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F-2 (航空機)

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三菱 F-2

離陸するF-2A

離陸するF-2A

F-2は、F-1の後継機として開発された日本航空自衛隊支援戦闘機戦闘爆撃機)である。1995年平成7年)に初飛行を行い、2000年(平成12年)から部隊配備を開始した。「エフに」や「エフツー」と呼ばれる。

概要

展示飛行中のF-2A

第4.5世代ジェット戦闘機に分類される、航空自衛隊の戦闘機である。F-1の後継機「FS-X(次期支援戦闘機)」として国産機の開発が計画されたが、技術的問題・政治的問題などが絡みアメリカとの共同開発となった。ロッキード・マーティン社のF-16多用途戦闘機をベースとし、三菱重工業を主契約企業、ロッキード・マーティンなどを協力企業として共同開発された。

総計98機の調達が予定されており、一機当たりの調達価格は約119億円[3]と言われている。訓練のほか、マルチロール機としての運用も行われ、支援戦闘任務だけでなく要撃任務にも用いられる。現在は「要撃」「支援」の区分が廃止されたため、F-2戦闘機と表記される。特定の愛称はないが、「バイパーゼロ」という非公式の愛称で呼ばれることもある。

F-16に比べ機体を大型化し、空対艦ミサイルを最大4発搭載可能であるため、世界の戦闘機の中でも最高レベルの対艦攻撃能力を持つ。

大型化に伴う重量増加を抑止するため、主翼には世界で初めて炭素繊維強化複合材による一体構造を採用している。レーダーには量産戦闘機として、世界で初めてアクティブフェーズドアレイレーダーを搭載し[4]、飛行制御には、国産開発されたフライ・バイ・ワイヤー(FBW)を用いる。

開発経緯

F-2の開発は当時の日米貿易摩擦などに端を発するアメリカ合衆国との政治的問題が絡み、当初のエンジンの輸入(ライセンス生産)を前提とした国産開発から、F-16戦闘機をベースとした日米共同開発へと推移した。

共同開発までの推移

次期支援戦闘機開発計画

1982年昭和57年)7月、国防会議において「昭和56年度中期業務見積」(56中業)が了承され、この中に初めて「次期支援戦闘機(FSX)24機の整備」が盛り込まれた。F-1の後継機が昭和56年度より必要とされたからである。

国産のF-1支援戦闘機

日本における「支援戦闘機」隊の誕生そのものが、F-104Jの整備で余剰となったF-86Fをもって編制されたものであり、最盛期の1965年(昭和40年)にはF-86F、F-86D、F-104J/DJあわせて19個飛行隊が存在し、とりわけ供与機180機にライセンス生産300機の計480機を取得し、多すぎるからと供与機から45機を返還したほどのF-86F飛行隊10個をどう扱うかに端を発している。「支援戦闘機」部隊としての「指定」は北部航空方面隊中部航空方面隊西部航空方面隊に各1隊ずつ行われたが、これらのF-86F飛行隊は支援戦闘飛行隊として再編制されたわけではなく、要撃戦闘飛行隊に「支援戦闘飛行隊としての任務を付与」する体裁をとっていた。つまり、あくまで本業は要撃戦闘であり、支援戦闘機部隊としての指定を受けていても対領空侵犯措置任務は継続して行っていた。

これが1976年(昭和51年)10月に閣議了承された、平時における日本の防衛力を定めた「防衛計画の大綱」(防衛大綱)において決定された「要撃戦闘飛行隊10個・所要機数約250機、支援戦闘機隊3個・所要機数約100機」の根拠となる。航空自衛隊にしてもオペレーションズ・リサーチの明白な結果によって支援戦闘飛行隊3個という数字を出したわけではないが、当時から「ただでさえ足りない戦闘機を任務ごとに分けるな」「支援戦闘機であっても要撃戦闘飛行隊を補佐し、対戦闘機戦闘や要撃任務を遂行せよ」などという声は根強かった。F-1やF-2において「攻撃機」だけでなく「戦闘機」としての能力が要求される所以も、この支援戦闘機隊の成立の経緯と深く関わっていたのである。この防衛大綱によって、支援戦闘機の必要数は3個飛行隊100機と決定された。

もともと、F-1の耐用年数は3500時間とされており、1990年(昭和65年:改元後平成2年)に最初の飛行隊が維持できなくなるとされ、56中業で後継機でFS-Xの調達が計画された経緯がある。しかし、それではFS-Xの国産には時間が足りなかった。そのため、1984年(昭和59年)12月、F-1の強度再検討より耐用年数が延長可能(4050時間まで)という報告がなされた。石油ショックの影響などにより、年間飛行時間が当初の見込みより少なかったこともあわせて、F-1の就役期間が当初の予定より延びて昭和72年(改元後平成9年:1997年)度となり、選定から配備まで10年の時間がとれることが見込まれた。

防衛庁では、F-1開発完了直後の1978年(昭和53年)から、次期国産戦闘機を睨んだ運動能力向上機(CCV)研究、コンピュータ支援による航空機設計システム、将来火器管制装置、戦闘機搭載用コンピュータ、5トン級戦闘機用エンジンなどが予算を与えられ、それぞれ別個に開発が進められていたが、このF-1の退役時期寿命見直しにより、その成果を戦闘機として実現する目処が立った。

三菱重工の決意

三菱重工の首脳陣が「FS-X」の研究開発に懸ける意気込みは只ならぬものがあった。アメリカ側は三菱が「航空機産業というニュービジネスへの挑戦を目論んでいるため」という見方が専らであったが、三菱側の思惑は違ったという見方もある。戦前戦中と「零戦」や「武蔵」を生み出し、戦後の復興や高度経済成長を牽引してきた三菱は「日の丸戦闘機」が再び大空を舞うことを夢見ていたのではないか、というものである。三菱重工の社長会長を歴任した飯田庸太郎は「防衛産業で日本のお役に立てなければ、三菱が存在する意味はない。儲かるからやる、儲からないからやらないではなく、もって生まれた宿命と思っている」と述べており[5]、防衛の三菱はこの「FS-X」を一つの商品とは考えていなかったと見る向きもある。

国産派の受注活動

F-1の耐用年数の延長報告がなされた直後の1985年(昭和60年)1月に、航空幕僚長から技術研究本部長に対して下記のような運用要求を提示し「国内開発の可否」が問い合わされた。

  • 空対艦誘導弾4発装備した状態で戦闘行動半径450海里を有すること。
  • 短距離空対空ミサイルと中距離空対空ミサイルをそれぞれ2~4発装備できること。
  • 全天候運用能力を有すること。
  • 高度な電子戦能力を有すること。

1985年9月の回答は「エンジンを除いて国内開発は可能」というものであった。しかし「対艦ミサイル4発搭載、戦闘行動半径450海里」の「現用機にない」要求とあわせて、このタイミングでの耐用命数のみを理由とした就役期間延長と国内開発可能という回答は、国産戦闘機開発への露骨な誘導と取られ、国会においても追及を受けることとなる。

選考対象1 GD社F-16
選考対象2 MD社F/A-18C
選考対象3 パナビア社のトーネード IDS

56中業で定められた「1987年までに24機の調達」(1987年以降の順調な部隊配備のためには、それまでに調達されていなければならない)であれば「外国機の導入」と「現用機の転用」の二択だったものが、その具体的作業が始まる前に10年の余裕が生まれたことから「国内開発」という選択肢が生まれた。1985年(昭和60年)10月、具体的選定作業が始まり、その一環として、米国ジェネラル・ダイナミクスF-16C・現ロッキード・マーティン)、マクドネル・ダグラスF/A-18)、西独のパナビア(トーネード IDS)に質問書が外務省経由で送付された。

