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福澤朗

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ふくざわ あきら
福澤 朗
プロフィール
愛称 ジャストミートなど
出身地 日本の旗 日本 東京都新宿区
生年月日 (1963-09-14) 1963年9月14日(60歳)
血液型 O型
最終学歴 早稲田大学第一文学部哲学科教育学専修
所属事務所 イースト
職歴NTVアナウンサー
活動期間 1988年 -
ジャンル 報道・情報・バラエティ
配偶者 あり
公式サイト 所属事務所HP
出演番組・活動
出演中真相報道 バンキシャ!
エンタの神様』など
出演経歴とんねるずの生でダラダラいかせて!!
ズームイン!!朝!
ズームイン!!SUPER
アメリカ横断ウルトラクイズ
全国高等学校クイズ選手権
など

福澤 朗(ふくざわ あきら、1963年9月14日 - )は、イースト所属のフリーアナウンサータレント司会者。元日本テレビアナウンサー。愛称は「ジャストミート(福澤)」、「福澤「ジャストミート」朗」。趣味は卓球競歩(『ザ!鉄腕!DASH!!』(日本テレビ系)内より)。

来歴・人物

東京都新宿区出身。早稲田中・高等学校(卓球部)から1982年早稲田大学に進学。その後、第一文学部哲学科教育学専修を卒業。在学中にはアナウンス研究会に所属し、さらには俳優を目指し、1984年演劇集団 円の研究生となるが、研究所最終年の団員昇格選考で漏れ、役者への道を断念、就職活動を始める。円の研究生時代、フジテレビ系ドラマ『花嫁衣裳は誰が着る』に端役で出演している。1988年に大学を卒業し、アナウンサーとして日テレに入社(福澤に日テレ入社を薦めたのは現取締役専務執行役員の舛方勝宏である)。同期には関谷亜矢子永井美奈子村山喜彦小栗泉(報道局キャスター)がいる。女子アナブームの火付け役となった元フジテレビの八木亜希子とは大学時代からの友人である。

全日本プロレス中継』を務めた際、「ジャストミート!!」(小橋建太ムーンサルトプレス川田利明の顔面蹴りが決まった瞬間)、「ファイヤー!!」(同様に三沢光晴のダイビング・エルボー)を連呼し(早稲田中学・高校時代に、同級生が頻繁に使っていたフレーズ「よしこーし」と同じ抑揚で、この「よしこーし」からヒントを得たという説がある)、また番組内の『プロレス・ニュース』では福沢ジャストミート朗(一度だけ福沢ブラックハーツ朗福澤デストロイヤー朗で登場したこともある)として白い鉢巻をしてコミカルな味を見せ、先輩アナの若林健治(現在はフリー)とは一味違ったプロレスニュースを提供し、時には裏声実況になることでも有名になる。

アメリカ横断ウルトラクイズ』では第15回・第16回(1991年1992年)、『全国高等学校クイズ選手権』では第11回 - 第20回(1991年 - 2000年)の司会を務めた。これらの番組では当時の若さを生かし、臨機応変でスピード感が溢れる進行ぶりを発揮した。そして『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』のレギュラー出演によって、一躍お茶の間の幅広い世代に認知されるようになり、後に『ズームイン!!サタデー』『ズームイン!!朝!』(後に『ズームイン!!SUPER』にリニューアル)の司会にも抜擢された。

クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』は逸見政孝(元フジテレビアナウンサー)から、『ウルトラクイズ』『高校生クイズ』『ズームイン!!朝!』は日テレの大先輩である福留功男から、『摩訶!ジョーシキの穴』は古舘伊知郎(元テレビ朝日アナウンサー)からと、さまざまな番組で先輩アナウンサーから司会を受け継いでいる。

2005年6月30日付で日テレを退職し、翌7月1日付けで番組制作会社のイーストへ移籍した。現在は同社のマネジメント部門である「イーストプロダクション」所属。同日にはニッポン放送ラジオ番組高田文夫のラジオビバリー昼ズ』、7月6日には文化放送のラジオ番組『吉田照美のやる気MANMAN!』の2つの番組でゲスト出演をした。

2005年8月4日、『とんねるずのみなさんのおかげでした』(フジテレビ)の「新・食わず嫌い王決定戦」に出演。これが日テレ以外での初のテレビの仕事となる。また、とんねるずと久々に共演した。

