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水野忠成

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水野 忠成(みずの ただあきら、宝暦12年12月1日1763年1月14日) - 天保5年2月28日1834年4月6日))は、江戸時代大名老中駿河国沼津藩第2代藩主。沼津藩水野家9代。

人物

旗本岡野知暁の次男。母は奥田忠英の娘。正室は水野忠隣の養女、継室は水野忠友の娘。子は水野忠紹(次男)、水野忠義(三男)。幼名は牛之助、友五郎。官途は大和守、出羽守。のち従四位下、侍従。通常は老中在籍時の「出羽守」の名で呼ばれることが多い。老中在職期間は文化14年(1817年) - 天保5年(1834年)。

生涯

宝暦12年(1762年)、岡野知暁の次男として生まれる。安永7年(1778年)水野忠隣の末期養子となり、忠隣の養女を娶って旗本2,000石・水野家を相続。吉太郎と称する。10代将軍徳川家治に仕え、小納戸役・小姓を歴任、天明5年(1785年)に従五位下大和守に任官。翌年、沼津藩主水野忠友の養子となり、その娘と再婚する。享和2年(1802年)忠友の死により、沼津藩を相続し、奏者番に任命された。翌年には寺社奉行を兼務。以後、若年寄側用人を歴任し、11代将軍徳川家斉の側近として擡頭する。

文化14年(1817年)、いわゆる「寛政の遺老」(寛政の改革を主導した松平定信を後継した老中)松平信明の死を受けて、老中首座として就任。義父・水野忠友は松平定信と対立した田沼意次派の人間であり、忠成もその人脈に連なる。忠成は、家斉から政治を委任されて幕政の責任者となったが、その間は田沼時代をはるかに上回る空前の賄賂政治が横行したとされる。庶民に「水野出て 元の田沼と なりにけり」と揶揄された。彼の執政時期は、爛熟した化政文化の全盛期であり、将軍職を退いた家斉が放漫な浪費を続けた大御所時代とも称された大量消費時代でもあった。家斉や、その実父の徳川治済一橋徳川家当主)に取り入ることや、子だくさんであった家斉の子の諸大名家への養子縁組の斡旋、のちに天保の改革を行う同族水野氏水野忠邦の登用などが実績として知られる。また、幕府財政の不足を補うために良貨と言われた元文小判を廃して大幅に品位を落とした文政小判を発行した。その結果、貨幣流通量は46%も増加して幕府は550万両にも及ぶ出目(差益収入)を得たものの、激しいインフレを引き起こす原因となった。忠成は主君家斉の放埒を諫めることもなく、収賄と身びいきによる政治を行った政治家として、総じて後世の評価は低い。天保5年(1834年)2月、73歳で死去。三男・忠義が後を継いだ。

経歴

※日付=旧暦

  • 宝暦12年(1762年)12月1日、生誕。
  • 天明5年(1785年)12月8日、従五位下大和守に叙任。
  • 天明6年(1786年)12月18日、水野忠友の養子となる。
  • 享和2年(1802年
  • 享和3年(1803年)8月9日、寺社奉行を兼帯し、出羽守に遷任。
  • 文化3年(1806年
    • 10月12日、若年寄に異動。
    • 12月15日、従四位下に昇叙。
  • 文化9年(1812年)4月4日、側用人に異動。
  • 文化14年(1817年
    • 8月3日、老中格に異動し、側用人を兼帯。奥勤にもなる。
    • 10月15日、侍従兼任。
  • 文政元年(1818年
    • 2月、勝手掛となる。
    • 8月2日、老中に異動。
  • 文政4年(1821年)11月11日、1万石加増。
  • 文政11年(1828年)11月26日、1万石加増。
  • 天保5年(1834年)2月28日、死去。享年73。 法名:(山かんむりに魂)徳院光譽成榮融鑑大居士。 墓所:静岡県沼津市出口町の千本山乘運寺。

田沼家との関係

義父の水野忠友は、元々田沼意次の四男・田沼意正を養子としており、田沼派の中心人物であったが、意正の兄・田沼意知暗殺および将軍徳川家治の死去以降、田沼が急速に失脚する中で、意正の養子縁組を解消・離縁して田沼派から脱し、新たに忠成を婿に迎えた経緯があった。

その後田沼家は没落し、遠江相良5万7,000石から陸奥下村1万石へ減封され、やがて意正が継ぐこととなる。水野忠成は老中となると、田沼意正を若年寄に抜擢し、田沼家を旧領の遠江相良へ復帰させている。

関連項目

参考文献