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坪内定鑑

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坪内 定鑑(つぼうち さだかね、慶安2年(1649年) - 享保8年10月13日1723年11月13日))は、江戸時代旗本江戸中町奉行・南町奉行。官職は能登守、但馬守。通称は源五郎。御先手鉄砲頭坪内定次の次男。

万治元年(1658年)、将軍徳川家綱に拝謁し、寛文7年(1667年小姓組に列する。翌寛文8年(1668年)、兄・坪内定守が口論から同僚の水野正元を斬殺するという刃傷沙汰を起こして逐電したため、延宝元年(1673年)に父の家督を継承する。元禄10年(1697年)には300石を加増されて1100石を知行することとなり、書院番士から使番に、ついで御手先筒頭火付盗賊改加役と累進し、宝永2年(1705年)、能登守に叙任されると共に南町奉行に就任、2年間勤仕し、それから享保4年(1719年)までの12年間は中町奉行の職務に赴任、計14年間町奉行を勤め、江戸の治安維持や事件の裁決を担当した。6代将軍家宣の時代に起こった江島生島事件の糾明・裁定にも稲生正武仙石久尚と共に手腕を発揮、絵島はじめ大奥の女中や事件に荷担した者達への尋問を迅速に施行し、紛糾する諸問題を処理したが、拙速を尊ぶあまり流人証文に記載する人物の名を間違えるというミスも犯し、失態を咎められ将軍への拝謁を一月留められた。正徳元年(1711年)には功績を賞され熨斗縮絹縮越後縮等を賜っている。

享保4年(1719年)に町奉行の職を辞して寄合となり、享保8年(1723年)に75歳で死去した。その後は養子・定富(兄・定守の子)が継いだ。なお、中町奉行は定鑑の辞職と共に廃止されている。中町奉行を務めたのは、定鑑と丹羽長守の二名のみである。

人物

  • 新井白石が推進する正徳の治には積極的に関与せず、一定の距離を置いていた。そのため、白石からは批判的な評価を受けている。
  • 奉行としての仕事ぶりは地味ながらも堅実で、町奉行の務めを地道に励行したが、民衆からは「風向き次第に飛ぶ糸の切れた凧」と揶揄された。
  • 囚人への差し入れはそれまで役人から牢名主を経由して囚人の下に届くという慣例であったが、定鑑は牢名主が横領するを防止すべく、この慣例を改めさせ、役人から直接囚人の手に届くように改めた。

参考書籍