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回天

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回天一型。ハッチの開閉は手動では内部からしかできなかった。外部から開けるには下部ハッチは六角レンチで、上部は十字の突起を工具で回した。
回天一型の上部ハッチ整流版に画かれた特攻のシンボル・マーク「菊水」。菊水は大楠公の旗印より。

回天(かいてん)は、日本海軍特攻兵器の一つで、人が乗り組み操縦できるよう、九三式三型魚雷(通称「酸素魚雷」)を改造した人間魚雷炸薬量は1.55トンあり、一撃で戦艦でも撃沈できるとされた。(てき)、〇六(マルロク)との別称もある。「回天」は、「天を回らし戦局を逆転させる」との意味。必死必殺の救国兵器として考案された。

概要

潜水艦の上に積まれた回天とその搭乗員

回天は甲標的搭乗員であった黒木博司大尉仁科関夫中尉らが、太平洋戦争大東亜戦争)末期、日米の隔絶した工業力の差から、戦局を打開するためには「有人の水中兵器(ゆくゆくは航空機)を主体とした特攻」による敵艦隊撃滅以外にはないと提唱したことにはじまる。しかし海軍は当初生還の見込みの無い出撃は許可しないとして、彼らは海軍内で孤立した。

人間魚雷の構想はガダルカナル島での敗北後、日本海軍内で複数上がっていた。一つは竹間忠三大尉で、「戦勢の立て直しは必中必殺の肉弾攻撃である」としてその構想を軍令部の井浦翔二郎中佐に送り、井浦中佐が実現性を打診したが、艦政本部は消極的で軍令部首脳は認めなかった。次に1943年(昭和18年)12月、伊一六五潜水雷長入沢三輝大尉と航海長の近江誠中尉が、戦局打開の手段として「人間魚雷の独自研究の成果」を軍令部と連合艦隊に献策したが、受け入れられなかった。

こうしたなか、黒木博司大尉と仁科関夫中尉が1943年(昭和18年)から1944年(昭和19年)に2回にわたり、軍令部や軍務局の要員を歴訪、軍務局第一課長の山本善雄大佐をうごかし[1]、1944年2月26日に「乗員の脱出装置なしでは兵器として絶対に採用しない」との条件付で試作が認められた。1944年7月25日の試作機の試験が大入島発射場で行われたが、脱出装置は未完成のため装備されなかった。

兵器として特性に問題があると指摘された、その主なものは、

  1. 魚雷改造の艇のため後進ができないこと。
  2. 旋回半径が大きすぎること。
  3. 最大80mしかない潜航深度が母艦の大型潜水艦の深度を減殺すること。

等であった。が、改善されることなく1944年8月1日に海軍大臣の決裁により正式に兵器として採用され、黒木の提案どおり「回天」と命名された。すでに制海権が奪われ運搬用の大型潜水艦が次々と撃沈されていくという戦況のなか、この問題は最後まで解決できなかった。

1944年9月1日、山口県大津島に基地が開隊。5日より、全国から志願して集まった搭乗員達による本格的な訓練が始まっていった。

一方、肝心の回天の生産は、8月末までに100基の1型を生産する計画が、9月半ばまでに20基、以後日産3基が工廠の限界であった。これは米軍による海上輸送の破壊による資材の不足、損傷艦の増大、この頃より本格化したB-29爆撃機による本土空襲、工員の不足や食料事情の悪化が生産を妨げたためである。さらに回天のベースになった九三式三型魚雷は、酸素を使用するので整備に非常な手間がかかり、1回の発射に地上で3日の調整が必要であった。戦局が押迫り、十分な訓練期間がない以上、回天の整備隊は3日で2回のペースで調整するよう督促された。

そして、9月6日には訓練中に提唱者の黒木大尉が事故死したが、これは逆に「黒木に続け」として搭乗員たちの士気を高めた[2]。搭乗員は昼の猛訓練と夜の研究会で操縦技術の習得に努め(不適正と認められた者は即座に後回しにされた)、技術を習得した優秀な者から順次出撃していった。

1944年9月半ばからは回天も徐々に数を増やし、困難を人員の努力で補い戦力化がはかられた。

10月初めからは、回天搭載の工事を終えた第15潜水隊の3隻の潜水艦により、周防灘で最後の総合訓練を実施、10月下旬には連合艦隊司令長官から回天による特別攻撃命令が発せられた[3]。これにより第6艦隊司令部で「玄作戦」が立案され、攻撃隊(残された主力潜水艦のほぼ総戦力による特別編成隊)は「菊水隊」と命名された。このうち、ウルシー泊地攻撃隊は給油艦ミシシネワMississinewa)を撃沈して初戦果をあげた。

