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利用者:Loup-noir/作業室B

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メッシニア県
Νομός Μεσσηνίας
ギリシャにおけるメッシニア県の位置
ギリシャの国旗 ギリシャ共和国
地方ペロポネソス
県都カラマタ
面積2,991 km²
人口180,264 人 (2005年)
人口密度60 人/km²
ナンバープレートKM
自治体コード17
構成自治体数29
標準時EETUTC+2
夏時間EESTUTC+3

メッシニア県ギリシャ語:Νομός Μεσσηνίας)は、ギリシャペロポネソス地方の県である。

メッシニア県の東にはテイゲトス山、北にはネダ川アルカディア山脈があり、西にはイオニア海が、南にはメッシニア湾がそれぞれ接している。県中心部は平野が広がっているが、三方を山岳に囲まれた地形となっている。半島部の南には、3つの島と1つの小島が浮かんでいる。県人口の半分以上は、平原上のカラマタ=メシニ都市圏に居住する。

県都であるカラマタには空港があり、またペロポネソス半島最大のウォーターフロント地域がある。

歴史

古代

初めにメッセニア地方に居住していたのは、ペラスゴイ人レレゲス人であり、レレゲス人はアンダニアを中心に居住していた。その後アエロ=ミニア人が到来し、メッセニアに移住した。ホメーロス叙事詩によると、メッセニア東部はスパルタメネラーオスの支配下にあり、西部はピュロスネレイデスの支配下にあったが、スパルタ王メネラーオスの死後、国境が東へタイゲトス山脈まで移動されたという。

紀元前1300年代の青銅器時代後期には、官僚制農業国であったピュロスの王がメッセニア地方を統治していた。メッセニア人はミケーネ方言を話し、ギリシアの多神教を信仰していた。クレスフォンテス率いるドーリア人アルカディア地方からメッシニア平原の北部に侵入すると、ステニクラルスを首都とした。さらにその後の支配はメッセニア地方全土に及んだ。しかしながら、アルカディア方言がミケーネ方言の直系の言語であることを考慮に入れると、先住民であったメッセニア人はドーリア人に追われてアルカディア地方に逃げ込んだのだと考えられる。

Map of ancient Messenia.

ドーリア人は、強い愛国心によって先住民を融合し、単一なメッセニア人としてまとめることに成功した。しかし、メッセニア地方は肥沃な土地と良好な気候のために比較的豊かな地方であり、そのことが領土拡張主義を採る隣国のスパルタの欲望を掻き立てることとなった。

紀元前720年、スパルタテレクロスがメッセニア人に殺害されたことから両国間の戦争(第一次メッセニア戦争)が始まった。戦争はメッセニア王エウパエスと次王アリストデモスの活躍にもかかわらず、スパルタの勝利に終わった。紀元前648年から紀元前631年にかけて、アリストメネス指揮下でメッセニア人がスパルタに対して蜂起を起こした。(第二次メッセニア戦争)しかし、ヘイラの城塞が11年の包囲の後に陥落し、失敗に終わった。

結果として、スパルタ市民は広大な土地を得て、土地を捨てて逃げなかったメッセニア人はヘイロータイの身分に落とされた。隷属は過酷であり、自らが耕す土地の生産物の半分を、土地の所有者であるスパルタ市民に支払わねばならなかった。スパルタの詩人ティルタイオスは、スパルタ人の傲慢さに耐え忍ぶメッセニア人をこう描写している。

As asses worn by loads intolerable, (領主が乗るロバは傲慢なので、)

So Them did stress of cruel force compel, (残忍な軍隊は彼らに服従を強制した。)
Of all the fruits the well-tilled land affords, (よく耕された土地が生産する果実の全てのうち、)

The moiety to bear to their proud lords. (半分は彼らの傲慢な領主に持っていく物である。)
(英語訳)

紀元前464年にスパルタで地震が起き、多くの人命を奪ったが、それを契機として再びメッセニア人は反乱を起こした。叛徒達は第二次メッセニア戦争の時と同じようにイトメ山の城砦に籠城した。しかし結局城塞は落ち、メッセニア人はペロポネソス半島から追放されたために、アテナイ人によって西ロクリア地方にあるナフパクトスの町に移住させられた。紀元前371年のレウクトラの戦いの後、イタリアシチリア島北アフリカに離散していたメッセニア人は、エパメイノンダスの支援により、再びメッセニアに帰還した。メッセネ(現在のメシニ)の町は紀元前369年に建設され、以後メッセニア地方の主都として、アルカディア地方の主都メガロポリスと同じように、スパルタにとっての障害となりえた。この頃メッセニア地方の他の町も、同様に建設されたが、大部分の土地は未だ過疎地域であった。

テーバイの覇権が終わった後、メッセニアはマケドニアピリッポス2世と同盟を結んだが、紀元前338年のカイロネイアの戦いに参加することはなかった。その後はアカイア同盟に加入し、紀元前222年のセッラシアの戦いでは、アカイア人アンティゴノス3世とともに戦った。マケドニア王ピリッポス5世は、メッセネの包囲にパロスのデメトリオスを派遣したが、デメトリオスは死亡し失敗に終わった。そのすぐ後にスパルタの僭主ナビスがメッセネの町を占領したが、ピロポイミン率いるメガロポリスの軍隊が到着し、町は解放された。

紀元前183年にアカイア同盟との戦いが始まると、メッセニア人はピロポイミンを捕捉し、殺害した。しかし翌年にリュコルタスに町を占領されると、再びメッセネはアカイア同盟に加入した。この戦いの中でアビアトゥリアペライといった都市がメッセネから独立したために、メッセネの力は減少した。

