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正田耕三

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正田 耕三
Kozo Shoda
SKワイバーンズ コーチ #88
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 和歌山県和歌山市
生年月日 (1962-01-02) 1962年1月2日(62歳)
身長
体重
170 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投両打
ポジション 二塁手
プロ入り 1984年 ドラフト2位
初出場 1985年5月22日
最終出場 1998年9月29日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

オリンピック
男子 野球
1984 野球

正田 耕三(しょうだ こうぞう、1962年1月2日 - )は、和歌山県和歌山市出身の元プロ野球選手内野手)。現在は韓国・SKワイバーンズ打撃コーチ。

経歴

旧名は「耕造」だったが、中学時代に負傷したのを機に改名した(月刊THE CARPより)。市和歌山商高から新日鉄広畑へ進み、1984年にはロサンゼルスオリンピック野球日本代表として二塁を守り、金メダル獲得に貢献した。

1984年ドラフト2位で広島東洋カープに指名され入団。正田自身は少年時代から熱狂的な阪神タイガースファンであり、社会人時代も同僚から「阪神の負けが込むと部屋にこもって口をきかなくなる」と呆れられるほどのファンで、事前に会社への打診もなく指名したことから入団が危ぶまれたが、その入団会見の席において「自分は阪神ファンだが、プロであるからこれからは広島に野球をしにいく」と語った。「正田は残留」という会社側の意向を聞き、指名を見送った阪神のスカウトは地団太を踏んで悔しがったという(後藤正治・著『スカウト』より)。

プロ入り後、チームの大先輩である高橋慶彦を手本に猛練習に励み、短期間でスイッチヒッターへと転向した。高橋からは他にも打撃・走塁など多くのことを学んだが、二遊間の挟殺プレイを巡って試合中に高橋と口論することも度々あった。納得がいかなければ大先輩にも噛み付く、闘志溢れるプレーが人気の選手であった。

二塁手のレギュラーに定着し、1987年1988年と2年連続で初の首位打者を獲得。1987年は読売ジャイアンツ篠塚利夫と同率で並んでのタイトルで、同率で複数の選手が首位打者を獲得したのは1969年張本勲永淵洋三以来史上2度目のことである。またこの時は本塁打0での首位打者となり、これは戦後初の記録であった[1]。また、同じ年にチームメートのランス規定打席到達者中最低打率で本塁打王となっており、同一チームから、規定打席到達者中最低打率の本塁打王と、規定打席到達者中最低本塁打数の首位打者が誕生した。1988年に、当時19歳の女性と結婚した(のち離婚)。1989年には最終戦を残して盗塁28で笘篠賢治が盗塁32でセリーグ最多盗塁だったが、正田が最終戦の中日戦で1試合6盗塁(プロ野球タイ記録)を決めて34盗塁とし、1989年セリーグ盗塁王となった。

1993年に右肩を故障し、スイッチヒッターであるにも関わらずシーズンを通して左打席には立てなかった。1995年からは労働組合日本プロ野球選手会会長も務めた(大学出身ではない会長は2008年現在唯一)。1998年はコーチ兼任となり、同年限りで引退。当時の広島の内野陣は若手中心で芯となるベテランが手薄であり、翌1999年は守備のほころびが目立った。野球解説者の鎌田実はテレビの解説で「正田の引退は1年早かった、1年待つべきだった」と述べている。

引退後、1999年に広島の一軍守備走塁コーチを務めた後、2000年から2004年大阪近鉄バファローズの一軍守備走塁コーチ、一軍打撃コーチを歴任。近鉄コーチ時代は梨田昌孝監督、小林繁投手コーチ、真弓明信打撃コーチと共にナイスミドル軍団として売り出されていた。2005年から2007年阪神タイガース一軍打撃コーチを務め、2005年のリーグ優勝に貢献した。しかし、2007年は打線が極度の不調でチームが3位に終わり、責任を取る形でこの年限りで辞任した。

2008年デイリースポーツ野球評論家およびサンテレビジョン解説者に就任。2008年秋、韓国プロ野球SKワイバーンズの秋季キャンプに臨時コーチとして参加。

2009年からはSKワイバーンズ2軍総合コーチに就任した。2009年7月、打線の不振による1軍、2軍コーチの配置転換で、伊勢孝夫に代わって1軍打撃コーチに昇格した。2010年からはオリックス・バファローズ一軍打撃コーチを務める。