以後は次第に米軍の停泊地の警備が厳重となった為、洋上攻撃へ作戦変更を余儀なくされた。菊水隊以降、金剛隊、千早隊、神武隊、多々良隊、天武隊、振武隊、 轟隊、多聞隊と終戦の1週間前まで、計148基の回天が出撃した。

1945年3月以降は敵本土上陸に備えて陸上基地隊の設営や巡洋艦駆逐艦からの発射訓練も行われたが、決戦をむかえる前に終戦となった。

なお、人間魚雷という語感からくる壮絶なイメージが先行して、今日までその悲劇性を強調するあまり、「強制的に搭乗員にさせられた」、「ハッチは中からは開けられず(実際は中から搭乗員が開閉した)一度入ったらもう出られない」、「戦果はまるでなかった」等、数々の歪曲的な伝え方をされてきたが、実際は太平洋戦争大東亜戦争)末期の国難に立ち上がった精鋭部隊(多くの志願者の中から更に厳選して選ばれた)であった。

広島長崎に落とされた原子爆弾(核部分)をテニアン島まで運び、帰路にあった重巡洋艦インディアナポリスを撃沈したのは、この回天特別編成隊の多門隊・伊五八潜によるものだった。ただし、橋本以行艦長の判断で回天は発進されず、雷撃(通常魚雷)で行われた(回天戦の準備も行われていた)。

搭乗員

ファイル:Kaiten toujoiin.JPG
回天搭乗員=大津島訓練基地での記念写真

海軍兵学校海軍機関学校出身者は、加賀谷武大尉(兵71)、帖佐裕大尉(兵71)、久住宏中尉(兵72)、河合不死男中尉(兵72)、村上克巴中尉(機53)、福田斉中尉(機53)、都所静世中尉(機53)、豊住和寿中尉(機53)、川崎順二中尉(機53)が、潜水学校11期卒業と同時に志願して回天隊に参加。以上は黒木、仁科が最初に何らかのかたちで接触をはかった者と思われる。上別府宜紀大尉(兵70)、樋口孝大尉(兵70)は特四内火艇の後、志願参加。近江誠大尉(兵70)、三谷與司夫大尉(兵71)、橋口寛中尉(兵72)も回天と同様の特攻兵器の意見書を提出後、志願参加。それ以外は指名による(本人の配属希望を考慮し選考)。

予備士官予科練出身者は募集による志願。ただし、作戦は奇襲で、軍機密事項の段階であったため、敵への情報流出を防ぐ必要から、兵器に関する具体的な事柄には一切触れられなかった。募集要綱には「右特殊兵器は挺身肉薄一撃必殺を期するものにしてその性能上特に危険を伴うもの」、「選抜せられたる者はおおむね三月及至六月間別に定められたる部隊において教育訓練を受けたる上直に第一線に進出する予定なり」とある。それ以上の説明は口頭でなされた。土浦海軍航空隊の予科練習生の場合、応募者2千余名の中から、身体健康で意志強固な者、攻撃精神旺盛で責任感の強い者、家庭的に後顧の憂いのない者を基準に100名が選抜された。

なお、最初期に着任した搭乗員は以下の34名である。

黒木博司(機51・殉職)、樋口孝(兵70・殉職)、上別府宣紀(兵70・菊水隊)、仁科関夫(兵71・菊水隊)、加賀谷武(兵71・金剛隊)、帖佐裕(兵71・第三回天隊◎)、久住宏(兵72・金剛隊)、河合不死男(兵72・第一回天隊)、石川誠三(兵72・金剛隊)、川久保輝夫(兵72・金剛隊)、吉本健太郎(兵72・金剛隊)、福島誠二(兵72・多々良隊)、土井秀夫(兵72・多々良隊)、柿崎実(兵72・天武隊)、小灘利春(兵72・第二回天隊◎)、福田斉(機53・菊水隊)、村上克巴(機53・菊水隊)、都所静世(機53・金剛隊)、豊住和寿(機53・金剛隊)、川崎順二(機53・千早隊)、宇都宮秀一(東大・菊水隊)、今西太一(慶大・菊水隊)、近藤和彦(名古屋高工・菊水隊)、佐藤章(九大・菊水隊)、渡辺幸三(慶大・菊水隊)、原敦郎(早大・金剛隊)、工藤義彦(大分高商・金剛隊)、前田肇(福岡第二師範・天武隊)、池淵信夫(大阪日大・轟隊)、小林好久(長岡工業専門・殉職)、藤田克己(予・多聞隊◎)、永見博之(予・第五回天隊◎)、上杉正俊(予・転属)、松岡俊吉(予・転属)。(注・予=予備士官で出身校不明、◎=生還)

