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董允

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董 允(とう いん、? - 246年)は、中国三国時代(蜀漢)の政治家。董和の子。休昭。孫は董宏の巴西太守)。子の名は不詳。蜀書に独立の伝がある[1]

政治手腕に優れ、諸葛亮費禕蒋琬らと共に「四英」とも「四相」とも称された[2]

略歴

父と共に劉備に仕えた。劉備にその素質を買われ、皇太子・劉禅の側近(太子舎人、太子洗馬)に指名された。劉禅が皇帝として即位すると、黄門侍郎に任じられる。諸葛亮にもその公明正大さを評価され、費禕の後任の侍中に任命されるとともに、虎賁中郎将として近衛兵の指揮を任された。

元々は費禕、郭攸之と共に劉禅の補佐を任されていたが、費禕は諸葛亮の北伐の随員となり、また郭攸之はおとなしい性格であったため、諫言するのはもっぱら董允の役割となった。劉禅が遊興に耽った時はそれを度々諌め、後宮の人員の増員も行わせなかった。

劉禅は成長すると宦官黄皓を寵愛して重用しようとした、これを厳しく諌めている[3]。このため、黄皓も董允存命中は政治に関与することができない黄門丞の地位に留まり、悪事をはたらくことはできなかった。

費禕の後任として尚書令に任命された際に「自分は蒋公琰と費文偉に及ばない」と常に自己批判をしていた。また、蒋琬が益州刺史を費禕と董允に譲ろうとしたときや、爵位を与えようとしたときも、これを固辞した。243年に輔国将軍、244年に侍中守尚書令のまま大将軍であった費禕の次官となる。

246年に病のために死去した。董允の没後、黄皓の権力への介入を防ぎ劉禅を諫言する人材は蜀には現れず、劉禅は既に亡くなった董允をだんだん疎ましく思うようになった。

人物

かつて父・董和は、嫡子の董允とその友人の費禕とどちらの素質が優れているか判断しかねていた。 ある時、董和の友人の許靖の子の葬儀に董允と費禕が一緒に参列することになった。この時ばかりと董和がわざと粗末な馬車を用意すると、董允はそれを嫌ったが費禕は平然としていた。 これにより董和は、「二人の優劣が今日になってようやくわかったぞ!」と言ったという[4]

一方で、費禕や胡済と宴会の約束をし、まさに出かけようとした際、年少で官位が低い董恢が表敬訪問に来た事があった。董恢は恐縮して帰ろうとしたが、「わざわざ来られた君との会話を捨て置いて、単なる友人との宴会に赴く事などありえない」と言って、外出を中止して対応している。

脚注

  1. ^ 歴史書の『三国志』では、父が伝を立てられている人物の場合、子の事績は父の伝に府載されるのが通例だが、董允のみが父の董和とは別に伝が立てられている。注釈を付けた裴松之は、陳泰陳羣の子)や陸抗陸遜の子)を例にこの処置に疑問を呈しており、董允の事績が董和を凌駕するからであろうかとしている。
  2. ^ 「董允伝」所引の『華陽国志』より
  3. ^ 陳寿はこの董允の態度を後任の侍中である陳祗と比較し、上に主君を匡正し、下に黄皓を咎めた、と評している。
  4. ^ 『蜀書』「費禕伝」