コンテンツにスキップ

イムジン河

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。121.92.141.26 (会話) による 2010年2月20日 (土) 11:30個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎ザ・フォーク・クルセダーズ版「イムジン河」)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

イムジン河」(いむじんがわ、原題: 臨津江: 림진강、あるいは 임진강〉)は、朝鮮民主主義人民共和国(以下「北朝鮮」)の楽曲。作曲は高宗漢 (고종한)、作詞は朴世永 (박세영)。1957年7月発表。

日本語の歌詞がついたものとしては、次のものがよく知られている。

ザ・フォーク・クルセダーズ版「イムジン河」

『イムジン河』
ザ・フォーク・クルセダーズシングル
リリース
ジャンル J-POP
レーベル 東芝音楽工業(1968年版)
アゲント・コンシピオ(2002年版)
チャート最高順位
ザ・フォーク・クルセダーズ シングル 年表
帰って来たヨッパライ
1967年
大蛇の唄
1970年
イムジン河
1968年
(発売中止)
イムジン河
2002年
悲しくてやりきれない
(1968年)
フォークル「DAIKU」を歌う
(2002年)
テンプレートを表示

これらのうち、日本語詞のついた「イムジン河」として最もよく知られているのが1968年にザ・フォーク・クルセダーズが歌ったものである。臨津江 (リムジン江) で分断された朝鮮半島についての曲であり、主人公は臨津江を渡って南に飛んでゆく鳥を見ながら、なぜ南の故郷へ帰れないのか、誰が祖国を分断したのかを鳥に問いかけ、故郷への想いを募らせる内容である。

もともとは、のちにフォーク・クルセダーズやサディスティック・ミカ・バンドの作詞を担当することになる松山猛が、京都での中学時代に、松山の中学との喧嘩に明け暮れていた朝鮮中高級学校の学生たちにサッカーの試合を申し込もうと朝鮮学校を訪れたとき、この曲を耳にしたことがきっかけだった。松山はトランペットの練習を九条大橋でよく行っており、同じ場所にサックスの練習に来ていた朝鮮学校の文光珠と親しくなり、メロディーと歌詞を教わり、松山は彼から、歌の1番の歌詞と日本語訳が書かれたもの(彼の姉が書いてくれた)と、朝日辞典を渡された[1]

後年、松山はフォーク・クルセダーズ(当時はまだアマチュアで、正式には「フォーク・クルセイダーズ」を名乗っていた)のメンバーと知り合いになり、加藤和彦に口頭でメロディを伝えた。それを加藤が採譜したものがこの曲であり、原曲の「臨津江」とは全く成り立ちが異なる。教わった1番だけでは歌うのに短過ぎるため、松山は2番と3番の歌詞を付け加えた[2]。それまでコミカルな曲を持ち味としてきたフォーク・クルセダーズだが、初演では聴衆から大きな拍手が沸いたという。1966年のことだった。

デビュー曲で大ヒットとなった「帰って来たヨッパライ」に続く第二弾として1968年3月に東芝音楽工業(現・EMIミュージック・ジャパン)が発売したのが、このアマチュア時代から歌い継いできた「イムジン河」だった。東芝の関係者の証言によれば、「帰って来たヨッパライ」でデビューするようフォークルを説得していた頃から、「第二弾はイムジン河で行ける。ヨッパライがこけてもイムジン河がある」と考えていたとテレビ朝日の番組[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。で証言している。つまり、「ヨッパライ」は「イムジン河」の前座だったということになる。少なくとも、当初の東芝関係者の間には、そういう計算があったのが事実である。ところが発売前に数回ラジオにかけた後、「帰って来たヨッパライ」200万枚発売記念パーティーの翌日、突如レコード会社は「政治的配慮」から発売中止を決定(すでに13万枚が出荷されていた)。結果的に放送自粛的な雰囲気が広がる。こうしたなかで、京都放送のディレクター川村輝夫は自粛後もラジオでかけ続けた[3]

なお、ザ・フォーク・クルセダーズの「イムジン河」のB面曲として発売される予定であった「蛇に食われて死んでゆく男の悲しい悲しい物語」は、1970年に「大蛇の唄」としてシングル発売された。

発売自粛の理由

この曲はもともと北朝鮮では有名な曲で、松山やメンバーらの考えていたような民謡ではなく、高宗漢の作曲、朴世永の作詞によるものであった。オリジナルの曲では、主人公は臨津江を渡って南に飛んでゆく鳥を見ながら、1番では臨津江の流れに対し、なぜ南の故郷へ帰れないのかを嘆き、2番では臨津江の流れに対し、荒れ果てた「南」の地へ花の咲く「北」の様子を伝えてほしいと思いを託す内容である。松山の歌詞では、北の幸せさに対し南を哀れむもともとの2番の歌詞は、分断に対する疑問を訴える歌詞に変わっており、まったく違う物となっている。さらに松山の歌詞には、オリジナルにはない3番がある。