昭和63年2月回天名簿によると、最終的には、兵学校、機関学校122名、予備士官244名、兵科下士官10名、予科練1050名の、計1426名(うち転出51名)が着任した。

回天について

回天四型。ハワイのUSSボーフィン潜水艦博物館に展示されている。

回天は艦隊決戦型の駆逐艦、巡洋艦用に採用された超大型魚雷「九三式三型魚雷(酸素魚雷)」を改造したものである。九三式三型魚雷は、直径61センチ、重量2.8トン、炸薬量780キログラム、時速約90キロで疾走する無航跡魚雷であり、主に駆逐艦に搭載された。回天は、この酸素魚雷を改造して、全長14.7メートル、直径1メートル、排水量8トンで、魚雷の本体に外筒をかぶせて、気蓄タンク(酸素)の間に一人乗りのスペースを設け、簡単な操船装置や調整バルブをつけ、襲撃用の潜望鏡を設けた。炸薬量を1.5トンとして、最高速度時速55キロで23キロメートルの航続力があった。当初突入前に乗員の脱出装置のハッチがあったが,航行安定に悪影響をもたらすこと、脱出後は敵の捕虜になること、また脱出装置自体の製作がまにあわなかったことから結局は廃止された。俗説では「ハッチは外からしか開閉できない」と言われているが、実際には内部からも開閉可能だったと言われている。

また、潜水艦は敵と遭遇し攻撃を受けた場合、深度を深くとって攻撃を回避することが有効であるが(伊号潜水艦は100 m 以上の潜水が可能であった)、回天は最大でも80 m の耐圧深度しかなく、母艦潜水艦の水中機動も妨げられ、優れたアメリカ軍の対潜兵器とあいまって、出撃した潜水艦16隻(のべ32回)のうち8隻が撃沈された。

1944年7月に呉工廠で2基の試作がなされた回天は、搭乗員が突入直前に潜望鏡を使用して敵艦の位置・速力・進行方向を確認、これを元に射角などを計算して敵艦と回天の針路の未来位置が一点に確実に重なる(命中させる)ように射角を設定。突撃開始から命中までに要するであろう時間も予想しておく。そして潜望鏡を下ろし、ストップウオッチで時間を計測しながら推測航法で突入する。命中時間を幾分経過しても命中しなかった場合は、ふたたび潜望鏡を上げて索敵と計算を行い、突入を最初からもう一度やり直すという戦法をとり、訓練もその方向で行われた。しかし、攻撃目標となる太平洋の環礁は水路が複雑であり、夜間、しかも潜望鏡とジャイロスコープでの推測航法では目標まで到達することは充分な訓練を経ても難しかった。泊地攻撃での回天による戦果は、発進20基のうち撃沈2隻(給油艦ミシシネワ、歩兵揚陸艇LCI-600)、撃破(損傷)3隻であった。 最初の攻撃で給油艦ミシシネワが撃沈された際、アメリカ軍は一時的に航空燃料の補給の不安に陥った。なお、アメリカ軍はこの攻撃を、当初2人乗りの特殊潜航艇「甲標的」による襲撃と考えていた。艦上の兵士はこれよりいつ回天が襲ってくるかという恐怖にかられ、泊地にいても連日火薬箱の上に坐っているような戦々恐々たる感じであったという。(出典:特攻兵器「回天」と若人たち~ウルシー礁内の大恐慌)