また、この年は三菱重工業川崎重工業防衛庁技術研究本部に対し、戦闘機開発に関する研究報告を提出している。ともに双垂直尾翼・エンジンは推力8トン級の双発で「対艦ミサイル4発を装備して450海里の戦闘行動半径」はクリアするとされていた。スペックとしては、現在のF/A-18E/Fスーパーホーネットに近いが、三菱案はカナードを装備し、川崎案はF/A-18に似たシルエットを持っていた。三菱案(社内呼称JF210)は「航空ジャーナル1985年6月号に想像図が掲載された。1983年(昭和58年)に初飛行したT-2CCV研究機や、1985年(昭和60年)に初飛行した低騒音STOL実験機「飛鳥」が国内航空技術の発達をアピールしていたのもこの時期である。

防衛庁内の国内開発推進派も三菱や川崎と同調し、CCVや新コンピューターシステムの開発結果を根拠に(開発と実験はFSXプロジェクトに間に合わせるために、早期に終了させられ、根拠とされたCCVやコンピューターは、実際には実用に程遠い段階であった。それでも、いくつかの成果を得ることはでき、プロジェクト進展における米国との折衝において、日本側の切り札として有利に働いている。)、国内開発をすればどれほど素晴らしい戦闘機が配備できるかを様々なルートから訴えた。

外国機輸入の検討

1986年(昭和61年)に外国メーカーに出された質問書への回答が寄せられ始めたが、内容の不備や、10年後に採用する戦闘機を現代のスペックで測るという前提が強い反発を受けたため、2月と4月に再質問書を改めて送付した。7月には外国メーカーより「所要の改造を加えることで要求性能は満たすことが出来る」との回答を受けた。10月にF-16およびF/A-18は「能力向上型の共同開発」の提案が、トーネードは「能力向上」の提案を受領した。

日本側も国産案で国論を統一していたわけではなかった。日本の国産兵器の能力に全幅の信頼を置く人間ばかりではないからである。特に生産数の少ない国産装備品は、価格面で輸入品に太刀打ちできない。今回のFSXの選定においても、外国機導入の検討も当然のことと認識されており、国外への調査団が資料の収集を重ねていた。

実際、F-1/T-2の開発の際にも防衛庁内部に強力に外国機導入を主張する一派が存在した。大蔵省(現財務省)とのパイプを持つ彼らは、アメリカのT-38F-5の組み合わせこそがコストパフォーマンスに優れ、配備予定期日を守ることができる唯一の方法だと強力に主張していた。確かに当初の予定であればF-X導入までに超音速高等練習機を国内開発することは不可能であり、導入を決定したF-4EJファントムIIが複座であることから、これを機種転換に充てるという手法で、運良く戦闘機パイロットの養成スケジュールを消化する目処が立ったために、T-X国内開発の時間的余裕が出来たようなもので、そうでなければ国内開発は時間切れで断念していた可能性もあった。

さらには、予算が付かない限り試作も出来ず、完成予想図しか出せない国産案が具体化するには、アメリカが「エンジンだけ」の販売認可を出すことが大前提であった。だが、100機程度(防衛庁の当初計画では141機。後述)のそれほど大きくない市場とはいえ、米国は当時の対日貿易摩擦の最中で、エンジンの販売だけで納得する航空メーカーもなければ、政府が政治的に対日譲歩を行う余裕があるはずもなかった。欧州製エンジンの導入についても、欧州機が毎回選定から外れる理由、すなわち根本的な性能の不足を甘受する気が自衛隊にない以上、今回も当て馬以上の存在となり得なかった。それらを撥ね除けて、「エンジンのみ」の調達を図る政治力を発揮できなかったことが、国産案の不幸であった。

国際共同開発の模索

1986年(昭和61年)12月には、「国内開発」「現有機の転用」「外国機の導入」の三択のうち「国内開発」を「開発」と改め、「アメリカとの共同開発」をこれに含めることとなった。年が明けた1987年(昭和62年)、栗原祐幸防衛庁長官第3次中曽根内閣)はFSX選定にあたって下記の三原則を示した。注意すべきは第2項目で、軍事的な相互運用性(インターオペラビリティ)を確保できることとの注釈がついていた。

  • 防衛上の技術・専門的見地から、日本の防衛にとって最善のものを選定する。
  • 日米防衛協力体制の重要性を踏まえる。
  • 内外の防衛産業の影響を排除する。

1987年(昭和62年)4月11日より米国防総省の調査チームが来日、三菱重工業名古屋航空機製作所、三菱電機鎌倉製作所を視察[6]、防衛庁で日本側と意見交換を行った。この時、三菱重工は調査チームを招いて、自らが描いた「FS-X」の説明を行った。国防総省側は、日本政府がどの程度出資を行い、どのような戦闘機を生み出そうとしているのかを総合的に判断するための派遣であった。一方の三菱は「FS-X」を生み出す力が備わっていることを印象付けるために、この調査団の査察を受け入れた。 この際、三菱側が明かしたFS-Xに盛り込もうと構想していた最先端技術は、主に以下の通りである。

この中で、特に調査団を驚かせたのは新素材技術である。従来のように鉄板を張り合わせるのではないため、ボルトや留め具を必要としない。また、理想的な形に成形するのが容易であり、より強くアルミニウムより軽いことから機体の大幅な軽量化、航続距離の延長、ミサイル搭載数の増加が望める。 また、独自開発したフェイズド・アレイ・レーダーの披露も行われた。三菱側の技術者は、同時に複数の目標を捉えられるその性能から「とんぼの眼」と呼んでいた。査察を終えた調査チームは、技術力そのものよりも到達目標の高さに注目した。査察チームの一人は「「ニューゼロファイター」だ。日本は新たなゼロファイターを創り出そうとしている」と、漏らしたという[5]

その後、調査チームは「日本は官民一体となって国産FS-Xを目指しているが、研究開発コストは莫大なものとなる。また、部分的に優れた技術を有しているが、総じてアメリカの戦闘機が持つ技術水準には及ばない」との報告書をまとめた。この報告結果から、「高度な技術と開発への熱意は認めるが高額な航空機開発への見通しが甘く、費用対効果の点で疑問がある。F-16もしくはF/A-18の改造開発、それで要求性能を満たせない場合はF-14もしくはF-15の購入が適当である」との所感を表明した。この当時の日本のFSX開発予算の見積りは1650億円であった。実際には倍額となったが、アメリカは自国の実績から独自に6000億円が必要との見積りを立てていたため、「日本が独自に開発した場合、FSXが予算超過で頓挫する」ことを懸念した。知日派親日派であっても、コストパフォーマンスの点から米国製導入を薦めた理由である。

6月28日、東京都内のホテルで行われた栗原防衛庁長官とワインバーガー国防長官の会談では日本側より「日米共同開発で新しくFSXを開発したい」、アメリカ側より「米国の戦闘機を日米共同で開発してはどうか」との意見が交わされ、日本単独の開発を示す「国内開発」は事実上の終焉を迎えた。これは日本のFSX開発の容認であると同時に、アメリカ製戦闘機の輸入またはライセンス生産要求の終焉でもあった。

日米共同開発の決定

7月に欧州のトーネードが候補から外され、F-15F-16F/A-18を改造母体として日米共同で開発することが提案された。9月に提出された防衛庁の委託を受けた航空機・エンジン・電子機器の5社からなる民間企業合同研究会の「共同開発の可能性」についての調査報告は以下のようなものであった。

  • F-15改造案はステルス性を除いて性能上の問題はないが所要経費が高い。
  • F-16改造案は開発経費、量産単価ともに安価であるが離陸性能、ステルス性などに性能上の問題がある。
  • F/A-18改造案は性能上の問題はないが開発経費、量産単価ともに高く、また艦上機であることからこれを安くする見通しが得られず、また機体とエンジンの同時開発であることからリスクが大きい。
新たに選考対象となったF-15

順位としては F-16 > F-15 > F/A-18 であったと言われる。経費が高いとされたF/A-18であるが、マクドネル・ダグラス(MD)が日本側提案を受け入れ大きな改造範囲を認めたことから、民間企業合同研究会はこれを高く評価しており、一方、F-16はジェネラル・ダイナミクス(GD)が当初提案した双発改造案も引っ込めたうえで、航空自衛隊の双発の要求には事故率の実績を挙げて反発していた。日本側はGDに対し非公式にF-16がF-15とともに候補に残っていること、改造範囲の要求を認めるなら単発機であっても採用しうることを伝え、これに対し機首再設計、複合材料の使用、アビオニクスの日本製機器の搭載を認める回答があった。

