コンテンツにスキップ

平部嶠南

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。ヘイホークリボー (会話 | 投稿記録) による 2009年12月12日 (土) 02:14個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎生涯)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

平部 嶠南(ひらべ きょうなん、文化12年9月28日1815年10月30日) - 明治23年(1890年10月26日)は、江戸・明治期の政治家飫肥藩家老などを務めた。現宮崎県清武町出身。は俊良、は温郷、嶠南。

生涯

小田源五右衛門の娘と和田重寛(石高65石)の子として誕生し、天保4年(1833年)に平部俊寧の中継ぎ養子となる。

少年期は安井滄州安井息軒父子に儒学を学ぶ。その後江戸に留学し古賀侗庵に師事する。帰国後の天保5年(1834年)、飫肥藩の藩校である振徳堂の句読師となる。天保6年(1835年)には同校教授に出世。

弘化元年(1844年)には江戸留守居副役となる。その後、相談中や川除奉行、山林奉行、大坂留守居となる。安政元年(1854年)に隠居するも、文久3年(1863年)には再び召しだされて伊東祐帰の授読や用人番頭、中老を経て慶応3年(1867年)に家老、明治2年(1869年)に飫肥藩大参事となる。

廃藩置県後は明治政府に出仕。明治8年(1875年)には宮崎県地誌編集係に任命される。県内各地を巡り資料の収集・整理に努めた。明治17年(1884年)地誌が完成。翌18年に編集功労手当を受ける。この地誌が『日向地誌』である。

明治23年(1890年)、死去(享年76)。平部が19歳から66歳までの47年間にわたる日誌が『六鄰荘日誌』と呼ばれ現存している。

著作

参考文献