敵の防備が強化され、泊地攻撃が難しくなってからは、水上航行中の船を攻撃する作戦に変更され、潜望鏡測定による困難な計算と操艇が要求された。

実戦では当初から懸念されたとおり、回天の母体の九三式三型魚雷は長時間水中にあることは予定されておらず、魚雷内の燃焼室と気筒に水圧がかかってエンジンが故障してしまい、エンジンに点火できず点火用の空気(酸素によるエンジン爆発防止の為に点火は空気で行われた)だけでプロペラが回る「冷走」状態におちいり、出撃時には使用不能になっていることもあった。この場合艦上では修理が難しく、出撃不能となる。また、最初期は潜水艦に艦内からの交通筒がなかった為、発進の前に一旦浮上して回天搭乗員を移乗させねばならなかった。 潜水艦を母艦として運搬されて運用された回天も、のちの本土決戦では水上艦を母艦としての作戦が計画されていた。そのため、海上挺進部隊の軽巡洋艦北上をはじめとして駆逐艦一等輸送艦が改造された。

黒木博司大尉は黒髪島沖で指導訓練中、事故により殉職、仁科中尉も1944年11月20日、菊水隊としてウルシー環礁で伊号第四七潜水艦より他艇と共に発進、戦死している。初期の回天は黒木、仁科両名のリーダーシップが大きく、その後の搭乗員の養成は分隊士(最初期に着任した搭乗員の中から選ばれた)があたったが、隊員の士気の維持は困難な場面もあったと想像される。

同じように、はじめから乗員が帰還できない事を前提として作られた兵器は特攻兵器に一覧がある。

回天各型

回天断面図 Type1,2

1型

艇後半の機関部を九三式酸素魚雷から流用して作製。他に1型を簡素化して量産性を高めた1型改1および1型改2がある。

  • 全没排水量:8.30 t
  • 全長:14.75 m
  • 直径:1.00 m
  • 軸馬力:550 馬力
  • 速力/航続力:30 kt/23,000 m、20 kt/43,000 m、10kt/78,000 m
  • 最低航行速度:3 kt
  • 乗員:1 名
  • 炸薬:1.55 t
  • 安全潜航深度:80 m

2型

過酸化水素と水化ヒドラジンを燃料とする機関(六号機械)を搭載して40ノットの高速を狙った大型タイプ。 六号機械の開発が難航し、量産されることなく終戦を迎えた。

回天断面図 Type4,10

4型

機関に2型と同じ六号機械を使用し、燃料のみ1型と同じ酸素と灯油に変更したタイプ。 2型と同じく六号機械の開発難航により量産されなかった。

  • 全没排水量:18.17 t
  • 全長:16.50 m
  • 全幅:1.35 m
  • 速力:40 kt
  • 水中航続距離:40 ktで27,000 m
  • 乗員:2 名
  • 炸薬:1.8 t

10型

九二式電池魚雷を中央部で切断し、操縦室を挿入した簡易型回天。 航続距離、速力とも低く航行中の艦船を襲撃することは不可能だったが、酸素魚雷転用の1型では不可能な機関停止による待機や、逆転による後進が可能で運用の柔軟性が増すと期待されていた。 生産が間に合わず、実戦に参加することなく終戦を迎えた。

海軍の特攻兵器開発

1944年3月、軍令部は、戦局の挽回を図る「特殊奇襲兵器」の試作方針を決定し、次のような 特殊奇襲兵器を緊急に実験、開発するとした。

  1. ㊀(まるいち)金物 潜航艇 (特殊潜航艇甲標的」丁型「蛟龍」)
  2. ㊁(まるに)金物 対空攻撃用兵器
  3. ㊂(まるさん)金物 可潜魚雷艇(小型特殊潜水艇「海龍」)
  4. ㊃(まるよん)金物 船外機付き衝撃艇(水上特攻艇「震洋」)
  5. ㊄(まるご)金物 自走爆雷
  6. ㊅(まるろく)金物 人間魚雷(「回天」)
  7. ㊆(まるなな)金物 電探
  8. ㊇(まるはち)金物 電探防止
  9. ㊈(まるきゅう)金物 特攻部隊用兵器

1944年6月、マリアナ沖海戦で敗北した日本海軍は、空母機動部隊の再建を諦めて、特殊奇襲兵器を優先的に開発、準備を決定する。1944年7月、大海指第431号では作戦方針の中で、好機を捕捉して敵艦隊および進攻兵力の撃滅するために敵艦隊を前進根拠地において奇襲する、潜水艦飛行機・特殊奇襲兵器などによる各種奇襲戦を実施する、局地奇襲兵力を配備し、敵艦隊または敵侵攻部隊の海上撃滅に努める、とした。1945年1月18日、大本営と政府主要閣僚の集まる最高戦争指導会議(大本営政府連絡会議)において、全軍特攻化が、日本軍の最高戦略となる。こうして、軍上層部の主導の下に、人間魚雷「回天」が開発、量産され、特攻隊員の編成や訓練が、組織的に行われるようになる。