10月2日ワシントンD.C.で開かれた栗原防衛庁長官とワインバーガー国防長官の会談では、「改造母機はF-15またはF-16」「いずれのメーカーを採用するか早急に決定する」「そのためにメーカーと国防省担当者を派遣する」ことが合意された。10月12日13日は国防省とGD担当者が、10月14日15日にはMD担当者が航空自衛隊と話し合いを持った。17日にも話し合いは継続したが、防衛庁としてはこの時点で採用メーカーは確定していたといわれ、21日に方針を決定した。

10月23日首相官邸小食堂では「次期支援戦闘機に関する措置」を議題にした安全保障会議が開かれた。この席上で西広防衛局長は検討の経緯について説明した後、「支援戦闘機F-1の後継機FSXに関する措置については、日米の優れた技術を結集し、F-16を改造開発したい」と結んだ。出席した閣僚からの質問もほとんど無いまま、中曽根康弘首相の「どうも、ごくろうさんでした」という言葉でこの決定は承認された。中曽根内閣は翌月に退陣して竹下登が首相となり、計画を引き継いだ。

1988年(昭和63年)4月1日航空幕僚監部技術部は「次期支援戦闘機室」を設置した。6月2日には瓦力防衛長官(竹下内閣)とガルーチ国防長官との会談で、次のような日米共同開発の基本条件が合意された。

  • 計画管理は防衛庁が実施する
  • 主契約者は日本企業
  • 開発費は防衛庁が負担する
  • FSX開発で得られる技術情報は、全て防衛庁に帰属する
  • 開発プロジェクトのワークシェアは、米側が60%
  • TSC(技術運営委員会)を設置する

11月29日、主契約者を三菱重工業、協力会社を川崎重工業富士重工業ジェネラル・ダイナミクス、日米のワークシェアリングは「日本6:アメリカ4」の日本優位とした「日本国防衛庁と合衆国国防省との間のFS-Xウェポン・システムの開発における協力に関する了解事項覚書」(開発MOU)が締結された。なお、ゼネラル・ダイナミクスは、1992年(平成4年)12月に航空機部門をロッキードへ売却したため、同時に協力会社も引き継がれた。さらに、ロッキードは1995年(平成7年)3月にマーティン・マリエッタと合併してロッキード・マーティンとなり、協力会社が引き継がれた。

エンジン技術供与までの推移

FSX当時の世界情勢

日本がFSXの計画を進めている中、日本唯一の軍事同盟国であるアメリカ合衆国は、ロナルド・レーガン大統領のもと、ソビエト連邦との対決姿勢を打ち出しており、1981年昭和56年)の「600隻艦隊構想」、1983年(昭和58年)の「戦略防衛構想(SDI構想:スターウォーズ計画)」などで軍拡競争を挑んだ。また、「欧州においても戦術核を使用した核戦争は起こりうる」と発言し、NATO諸国は改めて自分たちが冷戦の正面に居ることを認識した。

一方、アメリカは日本の置かれた環境や防衛努力が軽いとも感じており、アメリカのみならず西欧諸国からも「西側の一員」としての防衛努力への要求が高まった。1983年(昭和58年)の中曽根康弘首相の「不沈空母」発言や、1985年(昭和60年)の防衛費1%枠突破はそれに対する回答でもあったが、他の西側諸国と比較して少なすぎるとの批判は常に付きまとっていた(ただし、防衛費を対GNPで比較するのが公正かといえば必ずしもそうとは言えず、日本が加工貿易国家でGNPが実態より過大になる傾向のある上に税法が違う以上、的外れな主張であることも否めない。一般会計における防衛費比率で言えば、日本の「歳入の10パーセント前後」と言う数字はNATO諸国と大差は無く、GNP比率のような3倍から5倍という数値にはならない。そもそも、防衛費を一概に対GNP比・対GDP比で比較するのは不適切であり、周辺勢力との戦力バランスなど、数多くの要素を勘案して決めるべきである)。

だが、防衛努力への要求が収まらない最大の理由は、この当時の日本経済の「好調」を通り越した「一人勝ち」の状況にあったといえる。アメリカの対日貿易赤字は毎年更新を重ねていたが、日本はなりふり構わず世界中にモノを売っていた。だが、貿易立国である日本はモノを売らない限り国家が維持できない。一方のアメリカは「自由貿易の守護者」であらねばならないという意見が根強いものであった。しかし、日本の商品がハイテク分野にシフトしていくと別の問題が浮上してきていた。

日米貿易摩擦

1982年(昭和57年)の「アメリカのハイテク産業の競争力評価」報告書は、「先端技術産業の成長率は全産業の成長率の二倍であり、すべての技術分野の進歩に貢献するものであり、この分野は国家の安全保障と密接に関連する」とし、ハイテク分野の管理貿易が国益となる場合もあるとしていた。そもそも、レーガン政権の高金利政策がドル高を招いていたのであるが、1985年(昭和60年)の先進五カ国蔵相・中央銀行総裁会議においてドル高是正が合意(プラザ合意)され、各国が協調してドル安への誘導が行われることとなった。それまでの1ドル240円から1ドル120円に円が急騰し、一時的に円高不況も発生したが、アメリカ製品の国際競争力が回復したわけではなかった。これは価格ばかりでなく、アメリカ製品そのものの質が、もはや消費者のニーズと合わない場合が多々あり、それを改善できない結果でもあるのだが、通貨レートが倍になっても赤字が減らない日本への反発ともなった。

レーガノミックス」という「軍拡による公共投資」による財政赤字拡大と、国内消費過多による貿易赤字の累積という、いわゆる「双子の赤字」、投資ブームと言う不健全なマネーゲームに加え、システムとして頂点に達しつつあったMAD(相互確証破壊)による核戦争の恐怖は、時代の狂気ともいえる空気の中で、アメリカ国内の経済学者にさえ「暴挙」「無法者の所業」と批判されたスーパー301条発動をちらつかせるアメリカと、それに抵抗する日本(報復関税措置のほとんどは後に撤回させている)との恫喝合戦へと向かっていく。

このように、経済面では1985年(昭和60年)に対日制裁法案が可決される状況であったが、日米同盟の軍事面においては共和党が政権を担当していることもあり、上院下院のヒステリックさとは縁遠かった。1986年(昭和61年)4月には、来日したワインバーガー国防長官が改めて「FSX選定は日本が決定すべきこと」である旨の発言がなされている。これはある意味当然のことで、F-15のペーパープラン以外に対艦ミサイル4発を搭載する戦闘機などアメリカは考えたことは無く[7]、対艦ミサイル4発搭載という運用要求そのものは、航空自衛隊のオペレーションリサーチの結果弾き出された数字で、これはソビエト侵攻の際に保有機で乾坤一擲の対艦攻撃を行った際に、日本版オケアン演習を再現するための欠くべからざる要素であった。

対艦ミサイル4発搭載が出来ない場合、支援戦闘機隊の定数増加や新編、配備基地そのものの新設など自衛隊という組織自体をいじる必要があり、それをアメリカが指図するなどあり得ないといえる。経済問題としての貿易赤字削減と、アメリカ製品である戦闘機の購入と、相互運用性から米国製戦闘機を改造母体とせよとの要求は、時にリンクしながらも別個のものであり、当然それぞれの比重は違うといえる。たしかに総額1兆円というFSXプロジェクトは無視できない規模ではあるが、1985年(昭和60年)に米国際経済研究所の行った「日本が貿易障壁を完全撤廃すれば世界の対日輸出は年間220億ドル増加する」との試算からも判る通り、貿易赤字を兵器の輸出で取り戻そうという考え自体が幼稚なものであり、レーガン政権においては1987年(昭和62年)に東芝機械ココム違反事件が起きようと、国内企業や労組に支援された下院議員が何を叫ぼうと、米国製戦闘機の輸入や改造無しのライセンス生産を(日本から言い出すよう誘導は行ったが)公式の要求とすることはなかった。

