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北畠顕信

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北畠 顕信(きたばたけ あきのぶ、正和6年?(1317年?) - 天授6年/康暦2年?(1380年?))は、南北朝時代の武将。北畠親房の次男。左近衛少将に任ぜられ、春日少将と称した。また土御門入道と号す。南朝従一位右大臣に任ぜられたともされる。

1336年延元元年/建武3年)に伊勢国において挙兵し、後醍醐天皇の遷幸を援助、伊勢国司に任官される。『太平記』には、兄、顕家に随伴して上洛し、美濃青野原や山城男山で北朝軍と兵刃を交えた、と記述されているが、これは春日顕国の事跡との混同とされる。1338年(延元3年/暦応元年)兄の死後、鎮守府将軍に任命され、義良親王宗良親王に供奉して父親房と共に陸奥国に赴こうとしたが、途中で暴風にあって頓挫、吉野に戻る。翌年、再び陸奥に向かい、国府多賀城の攻略を試みる。一時占領するが、結局武家方の反撃を受け失敗。霊山城を拠点に、周辺豪族を糾合して活動する。1347年正平2年/貞和3年)霊山城が落城。宇津峰城に移るが、吉良貞家の攻撃によって1352年ここも落城。1358年正平13年/延文3年)鳥海山大物忌神社に南朝復興と出羽国静謐を祈願した寄進書を納めている事から、この時期出羽にいたと思われる。これ以後の生死は明らかでないが、後世に残された発給文書から1362年頃までは陸奥で活動を続けていたと推定される。それ以降に足跡については、吉野に帰還して右大臣を務めたとも、九州に下向し懐良親王を補佐したとも言われる。また、津軽に落ち延びたとの説もある。

系譜

脚注

  1. ^ 系図纂要』による。