戦歴

初陣

1944年11月8日、「玄作戦」のため、大津島基地を出撃した菊水隊(母艦潜水艦として、伊三六潜伊三七潜伊四七潜に各4基ずつ搭載)の12基が回天特攻の初陣である。 菊水隊の回天搭載潜水艦3隻のうち、伊三六潜と伊四七潜の2艦はアメリカ軍機動部隊の前進根拠地であった西カロリン諸島ウルシー泊地を、伊三七潜はパラオ諸島のコッソル水道に停泊中の敵艦隊を目指して出撃した。

回天の最初の作戦であるウルシー泊地攻撃「菊水隊作戦」が1944年11月20日決行された。20日、伊四七潜から4基全て、伊三六潜からは4基中の1基の計5基の回天が、環礁内に停泊中の200隻余りの艦艇めざして発進した。 しかし、伊号第四七潜水艦の帰着直後の報告により作成された「菊水隊戦闘詳報」によると、「3時28分から42分、伊四七潜は回天4基発進。発進地点はマガヤン島の154度12海浬」とホドライ島の遥か南より発進させている。そのためプグリュー島の南側で2基の回天が珊瑚礁座礁して自爆することとなった。

伊三六潜は、4時15分発進予定地点のマーシュ島105度9分5浬に到着し、3基は故障で潜水艦から離れず、今西艇だけが4時54分発進した。 その後、これらの回天のうち、1基は湾外でムガイ水道前面で駆逐艦ケースより衝角攻撃を受けて沈没。残る2基が、泊地進入に成功。1基が5時47分ミシシネワに命中(混載していたガソリンに引火して爆発炎上、1時間後に沈没、戦死50名)。 その後、最後の1基は軽巡洋艦モービルに向けて突入、潜望鏡が2 - 4ノットの速力で直進してくるのを発見したモービルが、5インチ砲と40ミリ機銃で射撃を開始。機銃弾が命中、5インチ砲弾の至近弾を受けたため突入コースに入りながら海底に突入し、のちに護衛駆逐艦ロールの爆雷攻撃により6時53分に完全に破壊した(隊員と女学生が彼に差入れた座布団が海面に上がった)。

伊三七潜を母艦とした菊水隊のうち、パラオ、コスソル水道に向った4基の回天は、パラオ本島北方で米設網艦ウインターベリーに8時58分浮上事故(ポーポイズ運動を行った)のために発見通報された。米護衛駆逐艦「コンクリン(Conklin)」・「マッコイ・レイノルズ(McCoy Reynolds)」が9時55分現場付近に到着した。両艦はソナーで探索を開始、午後も捜索を続け15時4分コンクリンが探知し、レイノルズは15時39分ヘッジホッグで攻撃13発の攻撃を行ったが効果なく、目標を見失った。16時15分コンクリンが探知し攻撃、ヘッジホッグを発射し、小さい爆発音(命中音?)らしきもの1を探知。続くヘッジホッグ2回と艦尾からの爆雷攻撃の1回には反応がなかった。レイノルズが再度爆雷攻撃を行い(コンクリンがソナーで探査し、後続のレイノルズが爆雷で攻撃する)、接近したところ17時01分、海面にまで達する連続した水中爆発を認めた。以後反応無く撃沈と判定された。伊三七潜の乗員と隊員は後に総員戦死と認定。なお、のちにコンクリンは金剛隊を搭載した伊四八潜も撃沈している。

この菊水隊の泊地攻撃で、アメリカ軍の泊地の警戒が厳重になったが、黒木、仁科の進言どおりに水上航走艦を狙う作戦へと変更されたのは、金剛隊による泊地攻撃の後であった。

その後の出撃

1944年11月8日に菊水隊として、ウルシーパラオ方面に初出撃して以降1945年8月まで、金剛隊、千早隊、神武隊、多々良隊、天武隊、振武隊、轟隊、多聞隊、神州隊ののべ28隊(潜水艦32隻、回天148基 途中帰投含む)の出撃が行われている。同一の隊が、複数回の出撃を行っていたり、○○隊などは呼称であるためこのような数字になる。最初の菊水隊のみが1回限りの出撃である。目的地は、ニューギニアからマリアナ諸島沖縄諸島にかけてである。

