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伊達宗重

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伊達宗重
時代 江戸時代初期
生誕 元和元年11月5日1615年12月25日
死没 寛文11年3月27日1671年5月6日
改名 伊達虎松丸→天童頼長→伊達宗重
別名 甲斐、信濃、安芸、碧山
戒名 見龍院徳翁収沢大居士
墓所 見龍寺宮城県遠田郡涌谷町
主君 伊達政宗忠宗綱宗綱村
仙台藩
氏族 涌谷伊達氏天童氏→涌谷伊達氏
父母 父:伊達定宗、母:黒木宗俊の娘
養父:天童頼重
兄弟 宗実宗重、女子(伊達宗直正室)
正室:天童頼重の娘
宗元黒木宗信、女子(天童頼次室)、清霄院伊達宗成室)
養子:天童頼次粟野重次の子)
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伊達 宗重(だて むねしげ)は、江戸時代武士仙台藩一門第四席・涌谷伊達氏第2代当主。伊達騒動の主要人物の一人。伊達安芸の名で知られる。

生涯

次男坊から当主に

元和元年(1615年)11月5日、涌谷伊達家初代当主・伊達定宗の次男として生まれる。幼名は虎松丸。涌谷伊達家は、涌谷要害を居城として22,000石を領していた。

虎松丸は成長後、準一家天童氏当主・天童頼重の娘と結婚して婿養子となり、天童甲斐頼長と名乗った。しかし寛永16年(1639年)、世子であった兄・宗実が29歳の若さで死去したため、頼長が実家に呼び戻されて世子となった。この際、仙台藩第2代藩主・伊達忠宗の偏諱を賜って伊達信濃宗重と改名。慶安4年(1651年)、父・定宗の隠居により家督を相続し(定宗は翌年死去)、涌谷伊達家当主代々の仮名・安芸守を称して、伊達安芸宗重と名乗った。

騒動の渦中へ

万治3年(1660年)、第3代藩主・伊達綱宗が幕府から突然隠居を命じられ、綱宗の嫡男で僅か2歳の亀千代が藩主となる。幼君の後見役として一門大名・伊達宗勝(通称・兵部)が任命され、仙台藩政の実権は宗勝と、宗勝一派の家老原田宗輔(通称・甲斐)たちが握ってゆく。宗勝たちの専横を警戒した宗重は、宗勝に書状を送って諫言したが、宗勝は耳を貸さなかったと伝えられる。

仙台藩は地方知行制であり、特に宗重を含む一門は万石単位の知行を領してそれを自らの家中に再分配するなど、半ば独立大名の体をなしていた。初代藩主・伊達政宗の代に仙台藩領の急速な復興が成ったのは、こうした一門各氏の力によるものであった。これに対して、藩主後見人とはいえあくまで代理人の立場である宗勝が、藩内の有力者たちの合議なども行なわず、自らの一派のみで藩政を取り仕切ることは、宗重をはじめとする藩内の有力者たちには容認し難く、藩内は両者の対立により混乱に陥った。こうした中で宗重は、家格・年齢的にも反宗勝派の筆頭格と目されるようになる。

突然の綱宗隠居から5年後の寛文5年(1665年)、宗勝の甥である登米領主・伊達宗倫(通称・式部。一門第五席・知行20,000石)と宗重との間に領地争いがおこる。この諍いは長引き、寛文9年(1669年)秋、宗勝ら藩首脳は宗重と宗倫の争点となっていた地域の3分の2を登米領として裁断を下し、事態の収拾を図ったが、宗重はこの裁定を不服として、翌年藩に再吟味を訴えるが宗勝たちはこれを拒否した。

一方寛文6年(1666年)には、藩主・亀千代の毒殺未遂事件が発生(毒見役が死亡)、更に寛文8年(1668年)、今度は宗勝暗殺計画が発覚し、首謀者・伊東重孝(通称・七十郎)が一家ともども処刑された。こうした一連の騒動の中で宗勝への家中の反感はますます高まっていった。