だが、そんな「ロン・ヤス」関係がベースにあったFSXは、1989年平成元年)にブッシュ大統領に政権が交代すると、凄まじい対日圧力に晒されることとなる。

米議会による外圧

日本の防衛庁が輸入推進派と国産推進派に割れていたように、アメリカもまた一枚岩ではなかった。日本の防衛庁とアメリカ国防総省アメリカ国務省の信頼の厚さは、「我々ペンタゴンは、日本との相互信頼に基づいて戦後の防衛協力体制を築いてきた。だから、防衛庁との間には100パーセントの信頼関係がある」(アーミテージ国防次官補、当時)という発言からも見て取れるが、日本人でも面映くなるくらい(理解しづらいほど)であるものの、これらの政府機関の共通の「敵」というものは、時代が変わろうと対象が変化しようと常に「共通」であり、戦後一貫して防衛体制を築いてきた。

だが、一方でアメリカ商務省と日本の通商産業省(現在の経済産業省)、外務省は恐ろしく仲が悪い。商務省の相手する日本の諸機関は、「スーパー301条」発動を避けようと、ありとあらゆる方法で抵抗するタフ・ネゴシエイターであり、何度も苦汁を舐めさせられていた。その商務省は1988年(昭和63年)9月に「国防総省が外国と軍事機器の共同生産の契約を行う際には、商務省が情報提供を受け、勧告を出し、国防総省はそれらを考慮する」権限を与えられていたが、商務省は日本のFSXに関して情報提供を受けてはいなかった。

貿易赤字という経済問題と安全保障を切り離して考える国防省・国務省の考え方は、商務省・通商代表部からすれば「アマチュア」でしかなく、500億ドルを超える貿易赤字をかぶせる日本が、戦闘機の完成品の輸入を行わずに技術移転を受けると言うのは、彼らの思考の埒外でしかなかった。ここに至って「前政権が承認した国家間の安全保障に関わる国際共同計画を、経済問題を盾に商務省が潰しにかかる」という前代未聞の事態が発生することになる。

1989年(平成元年)2月2日竹下登総理大臣は、1月に新政権として発足したブッシュ大統領からワシントンD.C.に招かれており、日米安保の重要性とともに、米国のFSX計画への協力が高らかに謳いあげられるはずであった。ところが、それは当日の朝に有力上院議員12名の連名でホワイトハウスに届けられたFSX計画に反対する書簡のために無かったことにされた。2月14日には超党派の24議員が、政府がF-16の対日技術供与の承認を求めた場合、不承認の決議案を出して対抗する、という内容の書簡を大統領に送った。ブッシュ大統領は3月10日を回答期限として政府部内に再検討会議を設け、3月20日にようやく「共同開発の前進」を決定する。ただし以下のような付帯事項が付けられていた。

  1. F-16のソース・コードの供与を制約する
  2. 生産段階での米国の仕事分担率は最大限に確保を目指す
  3. 日本からの技術を必ず提供するとの保証を設ける

3月20日より日米間で「日米合意内容の明確化」と呼ばれる作業が開始された。口が裂けても「見直し」「再検討」という言葉が使えない状況での選択であった。4月28日にブッシュ大統領の特別声明が出されたが、その内容は客観的に見て、一方的にアメリカ側が有利なものとなっている。具体的に示すと、最後まで問題を引きずった生産段階でのアメリカ側ワークシェアが「総生産額の約40パーセント」と明記されたほか、技術移転の面においても「日本側は、アメリカ側が入手することを希望するすべての技術を、すでに合意された手続きにしたがってアメリカ側に移転する」となっていた。

自民党内部から「不平等条約」との声があがったのはこのときである。そもそも開発能力が対等でない以上、不平等になることは、やむをえないという見方もあるが、日本が独自に築いてきた特殊技術を無条件に提供し、米国がF-16の核心を「ブラックボックス」化することを許される取り決めは、特に共同開発でも日本の主体性を確立することを望んでいた国産推進派にとって、敗北感を味わわせるものであり、FSXに関する不満が至るところで噴出した。日米マスコミも「ジャパン・バッシング」関連の話題として、様々に報道しあった。

F-16のF110エンジン

一方、実務者レベルにおいては未だに「FSX潰し」への必死の抵抗が続いていた。ブッシュ大統領の特別声明(議会通告)に対し、反FSX陣営はエンジン技術の対日供与を差し止める条件を付帯した修正案を上院に提出し、5月16日これを可決させた。共同開発そのものは上院、下院双方で否決されない限り自然承認の見込みであったため、日本のFSXの死命を制するエンジン技術の供与は核心的な問題となった。ブッシュ大統領による初めての拒否権は、この対日エンジン技術供与反対に対して発動されが、この拒否権は修正決議案に2/3以上の賛成があれば覆るとなっていた(オーバーライド)。6月1日に共同開発計画は自然承認され、ブッシュ政権は「F-16対日技術供与許可証(LTAA)」を発行した。「エンジン技術供与を認めない」と言う条件付き共同開発に対する上院での評決は9月13日に行われ、66対34という1票差で否決、対日エンジン技術供与が決定された。エンジンは石川島播磨重工業(現・IHI)によってライセンス生産されることとなった。

機体開発

試作

FSXは日米合意によって、1990年(平成2年)3月に支援戦闘機設計チームが設置され、開発が開始された。F-1は延命されているとは言え、1997年(平成9年)にも減数する見込みであり、実用試験などを考慮すると、全く余裕は無かった。

機体概観作りと設計が行われ、飛行性能向上や対艦ミサイル運用のために垂直尾翼以外は全て三菱によって再設計された。「その執拗なまでの徹底ぶりは、「国産」という意地の表れでもあり、エア・インテーク(エンジン用の空気取り入れ口)の形状まで設計し直すことに対し、ゼネラル・ダイナミックスのF-16設計チームが腹を立てた」という話をするものもいるが、実際は国産レーダー搭載によって大型化した機首レドームのためにエア・インテークも改設計せざるを得なくなったものの、超音速衝撃波の制御を日本でできるのか、やらない方がいいのではないかとロッキードが指摘しただけである。これに対しては日本側から改設計した図面を送り、ロッキードでも検証するという作業が行われて設計の正しさが確認されたというものであって、線図一本引き直しても治具から設計をやり直す航空機で必要以上に図面を弄くり回すことは無いといえる。

1992年(平成4年)に実物大模型(モックアップ)が公表された。続いて試作機4機の製作に入り、1995年(平成7年)10月7日に試作1号機(63-8001)の初飛行に成功、XF-2と名づけられた。続いて単座2号機(63-8002)と訓練用の複座1・2号機(63-8003・8004)が進空、1996年(平成8年)1月9日には単座型がF-2A、複座型がF-2Bの名称となることが決定し、3月に防衛庁へ納入されて技術研究本部 (TRDI) による試験に供せられた。7月には日米両政府間で「日本国防衛庁と合衆国国防省との間の支援戦闘機(F-2)システムの生産に関する了解事項覚書」(生産MOU)を締結、F-2の量産が日米両政府間で承認され、航空自衛隊は平成8年(1996年)度から調達を開始した。この覚書により、開発分担比率である機体の40パーセントを米国内で生産するため(先の貿易摩擦対策によるもの)、ロッキード・マーティンに生産ラインが開かれ、日本が部品を輸入して三菱で組み立てられた。

初期不良と配備遅延

試作・試験飛行の段階において、日本が得意とする炭素系複合素材で製作した主翼構造部位に微小な「ひび」(顕微鏡レベル)が見つかる、主翼の一部強度不足が見られる、特定の非対称運動を行った場合に垂直尾翼に予測値を超える荷重がかかる、装備品の特定の組み合わせによるフラッターの可能性、増槽装備時の増槽取り付け部分にかかる荷重、等の諸問題があったため、その原因究明と改修作業により遅れが発生した。先の日米交渉の影響もあり、XF-2の今後に対し懐疑的な報道がなされたこともあった。

