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昭和天皇の戦争責任論

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昭和天皇の戦争責任(しょうわてんのうのせんそうせきにん)とは、大日本帝国憲法において軍の統帥権を持つ元首で、かつ大日本帝国陸海軍の最高指揮官(大元帥。軍の階級としては陸海軍大将)であった昭和天皇日中戦争支那事変)から太平洋戦争大東亜戦争)に於ける戦争遂行に関して責任の有無およびその責任を明らかとする原理を含む観念上の定義を指す。一般的には「天皇の戦争責任」という言い方がなされることもある。

責任の種類

責任とは観念の問題である。すなわち、社会と国家と法理(原理)を混ぜ合わせた観念である。すなわち、法理を問えば「君主無答責」となり、社会を問えば「政治的責任の有無」となり、国家を問えば「現実の東京裁判」となる。しかし、この言葉を使用する論者ごとにその内容は「観念」より出でることはない。

昭和天皇の戦争責任を追及する立場の人物が主張する説によれば、戦前の日本は人類の正義に反して世界征服を企み、非人道的な征服戦争を発動して人類一般に対する深刻な損害を与えたとする。このような考え方は戦後に日本の戦争犯罪を裁いた極東国際軍事裁判の当初の大義名分になっていたと主張している。

それに対して、日本が世界征服を実行していたとする田中上奏文偽書と判明しており、日本の戦争行為はその時代をわずか数十年ほどさかのぼった時期までは連合国を構成する主要な帝国主義国である西欧諸国が普通に行っていた植民地制度と同質であり、これらの戦争の時期にはこれを犯罪と考える国際法的な根拠に欠ける事後法であるといったさまざまな反論があり、日本国内ではこのような戦争責任については、否定的な見解が多数を占めている。

昭和天皇の戦争責任を追及する立場の人物が主張する説によれば、戦争によって不幸な状態に陥れられた被害者全般に対しての責任があるとする考え方がある。この被害者には、日本の民間人の被害者、軍人や兵士の被害者、日本が進出した中国やその他のアジア諸国の軍人や民間人の被害者、日本の残虐な扱いで犠牲になったアメリカ軍などの西欧諸国の軍隊の戦争捕虜を含む連合軍の軍人などに対して天皇が責任を取らなければならないと主張している。さらに一部の人々は、アメリカなど西欧列強の被害者に対する責任は無視して、アジア諸国の被害者については責任を認めようとする考え方が、情緒的なものではあるが比較的多数の国民に共有されていると主張している。

昭和天皇の戦争責任を追及する立場の人物が主張する説によれば、戦争時の敵国の被害者を完全に除外するが、結果的に日本が戦争に敗れ、また日本の軍人や民間人に多大の犠牲者を出したことについての責任だけを限定して認めようとする立場もある。このような考え方は、東京裁判で裁かれた東條英機の陳述などに見ることができ、現在でも多くの日本人の共感を勝ち得ていると主張している。ただ、東京裁判の被告人として有名な東條英機は連合国側に与えた被害を無視すると主張してはいない。また昭和天皇の戦争責任については認めていない。

昭和天皇の戦争責任の追及には否定的な立場の人物が主張する説によれば、昭和天皇は立憲君主として「君臨すれども統治せず」との立場を貫いたのであり、戦争責任は昭和天皇を輔弼または帷幄上奏した政治家、軍人らにあるとするものである。

また、昭和天皇の戦争責任の追及に否定的であるとともに、政治家、軍人らの戦争責任も否定する立場の人物が主張する説によれば、昭和の戦争を日本が独立国として存続するための自衛戦争、あるいは西洋帝国主義諸国の植民地主義と戦って、過酷な支配の下にあったアジア植民地を欧米列強から解放するための戦争であったと主張し、戦争は天皇が専らアジア諸国の侵略を目的として企図したものではないと主張している。

これに対して、昭和天皇の戦争責任を追及する立場の人物は、戦後の国際的な冷戦体制によって、アメリカを中心とする西側諸国が日本の共産化を阻止するため、侵略戦争に荷担した日本指導層を戦争責任を追及せずに政財界に復帰させた逆コースによって天皇の戦争責任の追及が今でも阻まれていると主張している。これらの人々は、1990年代頃に顕著になった自由主義史観といった議論や運動は、この流れに沿ったものであると主張している。

戦争責任を追及する立場の主張

戦争当時の日本では国家主権は天皇に帰属し、日本国内でも外国でも天皇は日本の元首であり最高権力者であると認識されていて、戦争を始めとするすべての政治的な決定は天皇の名のもとで下され、遂行されたという歴史的事実から、天皇に戦争責任があったとする主張がある。また、天皇自身も戦争責任を意識している節は各種証言や手記によって確認されている。ポツダム宣言受諾の際の1条件(国体護持)をめぐる回答や、(中曽根らの進言に沿って)戦後に退位を望む意向を示したことなど。