東芝音楽工業に対し朝鮮総連は、これが北朝鮮の歌であることと作詞作曲者名を明記すること、原詞に忠実に訳すことを求めていた。後者に関しては、洋楽の日本語訳詞でも原詞と完全な一致はしない物も多かったためあまり問題ではなかったものの、レコード会社は国交のない北朝鮮の名を出すことを躊躇し、大韓民国も北朝鮮の曲が日本国内でヒットすることを望まなかったためレコード会社に圧力をかけ、結果発売自粛となったようである。また、東芝音楽工業の親会社の東芝が大韓民国内での家電製品のシェア拡大に悪影響を及ぼすことを恐れたため圧力をかけたという説もある[4]

2002年の再発の際にも、原盤を制作したフジパシフィック音楽出版(制作当時パシフィック音楽出版)社長の朝妻一郎(現会長)が原盤権を譲渡していた東芝EMIに発売を持ちかけたが了承せず、フジパシフィック音楽出版が原盤権を取り戻し、アゲント・コンシピオから発売にこぎ着けたという[5]

その後

1995年に、ソリッド・レコードから、1967年に発表した自主制作盤『ハレンチ』に、発売中止となった「イムジン河」を追加したアルバム『ハレンチ+1』が発売された。ただし、インディーズとしての発売だったこともあってか、後述のシングル発売ほどは話題にはならなかった。

2001年には「日本語詞:松山猛、編曲:加藤和彦」として日本音楽著作権協会に登録された(北朝鮮は当時ベルヌ条約に加盟していなかったため、原曲の作詞者・朴世永と作曲者・高宗漢の著作権は「PD」となっている)。

2002年3月21日、アゲント・コンシピオより34年の歳月を経て初めてシングルCDとして発売された。ちなみに加藤和彦の55回目の誕生日だった。2002年4月15日付のオリコンシングルチャートで最高14位を記録した。

日本国内における1970年前後の過敏な状態も、1990年代 - 2000年代前半頃には表面的には収まっている。ザ・フォーク・クルセダーズを扱った番組や、ラジオ局の開局記念番組などで「音楽史の一部」としてながらも放送されている。

ただし、2006年現在でも放送の自粛が完全に終わったとは言えない状況である。たとえば、「イムジン河」が劇中曲として使われた2005年公開の映画『パッチギ!』のプロモーションで各放送局を廻った担当者は、どの局でも「イムジン河」と聞いただけで難色を示されたという[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。。また、この歌が昼間からラジオあるいはテレビから流れることは滅多にない。

「悲しくてやりきれない」との関係

なお、発売自粛となったこの曲の代わりにザ・フォーク・クルセダーズの2枚目のシングルとして発売された曲が「悲しくてやりきれない」であり、2002年に発売されたシングルCD「イムジン河」のカップリングにも収録されている。同曲は「イムジン河」のコードを反対からつなげて作ったという話も残っているが、音楽理論上から見ると機械的なコード操作では無理なので、逆回転から発想を得てイメージを膨らませた結果と言える。1998年10月26日のNHKの『スタジオパークからこんにちは』にて加藤は、「某出版社(パシフィック音楽出版[6])の会長室に3時間限定で缶詰にされた。最初はいろいろとウイスキーだとかを物色していたが、残りわずかという時間になって、そろそろつくらにゃ、という気持ちで譜面に向かった。イムジン河のメロディを逆に辿っているうちに、新たなメロディがひらめいた、実質的には15分ほどでできた」と証言している。

ザ・フォーシュリーク版「リムジン江」

1968年11月25日には朝鮮総連が指定した李錦玉による訳詞でザ・フォーシュリークが「リムジン江」というタイトルでレコードを発売し、当時20万枚以上を売り上げた。なお、これは放送禁止扱いとなった。

「イムジン」と「リムジン」

語頭の違いは朝鮮語の南北間差異が関係する。現在の韓国においては、単語の冒頭のR音は、無音化(つまり母音のみ発音)するか、N音として発音される。一方、北朝鮮においては、ハングルの綴り通りにR音で発音される。要するに、「イムジン(임진)」と「リムジン(림진)」とは「南」と「北」との方言の差異であって、同じ河川の呼称である。

川西杏版「イムジン河」

1969年1月には川西杏西村良夫による訳詞で「イムジン河」を発売した。発売元は川西の自費製作によるインディーズレーベルのANレコード。

ミューテーション・ファクトリー版「イムジン河」

1969年2月には松山猛・平沼義男・芦田雅喜の3人によって結成されたフォークグループ、ミューテーション・ファクトリー(平沼・芦田はアマチュア時代のザ・フォーク・クルセダーズのメンバーであり、このグループはザ・フォーク・クルセダーズの「イムジン河」発売中止を受け、松山の訳詞による「イムジン河」を残そうと急遽結成されたグループである)によって松山猛の訳詞による「イムジン河」を吹き込み、アングラ・レコード・クラブから会員配布された。1971年7月に市販用シングルが発売された(レコード番号は配布版がURS-0001、市販版がURT-0057)。