なお、不具合の量や質の差こそあれども、飛行試験時において不具合が見つかることは多くの国の機体開発において決して珍しくなく(たとえば翼の「ひび」はアメリカのF/A-18E/F開発時にも見られた。部隊配備後のレーダーの不具合についてはレーダーそのものではなく機体のマッチング、艤装に問題があったと言われている。

レーダー自体に問題があれば、C-1FTBで試験しているうちに判明するが、マッチングは実機を使わないと判明せず、開発経験の問題であり、初期不良の範疇であると考えられる。レーダーの不具合についてはアラート任務(領空侵犯警戒任務)付与を延期するよう航空総隊が意見具申したと報道された。

これらの不具合に対してはその後対策が施され、アラート任務は2004年(平成16年)3月から第3飛行隊(三沢基地)、2007年(平成19年)3月から第6飛行隊(築城基地)に付与された。

その他、アクティブレーダーホーミングミサイルである99式空対空誘導弾(AAM-4空対空ミサイル)を運用できない点を問題として指摘されたこともある。しかしF-2の要求性能を策定した当時にAAM-4はまだ実用化されておらず、1995年(平成7年)に初飛行、1998年(平成10年)に火器管制装置の飛行試験を行う状況で、制式化されていないミサイルの運用能力を持たせるためにAAMの完成を待ってまで開発を遅らせるよりは後日装備とするのは妥当な判断だという見方である。

F-2の量産初号機は2000年(平成12年)9月25日に航空自衛隊に納入された。56中業への記載から19年、当初の配備予定から13年遅れ、F-16改造開発決定以降の配備予定からは3年遅れであった。開発費は3270億円であり、米国による当初見積もりの6000億円には及ばなかったが、日本側予測の1650億円をはるかに上回った。

なお、F-2の配備の遅れにより、3個支援飛行隊体制が維持できなくなることが早期に予想されたため、F-4EJ改を支援戦闘機に転用、その分のF-15を追加調達する処置がとられた。

一部では戦闘能力に問題があるともいわれているが、初飛行から最初の10年間で1機も失われず、単発エンジンながら非常に信頼性の高い機体である。なお、主力戦闘機F-15Jは最初の10年で5機を事故で失った。

FSX計画の評価

FSX計画に際しては、F-1による実績や国内開発派の攻勢による情報リーク、開発時期が後にバブルと呼ばれる好景気に重なっていたこともあり、日本は「国産」への高い期待があったと考えられる。しかし実際にはアメリカとの共同開発という形で落ち着いたのだが、この結果となった理由については、単に技術的にFSXの独自開発ができなかったというよりは、種々の政治的な理由によるものが大きいと言われることが多い。覚書が締結されたのが日米政府間の貿易摩擦があり、日本がアメリカに譲歩し続ける中(牛肉や繊維、オレンジ問題など)でのことであったためである。

また、実際に生まれたF-2A/Bについて、「あの時、国内開発で決定されればより優れた機体ができた筈だ」という意見も存在するが、当時の日本は上記の通り、政治的のみならず技術的・時間的な面から考えても独自開発は困難であったと考えられ、そこから国際共同開発は必要不可欠なものだったとの考えも多い。しかし、FSX計画へのアメリカ世論の反発、いわゆる「不平等条約」による一方的な技術提供や、F-16のソースコードやエンジンの供与に関してのアメリカの渋り、それらのことから読み取れるFSX計画に対するアメリカの姿勢、納期の遅れによる開発費の高騰、それに伴う機体単価の高騰、試験時・配備後を通しての種々の不具合、それらの原因による調達の軒並み削減、等といった数々の問題が相次いだことが、結果として「もし国産だったらこんな結果にはならなかったのでは」といった意見を噴出させる要因となったとも言われる。

その一方で技術面については、当時の日本は自国のみで最新鋭機を開発する能力こそ乏しかったとしても、前述のアクティブフェーズドアレイレーダーのように、部分的なレベルに限定するのであればそれなりの技術を有していたと考えられる。

以上の通り、FSX計画の評価は人によって否定的・肯定的を問わずいくつにも分かれており、単純に「FSXは成功だった」あるいは「失敗だった」とひとくくりに論ずるのは難しい。

機体

単座のF-2Aと複座のF-2Bが存在する。支援戦闘機、つまり戦闘攻撃機である本機は、前任機F-1と同様に対地・対艦攻撃能力に特化した機体である。機体形状はベースとなったF-16とほぼ同じではあるが、航空自衛隊の要求を満たすための改造や再設計箇所が至る所に見られることから「パッと見た形状以外、すべてが違う」などとも言われることがある。

概要

百里基地で展示されるF-2A(三沢基地第3航空団第3飛行隊所属機)
複座型のF-2B(飛行開発実験団所属機)
F-2Aの背面
デジタル式FBWを採用しているため、電源を落とした状態だと主翼のフラップや尾翼が自重で傾いてしまう
XF-2のエンジン
エアブレーキの構造も確認出来る
F-2に搭載されるF110-IHI-129エンジン
ゼネラル・エレクトリック(GE)製F110-GE-129IHIにてライセンス生産したもの

F-2はF-16をベースに日米共同開発された機体であり、F-2には単座型のF-2Aと複座型のF-2Bの2種類が存在している。F-2AがF-16Cブロック40/42、F-2BがF-16Dブロック40/42をそれぞれベースとしている。F-2Bは機種転換及び高等操縦訓練に用いる機体で、後席スペースを確保するために搭載電子機器や燃料容量が減らされている以外はF-2Aと同様である。F-2の生産は三菱重工業のほか、ロッキード・マーティン川崎重工業富士重工業IHI等の各企業が分担して機体の各ブロックや部品を生産し、それを三菱重工小牧工場にて組み立てるという形で行う。日米共同開発のため、米国分開発経費として1機当たり47億円が支払われているとも言われる。また、主翼は左右で製造しているメーカーが異なる[8][9]

基本構造

ベース機からの改修点は数多く、胴体は延長され、主翼面積を拡大(主翼面積はF-16C/Dが27.9m²に対し、F-2A/Bは34.84m²)することで重量増加による翼面荷重の増加を抑え旋回性の向上を図っており、同時に水平尾翼やストレーキ(主翼の前方の機体張り出し)も面積が拡大されている。よって、垂直尾翼の形状くらいしかF-16との共通点がない。エンジンはF110-GE-129ターボファンエンジン(クリーン時約75.62kN/アフターバーナー時約131.23kN)に決定され、これをIHIにてライセンス生産し搭載している。機体大型化による重量増加を最小限に抑えるため、翼には炭素繊維強化複合材による一体構造を採り入れている。

これらの措置により、機体を大型化しつつも空虚重量をF-16Cブロック40より900kg程度の増加にとどめた9527kg(F-16Cブロック40の空虚重量は約8627kg)としている。

兵装の搭載能力も航空自衛隊の要求に合わせたものとなっており、特筆すべきは空対艦ミサイルを最大4基まで携行出来る独特の機能である。これは周囲を海で囲まれ、また政策によって作戦機の総数を制限されている日本の特殊な事情によるもので、世界的にみても稀有な能力となっている。ベース機のF-16Cブロック40よりハードポイント数も増加されて、両翼端に各1箇所、両翼下に各5箇所[10]、胴体下面に1箇所の計13箇所が存在する。

その他、ステルス性向上を狙った電波吸収材(RAM)の導入、機内燃料容量の増大(F-16Cブロック40の約3896Lに対しF-2Aは約4750L)、着陸滑走距離を短縮する目的でドラグシュートを搭載する等の改修がなされている。全体的な外見はベース機のF-16C/Dと似ているが、細部では改修により変化している点がいくつか存在し、F-16C/Dと判別する際の指標となる。主な点として、大型化し垂れ下がったレドーム、レドームの改修に合わせて形状を変化したエア・インテーク、フレームを2本に増やして3分割化した風防、面積が拡大しテーパー翼とした主翼、ドラグシュートを収容するために延長した垂直尾翼付け根のフェアリング等が挙げられる。