紀元前146年には、共和政ローマ執政官ルキウス・ムンミウスの遠征によって、他のギリシア諸邦と共にメッセネも共和政ローマの支配下に入った。その頃、タイゲトス山脈の西麓にある町アゲル・デンテリアレスの帰属をめぐって、メッセニアとスパルタの間で長い間対立が生じていたが、結局紀元後25年のティベリウス帝の時代に、メッセニアに帰属する判決が下された。(Tac.Ann.iv.43)

395年にローマ帝国が東西に分裂すると、メッセニア地方は東ローマ帝国に属することとなった。その後はスラヴ人の侵略が相次いだ。

中世から近世

中世の時代、メッシニアは他のペロポネソス地域と同じ歴史をたどった。現存する中世の城塞としてはカラマタコロニメトニなどがある。

ビザンツ帝国領であったメッシニアのほとんどの地域はオスマン帝国に占領され、残りの地域はヴェネツィア共和国の支配下にはいった。15世紀の半ばから末にかけてと、1680年代から1730年代にかけては、メッシニア地方全域がヴェネツィア領だったこともあった。

1821年にはギリシャ独立戦争が起き、オスマン帝国海軍を打ち破ったことで有名であるナヴァリノの海戦が行われた。また、現在メッシニア県に所属しているマニ半島は、港湾が無いために、オスマン帝国から自治権が付与されていた。

また、1534年にはコロニに居住していたアルヴァニテス人およびギリシア人の一族が、シチリア島にある現在のピアーナ・デッリ・アルバネージに移住した。

近代から現代

ギリシャ王国領となったメッシニア地方は、農業生産や経済が成長した。その後ピレウス・アテネ・ペロポネソス鉄道OSEの前身)によって鉄道が敷かれた。しかし、メッシニア地方からアメリカ合衆国や国内の大都市への移民も増え始めた。また、イオニア諸島の一部であるサピエンツァ島スヒザ島は、この頃メッシニア県に編入された。

第二次世界大戦ギリシャ内戦が終わると、大部分の建物は修復された。戦後、北アメリカオーストラリア西ヨーロッパへの移民が増加したが、1980年代には終息し始めた。一方で、カラマタメシニ(メッセネ)といった都市地域の人口は急増した。

1970年代には高速道路がメッシニア県に建設された。また、1999年には国道7号線の建設が進められ、2000年代半ばには国道9号線とのインターチェンジが増設された。

2007年7月26日から28日にかけて県中央部で発生した山火事は、森林果樹園農場などを焼き尽くし、県の経済に影響を与えた。その1か月後には県北東部でも火災が発生し、タイゲトス山脈に立地する村々を破壊した。また、2008年2月14日にはマグニチュード6.6の大規模な地震が県全体を襲った。

Geography

The prefecture's islands include:

Climate

Climate may vary, in the lowlands, temperatures are a bit warmer than Athens. Snow is not common during winter months except for the mountains especially the Taygetus. Rain and clouds are common inland. For one day in July 2000, morning temperatures were at the 37°C point in many areas.

Transport

There are four major highways in Messenia:

Population

Year Population Density
1991 167,292 - 56/km²
2001 172,875 57.7/km²

Communications

Television

行政区画

メッシニア県

メッシニア県は以下のデモスおよびキノティタスから構成されている。


番号 デモス ギリシャ語 政庁所在地 人口(2001年)
1 カラマタ Καλαμάτα カラマタ 57,620
2 アヴィア Αβία カンボス 3,089
3 アエトス Αετός コパナキ 3,264
4 エピア Αιπεία ロンガ 2,574
5 アンダニア Ανδανία ディアヴォリツィ 3,084
6 アンドルサ Ανδρούσα アンドルサ 2,820
7 アリス Άρις アリス 2,189
8 アリストメニス Αριστομένης アリストメニス 3,413
9 アルファラ Αρφαρά アルファラ 3,212
10 アヴロナ Αυλώνα シディロカストロ 2,626
11 ヴフラデス Βουφράδες ハツィス 1,802
12 ガルガリャニ Γαργαλιάνοι ガルガリャニ 9,083
13 ドリオ Δώριο ドリオ 4,069
14 イラ Είρα ネダ 1,027
15 トゥリア Θουρία トゥリア 4,106
16 イトミ Ιθώμη ヴァリラ 2,466
17 コロニ Κορώνη コロニ 5,067
18 キパリシア Κυπαρισσία キパリシア 8,648
19 レフクトロ Λεύκτρο カルダミリ 3,264
20 メトニ Μεθώνη メトニ 2,638
21 メリガラス Μελιγαλάς メリガラス 4,040
22 メシニ Μεσσήνη メシニ 11,041
23 ネストラス Νέστορας ホラ 5,552
24 イハリア Οιχαλία メロピ 2,797
25 パパフレサス Παπαφλέσσας ヴラホプロ 2,205
26 ペタリディ Πεταλίδι ペタリディ 3,601
27 ピロス Πύλος ピロス 5,402
28 フィリアトラ Φιλιατρά フィリアトラ 9,334
29 ヒリオホリア Χιλιοχώρια ハンドリノス 2,916
番号 キノティタス ギリシャ語 政庁所在地 人口(2001年)
30 トリコルフォ Τρίκορφο トリコルフォ 1,037
31 トリピラ Τριπύλα ラプトプロ 3,089

Provinces

Note: Provinces no longer hold any legal status in Greece.

Notes