1974年にはLP『関西フォークの歴史/第1集』に収録された。ミューテーション・ファクトリーの「イムジン河」は、現在オムニバスCD『URC シングルズ(1)』『関西フォークの歴史/第1集』(LPの復刻)で聴くことができる。

その他の「イムジン河」

レコード・CD

原詩による「イムジン江」は、1999年田月仙がアルバムCD「夜明けのうた/イムジン江」でカバー。

松山猛の訳詞による「イムジン河」は、1997年高石友也のアルバムCD『高石友也フォーク・アルバム第3集(+4)』、1998年にはRIKKIのアルバムCD『miss you amami』、2001年にはばんばひろふみのアルバムCD『Hello Again』、杉田二郎のアルバムCD『Ba.Ba.Lu de Jiro』、2003年には新垣勉のシングルCD「青い空は」のカップリングとして、それぞれカバーされている。

松山猛の訳詞でない日本語詞としては、1978年、寒暖計がたかたかしの訳詞により「哀愁のリムジン河」として発売し、1997年新井英一のアルバムCD『オールドファッション・ラブソング』に自身の訳詞による「イムジン江」が、2000年にはキム・ヨンジャのアルバムCD『虹の架け橋』に吉岡治の訳詞による「イムジン江」が、2002年、キム・ヨンジャのシングルCD「夢千里」のカップリングに同じく吉岡治の訳詞による「イムジン河」が収録されている(『虹の架け橋』収録版とはバージョン違い)。キム・ヨンジャ版では、日本語と原詩の朝鮮語の歌詞を交えて歌っている。

趙博のアルバムCD『彼処此処(おちこち)』では、朝鮮語・日本語・英語を交えた歌詞の「イムジン河」が歌われている。

ジョン・チャヌ2000年発売のシングルCD「イムジン河〜響け我が想い〜」には、インストゥルメンタルの「イムジン河」が収録されている。

その他、多数の歌手によるカバー版が発売されている。

テレビ放送

テレビ放送では、2000年6月にTBS筑紫哲也 NEWS23』にて田月仙がライブで歌い、2001年には、吉岡治の訳詞をキム・ヨンジャが歌ったものが『NHK紅白歌合戦』の放送電波に載った(キムは『BS日本のうた』でもこの曲を歌うことがある)。

2002年11月17日にはザ・フォーク・クルセダーズのコンサート『新結成記念解散音楽會』がNHK BS-2で放送され、そこに含まれるかたちで松山猛の詞による『イムジン河』が放送された。ここでは松山猛の1968年当時の歌詞と、きたやまおさむによる新たな歌詞をつけた『イムジン河 〜春〜』の2つが披露された。2005年5月29日愛・地球博の『青春のグラフィティコンサート2005』では松山猛の1〜3番の歌詞に加え,「イムジン河 〜春〜」の詞を4番に加えた「イムジン河」をばんばひろふみが披露した。

2006年9月10日埼玉県狭山市狭山稲荷山公園内にて開催された『HYDEPARK MUSIC FESTIVAL 2006』にて「ポーク・クルセダーズ」名義にて一夜限りの5度目となる再結成コンサートが行われた際、朴貫仁が翻訳に協力し金錦愛が松山猛版の歌詞の2番部分の朝鮮語訳詞を行ったものが歌唱された。この朝鮮語詞は松山猛による日本語詞を基に制作されたものである。

アンサーソング

1969年9月、グリーン・フィールズによる「イムジン河のほとりで」(作詞:阿久悠、作曲:水野たかし)が発売された。

脚注

  1. ^ 松山猛 『少年Mのイムジン河』 木楽舎、2002年、32頁。
  2. ^ 松山猛 『少年Mのイムジン河』 木楽舎、2002年、44-45頁。
  3. ^ 「朝日新聞」2009年10月18日社会面、加藤和彦の自殺を報じる記事
  4. ^ 「イムジン河の数奇な運命 日本で愛される『北朝鮮の名曲』」『AERA』2002年8月12日号
  5. ^ Web東奥・特集/断面2002
  6. ^ Musicman-NET Musicman's RELAY 第71回 加藤和彦氏

参考文献

  • 「イムジン河の数奇な運命 日本で愛される『北朝鮮の名曲』」『AERA』、2002年8月12日号
  • 田月仙 『禁じられた歌 朝鮮半島音楽百年史』 中央公論新社〈中公新書ラクレ

関連項目

  • パッチギ! - 松山猛による訳詞の創出が作中にモチーフとして取り入れられている。

外部リンク