アビオニクス

航空電子機器(アビオニクス)も新技術を用いて改修がされており、最も特徴的なのはレーダー三菱電機が開発したJ/APG-1・AESA(アクティブ式電子走査アレイ)レーダー(Xバンド)へ換装した点である。AESAレーダーの装備は、量産機ではF-2が世界初となる(非アクティブ式であればMiG-31戦闘機の「ザスロン」レーダーで実用化済み)。なお、このレーダーの搭載に合わせレドームが大型化され、エア・インテークにも手が加えられている。

飛行制御にはF-16同様フライ・バイ・ワイヤー(FBW)を用いるが、飛行制御コンピューターのソースコードをアメリカ側が日本側に提供しなかったため、日本で独自のものを開発・使用している。なお、FSX計画には運動性能力向上技術(CCV)も盛り込まれており、そのため、開発当初は胴体下面にカナード翼を搭載する予定であり、カナード翼による機動データを収集するためにT-2 CCV研究機が作られた。しかし、カナード翼装備による重量・空気抵抗の増加や整備性の低下といったデメリットを考慮した結果、カナード翼の装備は見送られた。なお、CCV機能については、飛行制御コンピューターのプログラムを工夫することでカナード翼装備時と同等の機動が行えるようにした。また、日本の技術も取り入れた統合電子戦システム(IEWS)も装備している。これはレーダー警戒装置(ESM)等による脅威識別・警戒機能とECM/チャフ/フレア等の脅威対抗機能を統合制御することで効率的な電子戦を行えるようにするというもの。F-2Bではこのシステムが簡略化されているため、F-2Aとは機外ECMアンテナ等の配置に違いが見られる。

コクピットは表示装置が改良されており、液晶ディスプレイを用いた多機能表示装置(MFDS)が3基配置されている。また操縦には「HOTAS」概念が採用されたサイドスティック式操縦桿を採用している。現代戦闘機の主流であるHOTAS概念の導入により、操縦桿とスロットルレバーから手を離さずに各種操作が可能になった一方、パイロットには手先の器用さと複雑なスイッチ類の操作パターンの習得が要求される。

なお、F-16同様に本機はフライ・バイ・ワイヤーを採用しており、操縦桿に加わった圧力を電気信号化することで操舵を行う。そのため、本機の操縦桿はF-16同様、最大でも数mmしか動かない。これにより、従来型の操縦桿を持つ機体から機種転換を行う場合、操縦桿の扱いに慣れが必要という。また、風防は低空飛行時のバードストライク(鳥の激突)への対策として強化されている。コクピットからの良好な視界を確保している点はF-16の持つ優れた特徴の一つであるが、F-2においてもこの特徴は引き継がれている。

カラーリング

飛行開発実験団のF-2B(#104号機)
量産機には洋上迷彩を施している
飛行開発実験団のXF-2A[11](#502号機)
白地ベースの塗装を施している
レドームは黒だが量産機と同じダークガルグレーの物を装備する場合もある
通常の洋上迷彩の上に、第3飛行隊開隊50周年塗装が施されたF-2A(2006年)

塗装は、量産機では「洋上迷彩」が施されている。これは同じ航空自衛隊のF-15J/DJや米軍のF-16で採用されている灰色の濃淡を参考とし、機体上面と側面にはの濃淡の迷彩を施し、機体下面には空と交じり合う明るい青一色という配色を施す迷彩パターンである[12]

洋上迷彩は、地上でこそ大変目立つ色合いであるが、洋上では大変識別しにくいため、支援戦闘機の主任務である対艦攻撃の際にはかなりの効果を挙げると考えられている。日本以外の国では必要性が薄いことから非常に珍しい塗装でもある。量産機に対して試作型4機(XF-2A/B各2機ずつ)には、それぞれ1機ずつ異なるカラーリングの塗装を施されている。

XF-2の1号機が白地をベースに、2号機(#502)が白地をベースに、3号機(#101)は色は白地をベースに赤と青だが、スピン試験用機であるために機体の上下左右でそれぞれ異なる配色とされ、4号機(#102)は上面が青(ただし洋上迷彩の青とは異なる)・下面が白となっており、いずれの機体も量産機に対して明るく鋭敏な印象を与えるカラーリングとなっている。

愛称

航空自衛隊においては1970年代以降、航空機に正式な愛称をつける習慣を持っておらず、F-2は単に「エフに」や「エフツー」と呼ばれる。しかし非公式に「バイパーゼロ(VIPER ZERO)」と呼ばれることがある。「バイパー」はF-2のベースとなったF-16の非公式の愛称で、「ゼロ」は量産機が納入された西暦2000年から取った「ゼロ」(自衛隊装備品の制式名は制式化年の下2桁を取って「○○式~」である[13])と、最も有名な日本製戦闘機である零戦の「ゼロ」とを掛けたものだと言われている。ここから航空雑誌等ではF-2を指して「平成の零戦」といった呼び方もされることがある。また機体愛称では無いが、F-2を操縦するパイロットを指して「F-2 CHARMER(チャーマー)」あるいは単に「チャーマー」と呼ぶことがある。

仕様

  • 乗員: 1名(F-2A) / 2名(F-2B)
  • 全長: 15.52m
  • 全幅: 11.13m(両主翼端ランチャー含む)/10.80m(含まず)
  • 全高: 4.96m
  • 主翼面積: 34.84m²
  • 空虚重量: 9,527kg
  • 機内燃料容量: 4,750L
  • 最大離陸重量: 22,100kg
  • 最大兵装類機外搭載量: 8,085kg
  • エンジン: IHI/GE F110-IHI-129ターボファンエンジン ×1
  • 出力: アフターバーナー使用時131.23kN(13,381kgf)/非使用時75.62kN(7,711kgf)
  • 最大速度: M2.0
  • 戦闘行動半径(対艦攻撃時): 450nm
  • 航続距離: 約4,000km(フェリー時)

兵装

93式空対艦誘導弾の試験弾
Mk.82(GCS-1装備型)の試験弾
JDAM(500lb)の試験弾
固定武装
運用可能な兵装
兵装の運用形態
F-2には13ヵ所の搭載ステーションがあり任務に応じてさまざまな形態を執ることができる。以下に代表的な例を挙げる。
航空阻止(INT,BAI)時
洋上の主要目標に対して直接攻撃を加える際の形態。周囲を海洋に囲まれ広い領海を持つ日本においては、特に洋上の敵艦船を攻撃する対艦戦闘の意味合いが強い。また、航空阻止は本機の主任務である。
  • 空対艦ミサイル×4、もしくはGCS-1×6
  • 短射程空対空ミサイル×2
  • 600ガロン増槽×2
近接航空支援(CAS)時
友軍の脅威となる敵地上戦力等へ航空攻撃を実施、友軍地上部隊等の作戦を支援する際の形態。
  • Mk.82通常爆弾×12、もしくはクラスター爆弾又はJDAM(500lb)×4
  • 短射程空対空ミサイル×2
  • 300ガロン増槽×1
要撃(Intercept)もしくは戦闘空中哨戒(CAP)時
  • 中射程空対空ミサイル×4
  • 短射程空対空ミサイル×4
  • 300ガロン増槽×1
警戒待機(Alert)時
本機の運用に際しては対艦及び対地攻撃任務に重点が置かれるものであるが、警戒待機任務に就いているなど、支援任務一辺倒ではない運用がなされている。
  • 短射程空対空ミサイル×2
  • 300ガロン増槽×1
趨勢と展望

上記兵装の他、後述するAAM-4AAM-5等の高機能空対空兵装の運用能力獲得が予定されている。 また、本機へ搭載可能な次世代兵装、或いはアビオニクスの高機能化などの研究が進められており、日本の中長期的防衛戦略をその背景として、将来にわたり段階的な機能向上が図られていく模様。

