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大岡忠光

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大岡忠光
時代 江戸時代中期
生誕 宝永6年(1709年))
死没 宝暦10年4月26日1760年6月9日
別名 兵庫、主膳(通称)
戒名 得祥院義山天忠大居士
墓所 埼玉県さいたま市の玉峰山龍門寺
官位 従五位下出雲守
幕府 江戸幕府若年寄側用人
主君 徳川家重
上総国勝浦藩主→武蔵国岩槻藩
氏族 藤原姓大岡氏
父母 父:大岡忠利、母:天野重忠の養女(前田定堅の娘)
正室:大井政長の娘
大岡忠喜(長男)、加納久周(次男)
巨勢至方(三男)、長君(牧野忠寛正室)
娘(横田以松正室)
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大岡 忠光(おおおか ただみつ)は、江戸時代中期の大名。江戸幕府の側用人、若年寄を務め、第9代将軍徳川家重の側近として活躍した。上総勝浦藩主、武蔵岩槻藩初代藩主。

略歴

300石の旗本大岡忠利(大岡助七郎)の長男で、大岡忠房家4代当主。官職は出雲守。同時代に江戸南町奉行として活躍した大岡忠相(後に西大平藩主)は大岡忠世の出自に当たる縁戚で、親交もあった。

享保7年(1722年)に第8代将軍吉宗に謁見し、享保9年(1724年)8月には将軍家世子・家重(後の第9代将軍)の小姓となり、江戸城二の丸へ詰める。翌年には西の丸へ詰め、以後家重に側近として仕える。幼い頃より家重に近侍していた忠光は、不明瞭な家重の言葉を唯一理解できたため、異例の出世を遂げた。

延享2年(1745年)には家重が将軍となり、宝暦元年(1751年)上総国勝浦藩1万石の大名に取り立てられ、同4年5千石加増で若年寄、同6年にも5千石加増され、都合2万石を得て武蔵国岩槻藩主、側用人に任ぜられた。

年表

※日付=旧暦

法名:得祥院義山天忠大居士。墓所:埼玉県さいたま市岩槻区日の出町の玉峰山龍門寺

人物

ドラマでは悪役として描かれる事が多いが、実際の忠光はともすれば将軍の言葉を意のままに伝えることができたにもかかわらず決して奢ることなく、遠縁で同じく旗本から大名へ出世した大岡忠相に身のあり方などを聞いていたという。

当時の忠光を知るエピソードとして、当時オランダ商館長をしていたイサーク・チチング(Isaac Titsingh)が、忠光のことを著書『将軍列伝』の中で次のように書いている。

「家重は大岡出雲守という真実の友を持っていた。大岡出雲守はまことに寛大な人物で、他人の過失も咎めなかった。あらゆる点で大岡は上にあげた吉宗お気に入りの3人の家来(吉宗時代の御側御用取次である加納久通小笠原胤次渋谷和泉の3人の事)をお手本にしていた。それで、その死後、大岡について次のような歌ができたのである。

『大方は出雲のほかにかみはなし』

その意味は、要するに『出雲(=忠光)のような神はない云々』ということであるが、詠み人は、出雲(=忠光)の立派な性質のすべてについていうことは皮相なことであるとつけ加えている。(なぜなら、)『我々は皆、そのこと(忠光の人柄と業績)をよく見て知っている』といい、また、『そして涙を流して彼(=忠光)の思い出に感謝を捧げるのだ』ともいっている。」

— イサーク・チチング『将軍列伝』

上記の句からも、忠光が世間から恨まれていたのではなく、民衆から好意をもたれていた事がわかる。また、この句の詠み人の忠光に対しての哀悼の情は読み手に深く伝わってくる。チチングの記述と上記の句から忠光は単に家重に媚びてこの地位に昇りつめたものではなく、元々の実力と人間性を兼ね備えていたからこそこの地位へたどりつく事が出来た事がよく判る。

関連項目


先代
植村恒朝
大岡氏(勝浦藩)藩主
1751年 - 1756年
次代
廃藩