のピカがすでにつけていた洗礼名(ジョヴァンニ)に満足せず、彼につけたという。

裕福な家庭に生まれたため放蕩生活を送っていた。騎士になろうと思い立ち、対ペルージャ戦に参加するが、捕虜になり、病気にかかるなどした。1206年頃から改心が始まる。家を出て、ハンセン氏病患者に奉仕し、荒れ果てた聖ダミアノ聖堂の修復を行うなどした。1208年福音書の三節を自らの戒律とし、活動を始めた。戒律は全ての財産を放棄して福音を説くことを求めるものであった。弟子たちとともに各地を放浪し、説教を続けた。

1210年、当時のローマ教皇であるインノケンティウス3世謁見し、修道会設立の認可を求める(教皇は口頭で認可を与えたとされる)。 晩年には手足と脇腹にイエスと同じ聖痕(スティグマ)が現れたという。当時、カタリ派などキリスト教内部の腐敗に対する批判として、多くの信仰復活の運動がローマによって弾圧された中で、フランシスコ会は例外的に教皇から承認されて発展した。これに倣ってその他の修道会が次々に誕生し、それらの中から教皇が選ばれるようになっていく起点となった。

思想

フランチェスコの普遍的精神をよく表しているのは、有名な「太陽の歌」 Cantico delle creatureであろう。そこでは太陽・月・風・水・火・空気・大地を「兄弟姉妹」として主への賛美に参加させ、はては死までも「姉妹なる死」として迎えたのである。こうしたことから、彼は西洋人には珍しいほど自然と一体化した聖人として国や教派を超えて世界中の人から愛されている。小鳥へ向かって説教したという伝説も有名であり、教皇ヨハネ・パウロ2世は彼を「自然環境の保護の聖人」とした。

修道生活に関する思想はフランシスコ会則によく現れている。当時のベネディクト会則とはまったく違う 独自の会則に従い従順・清貧・貞潔に生きた。なお、フランチェスコの精神というとしばしば“清貧”が強調されるが、それは後代の再解釈であり、彼本人は聖ぶべき種々の徳の一つとして貧を愛したに過ぎない。

フランシスコに関する記録文書は数多くあり、その中には『聖フランシスコの小さい花(I Fioretti)』という多くの人に親しまれている14世紀の伝記がある。

また「聖フランシスコの平和の祈り」も有名であるが、これはフランチェスコの作ではない。初出は、パリを本部とする信心会 La Ligue de la Sainte-Messe の機関誌 la Clochette の1912年12月号であり、作者は同信心会の創始者 Esther Bouquerel 神父であるとされる。初期は、特にフランチェスコに捧げたものではなかった。にも関わらず、「平和の祈り」は聖フランチェスコの精神をよく伝える祈りであるとされ、多くの人に愛唱されている。

平和の祈り
主よ、わたしを平和の道具とさせてください。
わたしに もたらさせてください……
憎しみのあるところに愛を、
罪のあるところに赦しを、
争いのあるところに一致を、
誤りのあるところに真理を、
疑いのあるところに信仰を、
絶望のあるところに希望を、
闇のあるところに光を、
悲しみのあるところには喜びを。
ああ、主よ、わたしに求めさせてください……
慰められるよりも慰めることを、
理解されるよりも理解することを、
愛されるよりも愛することを。
人は自分を捨ててこそ、それを受け、
自分を忘れてこそ、自分を見いだし、
赦してこそ、赦され、
死んでこそ、永遠の命に復活するからです。
『フランシスコの祈り』(女子パウロ会)より

史跡

イタリア国鉄アッシジ駅から、公共バスに乗り、かなりの距離の山を上った中腹の細長い台地にアッシジは位置する。アッシジ旧市街中、聖フランチェスコ聖堂の下部聖堂には、彼の遺体が納められた石造りの棺が安置されている。上部聖堂には13-4世紀の巨匠ジョットの代表作である「聖フランチェスコの生涯」と題する壁画がある。

アッシジの城壁を出て下ると、フランチェスコの回心のはじめを飾る聖ダミアノ聖堂がある(後にこの聖堂は拡充され、現在はクララ会の所有となっている)。さらに下ると最初期に弟子たちと共住生活を行ったブタ小屋を内部に抱えたリヴォトルト聖堂、宣教の最初の拠点となったポルティウンクラ礼拝堂を内部に抱えるサンタ・マリア・デリ・アンジェリ聖堂を見ることができる。

修道会

男子修道者の会である第1会(フランシスコ会)、女子修道者の会である第2会(クララ会)、在俗者の会である第3会(在世会など)に大分類され、更にこれらも現在はそれぞれが複数の会に分かれている。尚、単にフランシスコ会と言った場合は第1会を指し、特にその中でも「改革派フランシスコ会」を指す事が多い。 また、これらのフランシスコ会を全て合わせると間違いなく世界最大の修道会と言える。

その他