戦争責任を追及しない立場の主張

大日本帝国憲法では、天皇には、拒否権のみが存在し、実際の意思決定や政策立案は内閣と帝国議会によって行われていたとする意見がある。また当時の大日本帝国憲法では天皇の政治的無答責が規定されているとする意見がある。しかし、「君主無答責」の規定による戦争責任からの逃避は、第一次世界大戦ではヴェルサイユ条約でドイツ皇帝が戦争責任を問われたことがあり、国際的には全肯定されていない。また東京裁判でも「君主無答責」論が公式に利用されることはなかった [1]。また上記に列挙した戦争責任について、日本には戦争に対する責任を負うべき事実が存在しないから、天皇の戦争責任自体を問うことが設問として成り立たないとする意見がある。また国としての損失という面から考えると、当時の日本の主権者は天皇であり、その最大の被害者は天皇自身であったとする意見もある。また、天皇は日米開戦を論議した御前会議の最中に、開戦に反対したとする意見もある。昭和天皇はマッカーサーとの会見で、戦争責任は日本国民にではなく、すべて自分にあると述べたとされている。ただし、サンフランシスコ講和条約において、天皇が自国の戦争に責任を負うべきものがあることを承認するという条項は無い。

戦争裁判における天皇の免罪

戦後、日本の戦争犯罪を裁いた東京裁判では、昭和天皇を訴追する動きもなかったわけではないが、早い時期にそのような動きは撤回され、天皇は裁かれないことになった。また、戦争直後には昭和天皇が退位するという選択肢もまったく検討されなかったわけではないが、実際には戦後の民主的な選挙によって構成された国会によって日本国憲法が制定され、大多数の国民の支持を得た上で昭和天皇は天皇の地位にとどまり、戦後の象徴天皇制が始まった。

これに対して、昭和天皇の戦争責任を追及する立場の人物は、これらの一連の措置は、アメリカによって行われた非民主的な措置であり、昭和天皇の戦争責任を歴史的な研究課題として今日まで未解決のまま残した決定的な原因であるとしている。しかも、この措置は戦争責任に関する議論によって決定されたものではなく、多くは冷戦に向かう戦後政治の中で、日本を西側陣営に引き込もうとするアメリカなどの西側連合国の政治的な動機により採られたものだったと強く主張している。

一方、昭和天皇の戦争責任を追及しない立場の人物は、アメリカによって行われた合理的な措置であり、戦後日本の民主化への移行をスムーズに導いた要因であるとしている。この措置は、日本国民に根付く天皇の伝統文化的な価値観と誇りを破壊することによって生じるであろう多大な悪影響と混乱を回避し、民主化達成後の日本国民自らがその価値観を象徴天皇という概念として受け入れるための意識改革にとって適切な思考期間を与えた成功例であると主張している。仮に昭和天皇が戦犯として処刑されていた場合、あれほど日本国民がアメリカの占領政策に協力したであろうか。それだけではなく現在の日本人の価値観、思考などさまざまな点で異質の民族性を生み出していた可能性が指摘されている。

タブー化

このように、昭和天皇の戦争責任を追及する立場の人々は、天皇の戦争責任は戦後における未解明の問題として残されていると主張している。また、これらの人物は、戦後の日本で昭和天皇の戦争責任を追及することは禁じられており、何者かの強い圧力によりこの問題はタブー化され、その傾向はますます強まっていると主張している。その根拠として、1988年に天皇の戦争責任について市議会で答弁した長崎市長・本島等が銃撃された事件等がその証拠であると主張している(菊タブー)。

一方で、これらの討論などは法律などによって規制されているわけではない。つまり、日本人が昭和天皇の戦争責任の追及をタブー視して、タブーがあると主張する天皇の戦争責任を追及する立場の人々が否定的に見られるのは、大半の日本人が天皇の戦争責任に対して否定的な見解である証左であると見なす論者もいる。一方で、タブーが天皇の権威付けに利用されまた権威がタブーを強固にするトートロジーとなっていると指摘する論者もいる。

皇族の戦争犯罪訴追

天皇は訴追されなかったものの、皇族である梨本宮守正王A級戦犯容疑者として逮捕されたことがある。後に不起訴となった。

市民の反応に関して

上にもあるとおり、1988年12月に長崎市議会で本島等長崎市長が「天皇の戦争責任はあると思う」と発言した問題は大きな波紋を呼んだ。日本全国から、さらに国外からも多くの封書、はがきなどが寄せられ、それらをまとめた書籍も発行された。『長崎市長への七三〇〇通の手紙』は、1988年12月8日から1989年3月6日まで市長宅に届き、そこから編集部に送られたはがき、封書、電報、電子郵便の合計7323通が収録されている。その内容については、市長を激励するものが6942通、批判、抗議するものが381通で、圧倒的に市長が支持されている内容となっている。ただし市長を「支持する」内容が即ち「天皇の戦争責任を認める」ものとは言えず、たとえば「その勇気に感銘した」という論旨のものや、反対勢力の暴力的恫喝的な行動への批判を表明するもの[2]なども散見される。しかし、自分の体験などに言及しつつ市長の発言に支持を表明するものも数多く収められている。これらからも、「天皇に戦争責任がある」と考える日本国民は少なくはないことがわかる。