近年においては、顕在化する不安定要因(朝鮮半島情勢、或いは西太平洋地域における中国の軍事的プレゼンスの増大)から、日本の専守防衛戦略はその一部見直しを迫られているところである。これは専守防衛の考え方が、渡洋侵攻を伴わない、つまり弾道ミサイル巡航ミサイルなどによるスタンドオフ攻撃に対し、基本的にはこれら事態に対する反撃を許されないという、防衛戦略的に大変危険な側面を持つためであるが(詳しくは「専守防衛」項を参照されたい)、こうした近隣国の動向等に伴って発生してきた新たな問題に対し、防衛省においては防衛庁の時代から様々な研究や議論を進めてきており、近年では敵の策源地や攻撃基地に対する航空攻撃作戦の実施について、これらは専守防衛の理念から逸脱しないとし、かかる攻撃能力や手段の保有も視野に入れ、20世紀末より様々な研究が開始・計画されているところである。
一方で、2000年代の米空軍の再編計画等に絡み、三沢基地に駐留するワイルド・ウィーゼル部隊が再三にわたり国外への移転を行いたい意向を示しているとされ、このことも、日本が独自の反撃能力獲得を模索しなければならない理由の一つと思われる。
こうした動きの中、本格的な攻撃機敵防空網制圧の手段を保有しない自衛隊にあって、長い航続距離と大きな兵装搭載量を持つF-2がその反撃戦術の中核を担うことになるのはほぼ確実であり、防衛省技術研究本部による、かかる任務に必要とされる武器システム等の研究を通じ、近い将来にわたり段階的に、本機の機能向上または本来任務の範囲拡大が図られていく見通しである。

次世代兵装と武器システム

F-2は迎撃任務を主任務としない支援戦闘機ではあるものの、増大し続ける脅威や日本独特の防衛環境に起因する現実的要請から、開発終了後にあってマルチロールファイター(多用途戦闘攻撃機)としての高い能力を求められているものである。というのも、本機の配備開始時点で既に米国ロシアAIM-120R-77などといったアクティブレーダー誘導方式の中射程空対空誘導弾を開発・戦力化しており、この世界的趨勢に対しF-2も同種の誘導弾を運用可能とし、空対空戦闘における優れた機能を獲得し、ひいては他国空軍戦力に対する航空自衛隊能力の陳腐化を防止するための研究が進行中である。

AAM-4 99式空対空誘導弾

特に技術研究本部(技本、TRDI)技術開発官(航空機担当)第4開発室が実施している「アクティブ・電波・ホーミング・ミサイル搭載に関する研究」では、国産中射程空対空誘導弾AAM-4(99式空対空誘導弾)をF-2に搭載し、また発射母機としてAAM-4の性能を満足に発揮するためのレーダーの探知距離の大幅な延伸と同時目標対処能力の向上の研究を行い、2009年度に試験を終えて事業を終了した、2010年度から搭載改修予定。改修作業はIRAN(定期点検修理)時に実施し、専用の指令送信装置(J/ARG-1)などの必用コンポーネンツが追加される。この作業を経てF-2はAAM-4発射能力を付与される。これは前述したAIM-120の既存モデルやR-77等といったミサイルと比較して優れた射程距離、追尾・撃破性能、ECCM性能を持つとされる。巡航ミサイルへの高水準な対処能力も持つとされる同兵装を運用可能とすることで、F-2は他国の第4.5世代戦闘機に対抗し得る対空攻撃機能を獲得するに至るとされる。

また、対地・対艦攻撃能力も向上しており、さらに将来の能力向上のための研究も進んでいる。調達年度によって製品の仕様に多少の相違がみられるが、後年調達機では総じて、進歩する搭載装備品に合わせた機能強化が行われている。平成16年(2004年)度発注の機体からは、JDAMGPS誘導爆弾)搭載能力が、平成17年(2005年)度発注機からは、「外装型赤外線前方監視装置 J/AAQ-2」の搭載能力が付与されている。

他にF-2に関連して研究が進行中の計画としては、自衛隊デジタル戦闘システム(JDCS(F))の搭載 、次世代対艦ミサイルのための各要素研究、敵性電波識別及び対放射源攻撃システム(3次元高精度方探システム)、FCSレーダーの高機能化が挙げられる。

運用

部隊配備

F-2A 百里基地(2007年)
コープノース・グアム2009における編隊飛行(上から、F-2A,B-52H,F-16C,EA-6
グアムアンダーセン空軍基地から訓練のために離陸する、第3航空団第3飛行隊所属のF-2A(2007年6月13日)
訓練のため、アンダーセン空軍基地に集結したF-2A(2009年)

F-2が最初に配備されたのは三沢基地である。第3飛行隊に配備されていたF-1を更新するため、2000年(平成12年)10月2日付けで『臨時F-2飛行隊』が発足し、2001年(平成13年)2月27日に第3飛行隊は全機F-2の編成となった。

次いで松島基地第21飛行隊の(T-2飛行隊)を更新するため、2002年(平成14年)4月1日付けで『臨時教育F-2飛行隊』が発足し、2004年(平成16年)3月末で21飛行隊は全機F-2となった。

平成16年度からは築城基地第6飛行隊のF-1を更新するため、2004年8月に第6飛行隊F-2飛行班が設置され、2006年(平成18年)3月9日に全機F-2編成になった。またこれによりF-1は全機退役となった。平成18年度に取得されたのはB型のみで、これらは多くが第21飛行隊に配備された。

三沢基地第8飛行隊には平成19年度に『F-2準備班』が設置されて隊員の教育・訓練を行い、2008年(平成20年)4月1日から『F-2飛行班』が設置され、2009年(平成21年)度の2ヵ年をかけて配備される。F-1の代替として同飛行隊へ配備されたF-4EJ改は20年度に更新され退役した。F-2の発注は平成19年度をもって終了(後述)したので、機体の納入は2011年(平成23年)度に終了する予定である。

試作機の4機は岐阜基地の飛行開発実験団 (ADTW) に配備されている。

配備基地

調達予定の変更

防衛庁の当初のF-2調達予定数は下記の通りであった。

  • 支援戦闘機(FS)3個飛行隊 60機
一個飛行隊の定数は20機。各飛行隊は単座のA型18機と複座のB型2機を定数とする。対象は三沢基地の第3飛行隊・第8飛行隊、築城基地の第6飛行隊。
  • 教育飛行隊 21機
T-2超音速高等練習機の後継として、B型を配備する。対象は松島基地の第21飛行隊。
アグレッサー飛行隊として過去にT-2、現在はF-15J/DJを運用。
  • 術科教育用 2機
浜松基地の第1術科学校で整備員の養成が行われており、教材とする。
  • 在場/減耗予備機 39機
飛行隊ごとの整備や、大規模整備でメーカーに送り返されている間に部隊で使用するために、定数以外の予備機を設けてローテーションを行う。また、事故による減耗に対して機体を確保する。
T-4中等練習機を使用するブルーインパルスの後継機に11機。

以上、計141機の導入が計画されていた。

だが、まずブルーインパルス配備分11機が緊縮財政の折、時期尚早として早々と削減され、130機となった(平成7年12月14日安全保障会議決定、同年同月15日閣議了解)。一般に流布する「130機の調達予定」とはブルーインパルス分の削減以降の数値を指していた。

さらに、2002年(平成14年)8月の調達減少を受けて飛行教導隊の8機が全機削減、在場減耗予備を15機に削減(24機減)となり、計32機を差し引いた98機の調達となった。削減対象は現在F-15DJを使用し、今後も使用が可能な飛行教導隊であり、減耗や整備ローテーションのための在場減耗予備を15機に圧縮する手法で調達数を削減している。飛行隊への配備定数81機に対して15機はかなり少なめである(F-4、F-1などは機体定数のおよそ30パーセントを予備機として調達した)。T-2後継としての教育飛行隊21機もかなり少ないが(T-2は96機の調達)航空自衛隊のパイロット養成シラバスそのものが変化しており(200機以上生産されたT-4による基本操縦課程(前期・後期)のあとは、F-15またはF-2での戦闘機操縦課程となり、進歩したシミュレータの活用もあって超音速高等練習機という機種の存在そのものが不要となっている)学生の教育よりも機種転換訓練用の意味合いが大きい。