基地回天隊

回天を搭載する大型潜水艦が次々と失われ、また敵の本土上陸が現実問題となってきたことから、日本本土の沿岸に回天を配備する「基地回天隊」が組織された。

第一回天隊8基および搭乗員、整備員、基地員の全127名は1945年3月に第十八号一等輸送艦沖縄に向け進出したが、同18日に沖縄南西の慶良間諸島付近で米潜水艦「スプリンガー」に撃沈され全滅(推定)した。

第二回天隊8基は1945年5月に伊豆諸島八丈島の2ヶ所の収容壕に配備され、敵艦隊の接近を待ったが、出撃する機会なく終戦を迎えた。その後アメリカ軍命令で壕ごと爆破処理されたが、現在は壕は発掘され説明看板が立てられている。

そのほか第三・第五・第八・第九回天隊は宮崎県、第四・第六・第七回天隊は高知県、第十一回天隊は愛媛県、第十二回天隊は千葉県、第十六回天隊は和歌山県に配備された。

回天戦の戦果

総合戦果

回天の総合戦果は、アメリカ側の秘密文書公開と戦後の「全国回天会」の調査により、以下が判明されている(魚雷攻撃よる戦果も含まれる)。なお、一回目の出撃である1944年11月20日に戦艦ペンシルベニアを撃沈しているとの報告が日米双方に存在している[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。が、実際にはペンシルベニアは大戦を生き延び、戦後のビキニ原爆実験における二度の核爆発さえも耐え抜いて沈まずに解体処分されている。

  • 回天による攻撃(発進49基=搭乗員)
    • 1944年11月20日 給油艦ミシシネワ撃沈
    • 1945年1月12日 輸送艦ポンタス・ロス小破
    • 1945年1月12日 歩兵揚陸艇LCI-600撃沈
    • 1945年1月12日 弾薬輸送艦マザマ大破
    • 1945年1月12日 戦車揚陸艦LST225小破
    • 1945年7月24日 駆逐艦アンダーヒル撃沈[4]
    • 1945年7月24日 駆逐艦R・V・ジョンソン小破
    • 1945年7月28日 駆逐艦ロウリー小破

回天戦の戦果は、撃沈4隻と日本軍が考えていた程にはアメリカ軍の被害記録がなく、アメリカ軍が意図的に戦果を隠蔽していると疑問視している旧軍の回天関係者(隊員や潜水艦長、参謀)がいた。一方、いまだに調査されていない秘密文書もあり、また民間輸送船に関してはアメリカ軍での記録がないため、以上は現在確認されているものということになり、これから新しい戦果及び戦闘状況が判明される可能性もある。

日本軍側が認識していた戦果と実際の戦果の乖離する理由については、日本軍側は潜水艦の聴音による爆発音の確認で戦果を認識していたのがその主な理由である。(なお、発進から30分以内での爆発音は、突入時刻と一致するため敵突撃の可能性は濃厚と考えられた。燃料のきれる1時間前後での爆発音は自爆の可能性が高い。)

搭乗員は突撃の際には安全装置を外し、敵艦への突入角度が足りなくても、その衝撃で信管が作動するよう自爆装置に腕をかけていた。衝突してから数秒以上後に、搭乗員が内部から自爆装置を起動させ爆発させたと思われる例があるのは、そこまでの衝撃がなかったためか、あるいは何らかの理由で自爆装置に腕をかけていなかったためと推測される。その場合は、回天と敵艦船との距離は既に離れているため、敵への被害は損傷程度にとどまっている。

回天戦の戦没者

終戦までに訓練を受けた回天搭乗員は、海軍兵学校海軍機関学校予科練予備学生など、1,375人であったが、実際に出撃戦死した者は87名(うち発進戦死49名)、訓練中に殉職した者は15名、終戦により自決した者は2名。回天による戦没者は、特攻隊員の他にも整備員などの関係者もあり、それらを含めると145人になった。

回天の基地

主な回天の訓練基地

「回天」の訓練基地として山口県周南市(旧・徳山市)の徳山湾に浮かぶ大津島が知られている。大津島の一番南、元は別の島だったものの、400年くらい前につながってひとつの島になった馬島に、戦時中は、回天の組立工場とそれを海に下ろすためのエプロン2ヵ所と島の裏側に発射練習基地があった。島の反対側までトンネルがあり、その先に発射練習基地があった。練習のコースは、大津島の徳山湾の東にあたる内海側から黒髪島方面に発射して戻ってくる第1コース、やはり内海側から発射して、馬島を周回して外海側の発射練習基地に戻る第2コース、内海側から発射して大津島を北上し、島の西を回って、外海側の発射練習基地に戻る第3コースがあった。