人物

  • 実家は和歌山市駅近くの蕎麦屋。この店に「正田が本塁打を打つと蕎麦を半額にします」との張り紙が出された時期があったが、2年間で実施されたのはわずか1度だけであった。
  • 一時期、口ひげをたくわえていたが、テレビ解説をしていた山本浩二に似合わないと酷評された。本人は気に入っていた様子。
  • ある試合で足にデッドボールを受け、かなり痛がる素振りを見せたが、次打者の初球に盗塁を敢行し見事に成功した。やくみつるは漫画でこのことに触れ「これが本当の猿芝居」と評した。やくにはその風貌を色々とネタにされており、1997年ごろ、クローン猿誕生のニュースと同時期に正田がオープン戦で長打を連発したのを「実はこの正田はクローン猿」とネタにされた。
  • 契約更改を保留すると父親に「100万や200万でケチケチするな」と怒られるため、更改はいつも一発であった。
  • ゴルフではプロゴルファー猿のようにドライバーのみでプレーする。
  • 広島ファン(後に日本ハムファンとなる)で歌手の速水けんたろうと生年月日が同じ(1962年1月2日生まれ)。
  • 近鉄コーチ時代の2000年代前半、当時の近鉄は、上記の通り梨田、小林、真弓の男前内閣と言われた色男を集め、それを売りにしていたが、その三人が集まった時の写真の被写体に正田が入ると「正田さんはちょっと待っててください」と排除するカメラマンがいた。
    • また、2000年の週刊ベースボール連載漫画「OH!OH!嵐パ」(作:高岡凡太郎)では、吹石徳一とともに先述の三人の(ルックス面での)引き立て役という意味合いで「おしるこに入れる少量のお塩みたいのなもの」としてネタにされた(吹石は当時コーチからスカウトに転身していたが、作中ではコーチとしてネタにしており、欄外コメントで編集担当者にそれを指摘されていた)。

詳細情報

年度別打撃成績















































O
P
S
1985 広島 57 50 8 9 1 0 0 10 0 5 3 6 0 11 1 11 1 .180 4 .200 .339 .539
1986 90 219 28 63 8 1 1 76 11 10 7 8 0 14 3 24 5 .288 4 .347 .339 .686
1987 123 393 55 131 20 4 0 159 26 30 11 29 1 24 11 35 6 .333 5 .405 .388 .793
1988 104 394 49 134 8 7 3 165 23 16 12 7 2 29 4 37 3 .340 7 .419 .391 .810
1989 128 498 74 161 19 7 1 197 25 34 18 23 3 50 4 58 11 .323 13 .396 .476 .872
1990 124 462 48 139 18 6 3 178 39 9 11 17 3 36 4 50 6 .301 9 .385 .357 .742
1991 132 481 66 140 17 5 8 191 52 9 12 21 6 45 2 35 8 .291 11 .397 .354 .751
1992 89 359 49 108 21 1 4 143 33 15 7 10 2 37 1 29 5 .301 6 .398 .294 .692
1993 121 443 60 114 13 0 7 148 24 4 6 30 1 36 2 48 5 .257 8 .334 .316 .650
1994 122 464 55 130 6 0 5 151 34 3 3 24 2 35 1 31 5 .280 6 .325 .332 .657
1995 124 449 62 123 17 2 3 153 38 7 4 29 3 54 2 56 6 .274 12 .341 .354 .695
1996 124 480 50 113 13 0 2 132 35 4 1 41 2 30 3 50 7 .235 9 .275 .285 .560
1997 117 324 34 78 11 2 6 111 34 0 2 21 1 19 0 29 8 .241 10 .343 .283 .626
1998 110 376 44 103 9 0 1 115 17 0 0 16 1 31 1 35 5 .274 4 .306 .331 .637
通算:14年 1565 5392 682 1546 181 35 44 1929 391 146 97 282 27 451 39 528 81 .287 108 .358 .346 .704
  • 表中の太字はシーズンのリーグ最高

背番号

  • 4(1985年 - 1998年)
  • 78(1999年 - 2004年)
  • 87(2005年 - 2007年)

記録

タイトル・表彰

記録達成歴

  • 1989年10月15日、中日ドラゴンズ戦(広島市民):1試合6盗塁(プロ野球タイ記録)で盗塁王を確定
  • 1994年4月10日、読売ジャイアンツ戦(東京ドーム):通算1000本安打
  • 1994年5月22日、横浜ベイスターズ戦(福井県営球場):通算1000試合出場(318人目)
  • 1997年5月30日、横浜ベイスターズ戦(広島市民):通算250犠打
  • 1998年6月17日、ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場):通算1500試合出場
  • 1998年7月10日、ヤクルトスワローズ戦(広島市民):通算1500本安打

脚注

  1. ^ 試合数の少なかった戦前の1リーグ時代に中根之(1936年秋)と岡村俊昭(1944年)が本塁打0で首位打者になっている。戦前も含めると正田は3人目、43年ぶりであった。

関連項目

外部リンク

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