予算削減を受けて2004年(平成16年)12月10日に議決された「平成17年度以降に係わる防衛計画の大綱」(新防衛大綱)によって、戦闘機戦車護衛艦を現在より大幅に削減する方針を打ち出した。この定数の削減によって、要撃・支援の二本立てであった戦闘機飛行隊区分を将来的にマルチロール(全用途)化する必要が生じた。

新防衛大綱の発表直後には、前期(平成13年度から17年度対象)の「中期防衛力整備計画」(中期防)を1年繰り上げ終了、新防衛大綱によって再形成された新・中期防(平成17年度から21年度対象)を決定した。この新中期防の中で、F-2の調達中止と中止に至る理由、F-4後継戦闘機(F-X)の調達が発表された。中止の理由は以下の通りである。

  1. F-2は開発の遅れなどで、1機当たりの価格が当初予定していた約80億円から、主力戦闘機F-15と同等の約120億円に増加した。
  2. F-15が近代化改修で性能向上を図っているのに対し、F-2は機体が小さく性能向上の余地が少ない。
  3. F-2は機体が小さく、ミサイルなどの装備数にも限界がある。

平成16年度までに配備済みを含め、計76機が予算計上されていたため、22機を足した合計98機で配備を打ち切るとされた。その後は、配備済みを含め、平成17年(2005年)度予算で5機、平成18年(2006年)度予算で5機が調達された。当初は平成20年(2008年)度までの整備予定であったが、5機ずつ2年に分けるよりも136億円の節約(このうち約100億円は、会社の生産ラインを早期に閉じるために節約できる額)になるとして、平成19年(2007年)度予算では10機の一括取得を目指したものの、8機分しか認められず、2006年(平成18年)12月24日に開かれた安全保障会議の場で、総取得数を98機から94機(F-2A×62機、F-2B×32機)に削減することが了承された。削減分については、調達中に事故等で失われる可能性を勘案して計上した数(在場・消耗予備機)としており、当初より予定されていた総作戦機機数については変更されていない。

19年度発注分は2011年(平成23年)度に納入完了を予定しており、岐阜基地所属の試作機4機(現在は新装備品の空中実験機)を含め、F-2の総生産数は98機となった。

事故

2007年(平成19年)10月31日 - F-2B(43-8126)が、名古屋飛行場に隣接する三菱重工業小牧南工場における機体定期修理(IRAN)の最終チェックである社内飛行試験を行うため離陸しようとしたところ、浮揚直後に意図した以上の急激な機首上げ動作が発生し、パイロットがそれを押さえようと機首下げ操作をしたところ今度は意図した以上の急激な機首下げ動作が発生したことにより急降下、機首部分より滑走路に激突、機体を破損させながら滑走路を左方向に逸脱、停止、炎上した。三菱重工社員のテストパイロット2名(共に、元・航空自衛隊パイロット)は脱出したが重傷を負った。この事故の発生を受け航空自衛隊では同日より11月16日までF-2全機の飛行が中止された。

事故の原因は、機体の縦方向の動きを感知するピッチ・レート・ジャイロと、横回転の動きを検知するロール・レート・ジャイロの配線を相互に誤接続してしまっていたことであった。これにより機体を制御するコンピューターに縦方向の動きと横回転の動きが誤って伝達され、パイロットの意図しない動作を機体に発生させてしまったことにより墜落に至ったものである。

各型と機体番号

  • F-2A:単座型、62機配備予定
03-8503~507/509、13-8508/510~521、33-8522/523、43-8524~530、53-8531~533/535、63-8534/536/541、73-8542/543
  • F-2B:複座型、32機配備
63-8103~106、23-8107~115、33-8116~124、43-8125~129、53-8130/131、73-8132/133
  • XF-2A:F-2Aの試作機・飛行試験機、2機
63-8501/502(旧番号63-0001/003)
  • XF-2B:F-2Bの試作機・飛行試験機、2機
63-8101/102(旧番号63-0002/004)

防衛省(旧防衛庁)や三菱重工業等が非公式に「F-2C/D/E/F」の型番を用いることがあるが、これらの型番はF-2の能力向上計画・研究にあたり便宜的に用いられるものでしか無く、正式な型番では無い(2008年10月時点)。

F-2 Super Kai(F-2スーパー改)

F-2の開発に協力したアメリカのロッキード・マーティン社は2004年(平成16年)に横浜市で開催された『国際航空宇宙展ジャパンエアロスペース2004』にて、F-2の能力向上プランを提示した。

展示された機体の想像図や模型には、胴体背面にF-16E/F(ブロック60/62)のようなCFT(コンフォーマル燃料タンク:機体に密着する形で取り付ける増槽。従来の増槽に比べ装備時の空気抵抗増大を小さく抑えられる)を取り付け、スナイパーXRを装備したF-2の姿があり、ロッキード・マーチン社はこの機体をF-2 Super Kai(F-2 スーパー改)と称していた。

しかし、今のところ防衛省がこのプランを採用する予定は無く、またロッキード・マーチン社も続報は発表していない。

出典・脚注

  1. ^ http://mainichi.jp/word/archive/news/2007/10/20071031dde041040012000c.html
  2. ^ 平成16年度調達価格は約98億円 自衛隊装備年間2006-2007 朝雲新聞社
  3. ^ 日本実業出版社「いまこそ知りたい自衛隊のしくみ」著:加藤健二郎 ISBN 4-534-03695-7 p120
  4. ^ パッシブ型も含めたフェーズドアレイレーダーとしても、MiG-31に続く世界で2番目
  5. ^ a b 新潮文庫「たそがれゆく日米同盟 ニッポンFSXを撃て」手嶋龍一 ISBN 4-10-138113-52006年
  6. ^ とは言え、独自技術の情報公開を求められるなど、諜報的要素を多分に含んだ「査察」に近いものであった。
  7. ^ 高性能な戦闘機や爆撃機空母機動部隊空母戦闘群(現 空母打撃群))や原子力潜水艦を保有する彼らは、一機の戦闘機にそのような性能を求める日本の一点豪華主義じみた要求と縁がなかった。
  8. ^ 右を三菱重工業、左をロッキード・マーティンが担当。
  9. ^ F-toys 日本の翼コレクション F-2解説書
  10. ^ 兵装の組み合わせにもよるが、実際に同時使用可能な翼下ハードポイント数は片側3~4箇所まで
  11. ^ F-2の試作2号機
  12. ^ この洋上迷彩は、航空自衛隊第8飛行隊で運用されるF-4EJ改戦闘機の一部にも試験的に採用されている。
  13. ^ 装備品等の制式に関する訓令 (昭和29年防衛庁訓令第27号)。ただし、自衛隊航空機は制式化されない (第68回国会決算委員会第5号の政府委員答弁参照) ため、F-2 に「〇〇式」方式の名称は与えられていない

参考文献

  • 月刊『航空ファン』各号(文林堂)
  • 月刊『J-Wings』各号(イカロス出版)
  • 月刊『航空情報』各号(酣燈社)
  • 『戦闘機年鑑』各版(イカロス出版)
  • 『航空自衛隊パーフェクトガイド』各版(学習研究社)
  • 『日本はなぜ旅客機を作れないのか』 - 前間孝則(草思社ISBN 4-7942-1165-1
  • 『戦闘機屋人生―元空将が語る零戦からFSXまで90年』 - 前間孝則(講談社、2005年)ISBN 4-06-213206-0
  • 『たそがれゆく日米同盟―ニッポンFSXを撃て』 - 手嶋龍一新潮文庫、2006年)ISBN 4-10-138113-5
  • 『自衛隊航空機全集―陸海空自衛隊、歴代装備機のすべて』 - 松崎豊一(イカロス出版)ISBN 4-87149-771-2
その他、外部リンクも参照

関連項目

F-1支援戦闘機 - F-2支援戦闘機
  • 類似する航空機
MiG-29 ファルクラム
J-10 殲撃十型
ダッソー ラファール
ユーロファイター タイフーン
サーブ 39 グリペン
SH-60K海上自衛隊哨戒ヘリコプター 三菱重工業が独自に再設計した航空機)

外部リンク