大津島の基地は、まもなく手狭になり、同じ山口県内の周防灘側のと平生にも基地が設けられ、さらに大分県速見郡日出町大神にも基地が設けられた。大津島を含めて、4ヵ所に基地があったことになる。回天の出撃は、大半が大津島基地からで14回、他に光から12回、平生から2回である。

現在は、高台の旧馬島小学校[6]の跡地に1968年(昭和43年)に建てられた回天記念館と回天碑、鐘楼がある。門から記念館までのアプローチには、それぞれの戦没者の名を刻んだ烈士石碑が並んでいる。初代館長は、高松工(たくみ)である。現在は周南市教育委員会が管理運営している。

なお、以前の展示品などは、回天記念館と同じ住所の休憩所「養浩館」に展示されている。そちらでは生々しい体験談を聞くことが出来る。

発射練習基地はそのほとんどが破壊され、大方の輪郭のみ残っているものの一部老朽化が進み、立ち入り禁止になっている。通称「ケイソン」と呼ばれている。

回天基地一覧[7]

部隊名 指揮官 編成年月日 部隊編成 配置
光突撃隊 山口県
平生突撃隊 山口県平生
大津島分遣隊 山口県大津島
大神突撃隊 大分県大神
01回天隊 河合 不死男 回天8基(配備前に喪失) 沖縄県沖縄本島
02回天隊 小灘 利春 回天8基 東京都八丈島
03回天隊 羽田 育三 回天8基 宮崎県油津
04回天隊 近江 誠 回天8基 高知県須崎
05回天隊 永見 博之 回天7基 宮崎県大堂津栄松南郷
06回天隊 那知 勤 回天8基 徳島県浦戸
07回天隊 櫻井 勝 回天8基 徳島県浦戸・高知県須崎
08回天隊 井上 薫 回天12基 宮崎県細島
09回天隊 重岡 力 回天6基 宮崎県内海
10回天隊 佐賀 正一 回天4基 鹿児島県内ノ浦
11回天隊 久堀 弘義 回天8基 愛媛県麦ヶ浦
12回天隊 峯 眞佐雄 回天6基(未配備) 千葉県小浜
13回天隊 未展開 静岡県網代
14回天隊 未展開 神奈川県小田和
15回天隊 未展開 愛知県大井
16回天隊 武永 惟雄 回天4基(未配備) 和歌山県由良白崎
17回天隊 展開先未定
18回天隊 展開先未定

元搭乗員から見た戦後の回天戦(評価)

これまで出版された本などから、海軍兵学校出身者、予科練出身者は概ね肯定的である一方、予備学生出身者の中には批判的、否定的な発言をしている者もいる。ある予備学生搭乗員が本を出版した際、あまりに粉飾がすぎるとして元搭乗員の間からも非難の声があがったというエピソードがある。また、自分が元搭乗員であることを家族にも話さないまま晩年を迎えた者もいる。

甲標的搭乗員の間では、創始者黒木大尉が甲標的から回天に転向したことから、批判的な見解(書籍等)をする傾向がある。

搭乗員のその後

  • 小灘利春 戦後京都大学農学部水産学科に入学(主席合格で授業料免除の特待生)。生き残った搭乗員からなる「全国回天会」を組織し、その会長として回天の史実を伝えることに尽力。兵学校同期(72期)同分隊の池田武邦(元日本建築学会副会長)とは終生交流があった。
  • 河崎春美 全国回天会事務局長
  • 帖佐裕 軍歌「同期の桜」作詞者として知られる。
  • 山地(旧姓近江)誠 元東レ顧問(?) 晩年は出家して回天戦没者追悼の旅に出た。
  • 横田寛 『ああ回天特攻隊』を著し回天を世に知らす。
  • 園田一郎 元三菱商事副社長
  • 上山春平 哲学者。京都大学名誉教授
  • 武田五郎 元球団大洋ホエールズ社長

