広島県総合グランド野球場
広島県総合グランド野球場 (Coca-Cola West野球場) 総合球場・県営球場 | |
---|---|
| |
施設データ | |
所在地 | 広島市西区観音新町二丁目11番124号 |
開場 | 1941年12月 |
所有者 | 広島県 |
管理・運用者 | 広島教育事業団 |
グラウンド |
内野 - 土 外野 - 天然芝 |
使用チーム • 開催試合 | |
広島カープ(1950-1957) | |
収容人員 | |
13,250人(内野:固定、外野:芝生) | |
グラウンドデータ | |
球場規模 |
両翼 - 92 m 中堅 - 113 m |
広島県総合グランド野球場(ひろしまけんそうごうぐらんどやきゅうじょう)は、広島県広島市西区の広島県総合グランド内にある野球場。通称、総合球場もしくは県営球場。施設は県が所有し、財団法人広島県教育事業団が指定管理者として運営管理を行っている。
施設の命名権をコカ・コーラウエストホールディングス(現・コカ・コーラウエスト)が取得、2008年4月1日より呼称をCoca-Cola West野球場(コカコーラウエスト やきゅうじょう)としている。
歴史
1941年12月、広島県の皇紀2600年記念事業の一環として完成。現広島県総合グランドの当時の名称であった総合体錬場の一施設。作業はグラウンド等と同様に市内の旧制中学および同女学校の勤労奉仕動員学徒の労働力があてられた。
本格的な野球場としては中国地方初。当初は「総合体錬場」という名称だった。 同年12月7日、広陵中学と広島市商が記念すべき第一戦を行い、広陵が3-1で勝利している(当時の中国新聞による)。
戦後、1950年に結成された広島カープの本拠地となった。フィールドは全面土で、外野も芝は敷かれてなく、観客席はバックネット裏に土盛りしたスタンドが少々あったが、残りの1塁側と3塁側のファウルグラウンド及び外野にロープを張り、その後ろを観客席とした。ナイター用の照明設備もなく、カメラマンブースもグラウンド内にあり、水捌けも悪く設備は余りにも不充分だったものの、カープには県民の根強い応援の後押しがあった。市民の募金で球団を支える試み「樽募金」の発祥の地でもある。あちらこちらに募金を呼びかける樽が置いてあった。また塀を乗り越えてタダ見するお客を、資金難に苦しんだカープ初代監督の石本秀一が試合そっちのけで見張った。張本勲も何度も乗り越えて見たという。また1954年2月にジョー・ディマジオとマリリン・モンローが新婚旅行で来日して広島入りした際、ディマジオがこの球場を訪れカープ選手に二日間に渡り打撃指導を行った[1][2] 。応援に訪れたモンローにディマジオそっちのけでファンが殺到。こういった事が離婚の原因になったという逸話も残る[3]。
カープ可愛さの余り、暴徒化したファンが試合後に審判団を軟禁したり、空き瓶を相手チームの選手に投げ付けるなどのトラブルも頻発した。1953年には相手チームがレフトポールに直撃するホームランを放つと「こんなもんがあるからカープが負けるんじゃ」とファンがそのポールを引き抜いてしまうという珍事も起きた。1957年7月22日に広島市民球場が完成したのに伴い、プロ公式戦の開催は終了した。しかしその後も改築・改修などを経て現在に至るまで、県内のアマチュア野球の主力球場として活用されている。
なお、1992年には、広島市民球場のスコアボード改築工事のため、広島東洋カープのファン感謝デーが本球場での開催となった。
施設概要
総合グランド内その他の施設
- 広島県総合グランド(Coca-Cola West広島総合グランド)
- 広島県総合グランドメインスタジアム(Coca-Cola West広島スタジアム)
- 広島県総合グランド補助競技場
- 広島県総合グランドラグビー場(Coca-Cola Westラグビー場)
- 広島県総合グランド運動場(多目的広場)
脚注
- ^ カープ50周年特集 カープ年表(1954年)(中国新聞より)
- ^ いろいろなマリリン.モンロ-
- ^ 佐山和夫著 『ディマジオとモンロー―運命を決めた日本での二十四日間』 河出書房新社 1995年12月 182~189頁。
関連項目
外部リンク
前本拠地: n/a - |
広島東洋カープの本拠地 1950 - 1957 |
次本拠地: 広島市民球場 1957 - 2008 |