2005年8月27日、『SmaSTATION』(テレビ朝日)にゲストとして出演(この日は裏番組である日テレの『24時間テレビ28』とのコラボレーションを実施)。

2005年9月19日テレビ番組DOORS!』(TBS、18:55 - 22:54放送)で日テレ以外のテレビ局で初の実況を務めた。

2005年12月9日、『さんまのまんま』(関西テレビ)にゲスト出演。

2006年10月からTBS系列平日正午枠として立ち上げた『ピンポン!』の総合司会に抜擢された(なお、日テレの大先輩である徳光和夫や福留功男も、フリー後の最初の仕事はTBSの番組だった。徳光は『クイズダービー』、福留は『仰天!くらべるトラベル』)。

2008年5月5日NHK総合テレビで放送された『ママがのぞいた子どもの時間』で司会を担当し、NHKへの初出演も果たした。

エピソード

  • 早稲田中・高等学校から早稲田大学へと進学した理由は、「福澤」という姓からである。福澤諭吉が創設した慶應義塾大学とはライバル校である早稲田を選んだ。中高とも男子校だったため「大学は女性がいっぱいでパラダイス」等の発言や「男子校だったので性欲が」と言うトークもあった。
  • 1988年に日テレへ入社したため、自らを「昭和最後のアナウンサー」としており、自身の著書の名前にした事もある。
  • 就職活動時フジテレビも受験しており、その際の面接官は後に自らが司会を務めることになる『SHOW by ショーバイ!!』の初代司会者であった逸見政孝だった。しかし、日テレから内定を受けていた福澤はあまり熱心には受験せず、よそ見ばかりしていたため不合格になったという。このエピソードは、彼がフリーになった直後に、大学からの友人である八木亜希子に「私たちは真剣に受けていたのに、福ちゃんは内定があるからってよそ見ばかりして…」と、テレビで発言された(八木も日テレを受験していたが、福澤とは逆に最終面接で不合格となった)。
  • 司会を務めているエンタの神様出演芸人で一番好きなのはインパルスであり単独ライブ終了後の舞台裏に後輩の女子アナと共に訪れている。[1]
  • 全日本プロレス中継の最初の仕事は三冠ヘビー級王座になったジャンボ鶴田インタビューすることだったが、血だるまの鶴田に対して完全に腰が引けていた。
  • かつてテレビ番組で語っていたところによると、日テレ時代、上司の福留功男にどれだけ挨拶しても無視され続けたという。その後福留がフリーになり、福澤が『ウルトラクイズ』『高校生クイズ』を引き継ぎしばらくたって局の廊下ですれ違ったとき、福留のほうから「福澤君、がんばってるねぇ」と言い寄ってきたという。「フリーになると態度が変わりましたねぇ」と若干福留を揶揄した口調であった。
  • 全日本プロレスで絶叫していた「ファイヤー」というフレーズは『高校生クイズ』が原点であった。福澤が初めて担当した第11回(1991年)に、同年から担当する『アメリカ横断ウルトラクイズ』と同様、「ジャストミート」を決め台詞でする方向でいた。しかし、初の地区大会である沖縄大会前日に、スポンサーのライオンから「ジャストミート」禁止令がでた(1991年からの10年間は、番組では一切「ジャストミート」は封印されている)。
    • 理由は、ライバル企業の花王が「ジャスト」という洗剤を発売したため。そこで前任の福留の決め台詞「青春まっさかり、みんな燃えているか」を発展させる形で、「ファイヤー」を決め台詞として使うようになった。後に『高校生クイズ』だけでなく、プロレスや他の番組でも「ファイヤー」を使うことになった。10年間番組の総合司会を経験し、「ファイヤー」を使っていた事から、福澤を紹介する際には、「ファイヤー」で有名とされる傾向がある。
    • 2000年の第20回大会を最後に勇退し、後輩の鈴木崇司に後を託したが、総合司会勇退後の第21回(2001年)全国大会・1回戦で西軍の司会を担当した(東軍の司会は前任の福留が担当)。
  • プロレス技の破壊力を体で実感するために、全日本の道場へ出向いて各種の技をかけられてもいる。
  • 「プロレスニュース」では、そのコミカルさがプロレスファンに逆に嫌われ、苦情の投書や電話が局に殺到。中には脅迫めいたものもあったため、福澤は自己防衛として背広の胸ポケットに厚めの財布を入れ、さらに万が一襲われた際の決定的瞬間を撮るべく、レンズ付きフィルムを常備していた(『週刊プロレス』においてのインタビューにて)。
  • 日テレ在籍時にはエッチトークや変態発言を連発するので「セクハラアナ」と言われる事がたまにある。実際、自分のコラムなどにもエッチなトークが炸裂したり、高校生クイズでも何度もエッチな発言が多かった。アナウンサー紹介ページ(日テレアナウンサールーム)では福澤のセクシートークが書かれている。尚フリー転身後もセクハラまがいの発言もあり、菊川怜が「それは完全にセクハラ発言」と反論している。