昭和天皇の戦争責任を扱った作品

東條英機は名前のみ出ただけで彼の戦争責任にはほとんど触れられることはなく、一方昭和天皇は戦争責任者として、主人公をはじめ諸登場人物の憎悪の対象になっていると同時に、昭和天皇を戦後も依然として尊敬している人にも軽蔑の視点を貫いている(イタリアの最高実力者であったベニート・ムッソリーニを殺害後に民衆の前で晒し者にしたイタリア人と正反対に、主人公たちにとって天皇の戦争責任を問わない日本人は甘い民族として描かれている。東條英機の戦争責任についても諸意見あり、彼が真の戦争責任者かどうかについては議論がある。詳しくは内部リンク東條英機を参照)。

他に戦争責任を問われた王室 

枢軸国イタリア王国ウンベルト2世は昭和天皇同様死刑にならず、ムッソリーニの独裁政治とは無縁であったと弁明するが、イタリアから追放されポルトガルに亡命する。敗戦により王室が廃止された。第二次大戦前であるがロシア帝国ニコライ2世日露戦争敗戦後に国民からの信頼を失い、ロシア革命で退位に追いやられ、レーニンの命令で裁判なしで一家共々銃殺され、さらにその親族も処刑され、血統は断絶された。

国内や他国からの反応

連合国イギリスオーストラリアソビエト連邦中華民国は天皇の戦争責任を追及し一部は死刑にすべきと主張していたが、マッカーサーの政治的判断で追訴を免れ、イギリスも第一次世界大戦でドイツ皇帝を追放したことがナチスの台頭を招いたとして、天皇を占領管理の道具に利用すべきだと主張した。しかし当時敵対関係だったイギリス、オランダ、中国からは憎悪の対象として見られ、1971年に天皇のヨーロッパ訪問の際にベルギーフランスでは歓迎を受けたが、天皇に激しい憎しみを持つ退役軍人からは抗議に遭い、イギリスでは馬車に乗っている最中『帰れ!!』と抗議を受け、特にオランダは天皇が乗車する車に卵や魔法瓶を投げるほど反日感情があった事が有名であり、昭和天皇在位中の1986年のオランダのベアトリクス女王の日本訪問に国内で反対を受けた。 昭和天皇の1971年訪英の際にイギリスの大衆紙「ザ・サン」は「血に染まった独裁者」として天皇の写真を掲載し、天皇を「バッキンガム宮殿からVIP待遇を受けた血に染まった独裁者達」として特集していた[3]。(但し「サン」は、女性のヌード写真が掲載されているような、タブロイド誌であることに注意されたい)

それとは対照的に後に訪問したアメリカでは一部天皇に憎しみを持っている者がいたにも関わらず歓迎ムードであり、後にディズニーランドにも訪問した。また昭和天皇はアメリカ兵犠牲者の慰霊碑に訪問して、アメリカ人を喜ばせている。

昭和天皇死去後

日本と第二次世界大戦で敵対していた国からは天皇に対しての好き嫌いが激しい傾向がある。戦犯とみなされている昭和天皇が死去した後、皇位を継承した今上天皇(明仁)また日本皇室を反日思想の持ち主から敵視また軽蔑の対象と見ている者も存在する。そのような事例は以下の事である。

  • 明仁親王が皇太子時代の1975年に沖縄返還まもなく訪問の際に県内の左翼から反対運動で火炎瓶を投げつけられるというひめゆりの塔事件が発生した。
  • イギリスでは前述の様に昭和天皇を憎悪の目で見ており、過去に皇室関係者が訪英しても英語の敬語表現を使わない傾向がある。
  • 中国の江沢民国家主席が訪日した際、宮中晩餐会で江主席は天皇に尊称を使わず中国共産党の礼服である人民服で出席しており[4]、外国の首脳の訪問で江が人民服を着たのは日本の象徴である天皇であった。
  • 韓国では徹底とした反日教育で『憤怒の王国 (분노의 왕국)』という今上天皇を狙撃するという過激な映画が放映され、世界中で韓国・朝鮮のメディア・政府のみが天皇のことを侮辱の意味を込めて日王と表現している。しかし対日穏健派の金大中はそのような軽称を取りやめている。

脚注

  1. ^ 『社会科学総合辞典』新日本出版社、1992年、「天皇の戦争責任」の項参照。
  2. ^ たとえば該当書p.27-29
  3. ^ [1]
  4. ^ 天皇が「貴国と我が国が今後とも互いに手を携えて、直面する課題の解決に力を尽くし、地球環境の改善、人類の福祉、世界の平和のため、貢献できる存在であり続けていくことを切に希望しています」と発言したら、江は「日本軍国主義は対外侵略拡張の誤った道を歩み、中国人民とアジアの他の国々の人民に大きな災難をもたらし、日本人民も深くその害を受けました。『前事を忘れず、後事の戒めとする』と言います。われわれは痛ましい歴史の教訓を永遠にくみ取らなければなりません」と返答した。

参考文献

  • 径書房編集部編、『長崎市長への七三〇〇通の手紙 天皇の戦争責任をめぐって』、(1989)、径書房

関連項目