領地の件などで度重なる冷遇を受け、またかねてから宗勝一派と相容れなかった宗重は、事ここに至り、宗勝一派の一掃のため、仙台藩の現状を幕府に訴える決意を固める。宗重の考えを知った茂庭良元(周防)や片倉景長(小十郎)らは、藩の内紛が幕府に知れれば仙台藩は改易の危機に瀕するとして宗重の上訴を諌止したが、藩の現状を憂い、一門の重鎮として藩政を正したいという宗重の意思は固く、結局寛文10年(1670年)12月、宗重の申し条を記した上訴文が幕府に提出された。この告発を受けて幕府は江戸での詮議を決定し、幕命により宗重は翌寛文11年(1671年)2月2日に涌谷を出発、同月13日、江戸に到着した。

裁きの場での惨劇

寛文11年2月~3月にかけて老中邸などで詮議が行われた。宗重は領地争いでの正当性の主張や、仙台藩の現状などを訴え、その結果仙台から原田宗輔・古内義如(志摩)・柴田朝意(外記)の3家老が召喚され、彼らの証言と宗重の申し条とがあわせて吟味された。3月27日、大老酒井忠清邸にて更に詮議が行われ、宗重・古内・柴田の弁明内容がほぼ一致したと認められたことから、彼らと食い違う原田の弁明が退けられ、宗勝一派の施政が咎められることとなった。不利な立場に立たされた原田は酒井邸控えの間にて背後から突然宗重に斬りつけ、不意をつかれた宗重は負傷しながらも刀を抜いて応戦するが、深手を負ってその場で絶命した。享年57。騒ぎを聞いて駆けつけた古内・柴田が原田を斬り、原田も死亡した。

この事件が世にいう伊達騒動(寛文事件)である。騒動の責めを負って原田家が断絶となったが、当事者であった宗重や原田が判決を前にして死亡したことなどもあって、仙台藩はお咎め無しで終わり、藩領62万石は保たれた。この後、藩内において宗重は忠臣として評価され、涌谷伊達家が特に処分を受けることもなく、涌谷伊達家は宗重の嫡男・宗元が無事に相続している。宗重の江戸行きの発端となった登米領との境界争いについては、宗重の主張に基づいて境界が修正された。

先述のように安芸は涌谷伊達家当主代々の通称であるが、伊達騒動を題材とした山本周五郎の小説『樅の木は残った』で宗重が主要人物のひとりとして描かれ、またこの作品が繰り返し映像化されたことで有名になったことから、単に伊達安芸といえば宗重を指すことが多い。

系譜

〔系図Ⅰ:天童氏との関係〕
     ┏伊達晴宗━━留守政景━━天童頼重━━━女   
     ┃                   ┣━━━━━━女
伊達稙宗━┫           ┏伊達定宗━━天童頼長(宗重)┃
     ┃           ┃              ┣━天童頼真
     ┗亘理元宗━━亘理重宗━┫              ┃
                 ┗粟野重次━━━━━━━━━天童頼次
〔系図Ⅱ:伊達騒動との関係〕         ┏伊達宗勝
     ┏伊達晴宗━━伊達輝宗━━伊達政宗━┫     ┏伊達綱宗━━伊達綱村
     ┃             ┃   ┗伊達忠宗━┫
     ┃             ┃         ┗伊達宗倫
     ┃             ┃    原田宗資
     ┃             ┃     ┣━━━━原田宗輔
伊達稙宗━┫             ┃   ┏━津多
     ┃             ┣━━━┫
     ┃            香の前  ┗亘理宗根
     ┃                   ┣━━━━亘理宗広
     ┃                 ┏━女
     ┗亘理元宗━━亘理重宗━━━━━━━┫
                       ┗伊達定宗━━伊達宗重

演じた役者


先代
伊達定宗
涌谷伊達氏
第2代:1651 - 1671
次代
伊達宗元