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コンラト5世コンツキ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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コンラト5世コンツキ(Konrad V Kącki、1385年頃 - 1439年9月10日)は、オレシニツァコジュレビトム半国、シチナヴァ半国の公(在位1412年 - 1427年、兄弟と共同統治)、単独のオレシニツァ公(在位1427年 - 1439年)。コンラト3世老公とその妻ユディタの間の次男。他の兄弟たちと同じくコンラトの洗礼名を名乗ったが、これはシロンスク・ピャスト家のうちオレシニツァ公家出身であることを示すための慣例だった。

1412年に父が死んだあと、コンラト5世は兄コンラト4世とともに公国の共同統治者となり、未成年だった3人の弟たちはこの時点では除外された。1416年、兄弟全員が成人に達すると、兄コンラト4世が下の弟たちを諸公とすべく国政から退いたため、共同統治者に格上げされた弟達はコンラト5世を公爵家の家長とした。4兄弟による共同統治は、1427年に公国の分割によって終わった。この際、コンラト5世はオレシニツァを保持した。

1411年10月9日までに、コンラト5世は出自不明の妻マウゴジャタと結婚し、5人の子女をもうけた。

  1. アグニェシュカ(1411年以後 - 1448年9月)…1437年、帝国大法官のパッサウ=ヴァイスキルヒェン伯カスパル1世シルクと結婚
  2. コンラト9世(1415年頃 - 1471年8月14日)
  3. コンラト10世(1420年 - 1492年9月21日)
  4. アンナ(1425年頃 - 1482年8月15日以後)…1444年までに、プウォツク公ヴワディスワフ1世と結婚
  5. マウゴジャタ(1430年以前 - 1466年5月10日)…1456年よりトシェブニツァの女子修道院長

参考文献

先代
コンラト3世
オレシニツァ公
コンラト4世(1416年まで)、コンラト6世、コンラト7世、
コンラト8世と共同統治(1427年まで)

1412年–1439年
次代
コンラト7世
コジュレ公
コンラト4世(1416年まで)、コンラト6世、コンラト7世、
コンラト8世と共同統治

1412年–1427年
ビトム公(半国)
コンラト4世(1416年まで)、コンラト6世、コンラト7世、
コンラト8世と共同統治

1412年–1427年
シチナヴァ公(半国)
コンラト4世(1416年まで)、コンラト6世、コンラト7世、
コンラト8世と共同統治

1412年–1427年
次代
コンラト8世