  • 日テレ在籍時代、『とんねるずのみなさんのおかげです』の番組内コーナー「博士と助手」のとんねるずVSTHE ALFEEとの卓球対決企画において、観客として観戦に来ていたためフジテレビの番組に映った過去がある(同席者に見栄晴)。これは、とんねるずVSTHE ALFEEの対決の前に「エキシビジョン・マッチ」という形で「福澤朗VSボブ(とんねるずの当時マネージャー)」で一戦が組まれており、そこで2人の卓球対決が行われたためである。そして、試合終了後にそのまま観戦したものと思われる所が映った(放送内ではその件については一切触れられなかった)。
  • パソコンや携帯電話などの扱いが不得意のアナログ人間であり、自称「アナログアナウンサー」と言っている。実際に退社する前も退職届の書き方をホームページで検索するのに苦労していた事(本屋で退職届の書き方等の本を本屋で買えば「あれ!福沢さんじゃありませんか」と言われるので書籍を購入せずにホームページで検索を試みた、)や、舞台の脚本をパソコンを使わずに原稿用紙に手書きで書いたと言っていた。今でも自分専用の携帯電話は所持しておらず、妻の携帯電話を兼用している。また、「いい塩梅ですね」や「ご唱和ください」など昭和風な古い言い回しを多用する。
  • 風邪予防のためのうがいの仕方に拘りがある。
  • 妻は香川県小豆島出身で、元全日空のキャビンアテンダント。そのためか、番組などでさぬきうどんの話題があるとうんちくを語ることがあった。
    • 尚福澤が所属しているイーストは偶然にも全日空(ANA)が放送局・広告代理店以外での主要株主であり、更にANAの国内線・国際線で放映しているANAトラベルナビゲーターの番組制作はイーストが担当している。[1]
  • DOORS』、『DOORS 2006』、『DOORS 2007』、『DOORS 2008』で独特の決めゼリフ「君に幸あれ」「ビビデバビデブー」「ウェルダン」を披露。「ビビデバビデブー」は映画『シンデレラ』での歌「ビビディ・バビディ・ブー」から。「ウェルダン」はよくできましたの意味。
  • フリー独立後は、司会を務める番組での不祥事・打ち切りや視聴率低迷が続いた。『ぴーかんバディ』(TBS系)と『人間!これでいいのだ』(TBS系)は健康被害ややらせ演出で打ち切られ、『ピンポン!』(TBS系)では、盗聴依頼問題などで、総合司会者という立場は総合責任者という意味も背負うとの独断から、番組を代表しての謝罪を行う[2]も、番組、局側のフォローはなく[3]自民党舛添要一厚生労働大臣に対する偏向報道および出演依頼ねつ造では、福澤本人ではなく局アナに代理謝罪させるなど、一貫性のない対応で批判を浴びた。
  • 根っからの鉄道ファンで、『さんまのまんま』出演時には明石家さんま奈良県出身ということで、奈良県を走る近畿日本鉄道鉄道模型車両を持ち込んで披露していた。『鉄腕!DASH!!』に福澤が出演していた際、電車ネタの企画が多かった点や高校生クイズの地方大会で列車を使う点や第20回の全国大会(ミステリー列車)もそれが関係していたためとされている。フリーになったばかりのころ、『おしゃれイズム』に出演した際、番組からのプレゼントとして福澤の顔写真がプリントされたプラレールがプレゼントされた。
  • 水泳コーチで北島康介らを指導している平井伯昌は、高校の同級生。

出演

フリー転向後

テレビ


ラジオ


CM

日本テレビ時代

CM

舞台

日テレの後輩アナウンサーを集めて2004年、「福澤一座」を結成。自ら書き下ろした脚本で演出も手がけ、演劇集団キャラメルボックスの協力で上演にこぎつけた。

司会進行

著書

  • 『麹町の翔んだいっぱい喰わせ者』(日本テレビ・1992年10月・ISBN 978-4820392378
  • 『ジャストミートは目で殺す』(ぴあ・1993年11月)
  • 『昭和最後のアナウンサー』(弘文堂・2003年10月・ISBN 978-4335950346

脚注

  1. ^ DVD インパルス「球根」特典映像より
  2. ^ 福澤アナ「当番組の暴挙」 TBS「盗聴」で涙の謝罪
  3. ^ 福澤アナよ!約束はどうした 「盗聴」謝罪ウソだったのか

関連項目

外部リンク

先代
-
とんねるずの生でダラダラいかせて!! 進行役
初代
(1991年10月 - 1998年7月)
次代
矢島学
先代
逸見政孝
クイズ世界はSHOW by ショーバイ!! 司会者
2代目
1994年3月 - 1996年9月)
次代
(放送終了)