回天をめぐる人々を描いた作品

  • ノンフィクション
    • 板倉光馬 『続・あゝ伊号潜水艦』光人社 (元・回天隊参謀)
    • 板倉光馬『どん亀艦長青春記』光人社(元・回天隊参謀)
    • 斎藤寛『鉄の棺』光人社 (元・金剛隊作戦時、伊五六潜、軍医長)
    • 『ああ黒木少佐』松平永芳・昭和35年・私家版
    • 『ああ黒木少佐』井星英・昭和35年・私家版
    • 『慕楠記』(慕楠黒木博司の記録)平泉澄・昭和50年7月・岐阜県教育懇話会刊
    • 『ああ黒木博司少佐』吉岡勲編・昭和54年・教育出版文化協会刊
    • 『ああ回天特攻隊-かえらざる青春の記録』横田寛 (昭和四六年、光人社)
    • 『回天菊水隊の四人』 前田昌宏著 光人社
    • 『「回天」その青春群像』 上原光晴著 (2000年、翔雲社)
    • 『回天の群像』 宮本雅史2008年 角川学芸出版
    • 『特攻 最後の証言』(元全国回天会会長小灘利春氏の記事) アスペクト、2006年
  • 解説書
    • 『特攻回天戦〜回天特攻隊隊長の回想』 小灘利春+片岡紀明著・2006年 光人社
    • 『人間魚雷 回天』 ザメディアジョン 2006年
    • 小島光造『回天特攻 人間魚雷の徹底研究』光人社
  • テレビ
    • 魚住少尉命中 (NHK、昭和38年12月-ドキュメント・ドラマ)
    • ある人生「回天の遺書」 (NHK、昭和44年7月2日-ドキュメント)
    • 僕たちの戦争 (TBS、2006年9月-ドラマ)
    • 証言記録「兵士たちの戦争」~回天特別攻撃隊 (NHKBShi、2009年2月-ドキュメント)

参考文献

  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第12巻 潜水艦』(光人社、1990年) ISBN 4-7698-0462-8
  • 『特攻回天戦〜回天特攻隊隊長の回想』 小灘利春+片岡紀明著・(2006年) 光人社
  • 『回天の群像』 宮本雅史・2008年、角川学芸出版
  • 『特攻 最後の証言』 (アスペクト、2006年)
  • 『回天』 回天刊行会 (昭和51年)
  • 『回天特別攻撃隊 写真集』 全国回天会編 (1992年)
  • 『ああ回天特攻隊-かえらざる青春の記録』 横田寛 (昭和四六年、光人社)
  • 『人間魚雷回天』 神津直次 (1995年、朝日ソノラマ)
  • 『戦士の肖像』 神立尚紀 (2004年、文春ネスコ)
  • 『「回天」その青春群像』 上原光晴 (2000年、翔雲社)
  • 『特攻兵器・回天と若人たち』 鳥巣建之助 (1983年、新潮社)

脚注

  1. ^ 黒木はこの時、全面血書の請願書を提出した。
  2. ^ 黒木の操縦する回天が荒波にのまれて海底に沈挫。同乗の樋口大尉と共に、艇内で窒息死するまで冷静な事故報告書と遺書を残した。
  3. ^ 1944年10月21日には神風特別攻撃隊(航空特攻)が開始された。 10月25日、関行男大尉率いる敷島隊出撃(米護衛空母セント・ロー撃沈)。
  4. ^ 発進したのは多門隊伊五三潜・勝山淳中尉(没後少佐)の回天。唯一、誰の艇によるものかがわかる戦果となった。
  5. ^ 原爆を運んだインディアナポリスの撃沈は、米海軍最大の惨事となった。その後マクベイ艦長軍法会議にかけられ、1968年に自殺している。
  6. ^ 戦時中の予科練宿舎が解体された後に、木造の小学校校舎として転用されていたもので、1965年(昭和40年)頃ふもとの旧回天組み立て工場跡に鉄筋コンクリート二階建ての新校舎が出来、学校が移転して使用されなくなった。学校はその後大津島小学校と改名。
  7. ^ 個人運営サイト「愛国顕彰ホームページ-回天作戦の展開」
  8. ^ この映画の撮影の際、検証に立ち会っていた小灘利春(元第二回天隊隊長)のもとに主演の鶴田浩二がやってきて、耳元で「自分は本当は特攻隊員じゃなかったんです。整備兵だったんです」とそっと打ち明けたという(鶴田は特攻崩れとして売り出し戦後の大スターとなった)。
  9. ^ 主演の市川海老蔵は、当時の搭乗員と比べかなり体が大きく、撮影に使われた回天のコクピットは、リアリティーを持たせるため実際よりも2割ほど大きく作られていた。

関連項目

外部リンク