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松平信明 (三河吉田藩主)

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時代 江戸時代中期から後期
生誕 宝暦13年2月10日1763年3月24日
死没 文化14年8月16日1817年9月26日
別名 春之丞(幼名)
墓所 埼玉県新座市野火止の平林寺
戒名 乾翁元徳瑞龍院
官位 従五位下、伊豆守、従四位下、侍従
幕府 江戸幕府奏者番側用人老中(首座)
三河吉田藩
氏族 大河内長沢・松平家
父母 父:松平信礼
母:村雨忠武の娘・清見
兄弟 松平信明松平信武
正室:井上正経の娘
14男10女:松平信順(次男)、篤之助
泉吉郎、本庄道貫(四男)、津軽順徳(五男)
松平忠質(六男)、内藤信志(七男)
大森信道(八男)、阿部正瞭(九男)
雅(酒井忠器正室)、栄、従(安藤信由正室)
娘(土屋寛直正室)、錦(仙石政美正室)
厚(松平正敬正室)、睦(永井直養正室)
庸(建部政醇正室)、娘(松平信宝正室)
養女:松平輝延室)、中川久貴室)

松平 信明(まつだいら のぶあきら)は、三河吉田藩の第4代藩主江戸幕府老中・老中首座である。松平伊豆守系大河内松平家7代。

生涯

宝暦13年(1763年)2月10日、第3代藩主・松平信礼の長男として生まれる。幕府公認の記録である寛政重修諸家譜は、宝暦10年(1760年)生まれとしているが、これは信明が側室の出生であるところから、嫡子として幕府に届け出るにあたって年齢を水増ししたためである。

明和7年(1770年)、父の死去により家督を継いで第4代藩主となる。しかし幼少のため、叔父の本庄道揚が補佐し、明和8年(1771年)の道揚の死後は松平正升本庄道利が補佐した。安永6年(1777年)に従五位下・伊豆守に叙位・任官する。

天明4年(1784年)2月14日に奏者番に任じられる。天明8年(1788年)2月2日に側用人に任じられ、4月4日に老中に任じられ、松平定信寛政の改革をすすめるにあたって、定信とともに幕政に加わった。5月1日に従四位下に昇叙し、8月に侍従に任官される。寛政5年(1793年)に定信が老中を辞職すると、老中首座として幕政を主導し、「寛政の遺老」と呼ばれた。享和3年(1803年)12月に老中を辞職しているが、文化3年(1806年)5月に復帰して老中に復帰し、死去するまで幕政を主導した。

幕政主導の間は定信の改革方針を受け継ぐ一方で、蝦夷地開拓などの北方問題を積極的に対処しており、寛政11年(1799年)に東蝦夷地を、文化4年(1807年)に西蝦夷地を幕府直轄地とした。その中、文化8年(1811年)にはゴローニン事件も起きている。

文化14年(1817年)9月29日に死去。享年55。後を次男の信順が継いだ。

人物・逸話

  • 甲子夜話の筆者として著名な松浦静山は、信明の妹の夫にあたる。
  • 豊橋市の豊橋祭りの行列の松平公は、この松平信明公である。
  • 領国に戻ったのはわずか1年であり、藩校・時習館の拡張に努めている。

官職位階履歴

  • 宝暦13年(1763年)2月10日、谷中下屋敷にて誕生。
  • 明和6年(1769年)5月7日、正式に嫡子となる。6月27日、信明と名乗る。
  • 明和7年(1770年)、父親の死去に伴い家督を継承。
  • 安永6年(1777年)12月18日、従五位下伊豆守に叙任。
  • 天明8年(1788年)4月4日、老中となる。5月1日、従四位下となる。12月16日、侍従を兼任。
  • 寛政5年(1793年)7月23日、老中首座となる。
  • 享和3年(1803年)12月22日、老中を辞す。
  • 文化3年(1806年)5月25日、老中に再任され、老中首座となる。
  • 文化14年(1817年)8月16日、現職のまま没。(表向きには28日卒として発表)

関連項目

先代
松平信礼
大河内・長沢松平氏(三河吉田藩3代)藩主
1770年 - 1817年
次代
松平信順