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中島三郎助

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中島 三郎助なかじま さぶろうすけ文政4年(1821年) - 明治2年5月16日1869年6月25日))は、幕末期の幕臣蝦夷共和国箱館奉行並。諱は永胤。雅号は木鶏。喘息の持病があったという。

経歴

若い頃より勉学に励み、特に砲術を得意としたという。また俳諧、和歌を父・清司より手ほどきを受けたと伝えられている。 天保6年(1835年)、浦賀奉行与力見習となる。天保8年(1837年)、モリソン号事件で砲手を務め、褒美を受けている。 嘉永2年(1849年)、父の番代として、浦賀奉行与力に召抱えられた。

嘉永6年6月(1853年7月)にペリー艦隊(黒船)が日本浦賀沖に来航した際に、副奉行と称して通詞堀達之助を連れて旗艦サスケハナに乗船した。[1]その後、浦賀奉行戸田氏栄ら重役に代わり、香山栄左衛門とともに米国使者の応対を勤めている。 アメリカ側の記録では、船体構造、搭載砲(ペクサン砲およびダールグレン砲)、蒸気機関を入念に調査したことから、密偵のようだと記されている。

ペリー帰国後、阿部正弘に提出した意見書で軍艦の建造と、蒸気船を含む艦隊の設置を主張。嘉永7年(1854年)に完成した日本初の洋式軍艦鳳凰丸の製造掛の中心として活躍し、完成後はその副将に任命された。

安政2年(1855年江戸幕府が新設した長崎海軍伝習所に第一期生として入所、造船学・機関学・航海術を修めた。 帰府後、安政5年(1858年)に築地軍艦操練所教授方出役に任ぜられた。 安政6年(1859年)、浦賀の長川を塞き止めて日本初のドライドックを建設、遣米使節に随行する咸臨丸の修理を行った。 万延元年(1860年)、軍艦操練所教授方頭取手伝出役に進んだが、病気のために文久元年(1862年)出役御免となり、与力に戻った。

元治元年(1864年)に富士見宝蔵番格軍艦頭取出役に任ぜられたものの、再び病気となり、慶応2年(1866年)、出役御免、同年末には与力の職も、長男・中島恒太郎(1848-1869)に譲った。 慶応3年(1867年)に再奉公を命じられ、軍艦組出役、小十人格軍艦役勤方を経て、両番上席軍艦役に進んだ。

慶応4年(1868年)1月に戊辰戦争が勃発すると、海軍副総裁榎本武揚らと行動を共にして同年8月19日に江戸品川沖を脱出、蝦夷地へ渡海し箱館戦争に至った。箱館政権(蝦夷共和国)下では箱館奉行並を勤めた。戦時は本陣前衛の千代ヶ岡陣屋を守備し陣屋隊長として奮戦、箱館市中が新政府軍に占領されたため新政府軍より降伏勧告を受けるもこれを拒否。徹底抗戦を主張した。本陣五稜郭降伏2日前の明治2年(1869年)5月16日、長男恒太郎(22歳)・次男英次郎(19歳)・腹心の柴田伸助(浦賀組同心)と共に戦死。享年49。

俳句

中島は俳人としても知られていたと言う。江戸脱出の際にも一句詠んだ。

  • 乙島(ツバメのこと)や 翌日(あす)はときは(常盤)の 国の春

明治2年(1869年)3月、箱館旧幕府軍追討令が新政府軍より下された事を知った榎本はじめ箱館政権幹部らは、同月14日に咬菜園と言われる当時箱館に名高い庭園で別盃の宴を催した。その際、中島は以下の2つを辞世の句として残したと言う。

  • ほととぎす われも血を吐く 思い哉
  • われもまた 死士と呼ばれん 白牡丹

函館市中島町

中島三郎助父子最後の地碑

昭和6年(1931年)、箱館戦争に散った中島父子を記念して千代ヶ岡陣屋付近の土地が中島町と名付けられた。現在中島町には中島三郎助父子最期の地碑が建っている。

横須賀市浦賀地区

東浦賀町の東林寺が菩提寺である。 明治24年(1891年)、中島の二十三回忌にあたり、中島を慕う地元の人々によって、愛宕山公園に中島三郎助招魂碑が建てられた。またその時、中島の業績を称えて浦賀にドックを建設することを荒井郁之助が提唱、榎本武揚の支援を受け、明治30年(1897年)、浦賀船渠株式会社が設立された。現在、住友重機械工業の合併に伴い閉鎖されているが、中島三郎助まつり・咸臨丸フェスティバルの会場に利用され、横須賀市による整備計画も進められている。

交友関係

親族

  • 父・中島清司永豊は書院番与力・関氏から、代々浦賀組与力を勤める中島家に養子入りした人物で、弘化3年(1846年)アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルとの交渉にあたった。幕府に提出した意見書「愚意上書」で軍艦の建造を主張している。与力に再任されていたが、安政五年(1858年)、三郎助次男、英次郎(1851-1869)に跡を譲った。
  • 三男・中島与曽八佐々倉桐太郎の尽力で、中島恒太郎の跡を継ぐ形で静岡藩三等勤番組となり、家名を残した。長じて海軍機関中将となり、勲一等旭日大綬章を受章している。
  • ペリー来航時、浦賀奉行と称して共に交渉に当たった香山栄左衛門は義弟にあたる。
  • 岡田井蔵は妻すずの実弟であり、中島自身の従弟(父の弟の子)でもある。
  • 三河吉田藩士・穂積清軒(幕府翻訳方を務めた洋学者)は甥(姉の子)である。

関連書籍・作品

脚注

  1. ^ 鳥飼玖美子『ことばが招く国際摩擦』 ジャパンタイムズ、1998年、ISBN 4-7890-0930-0