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ウィリアム・ブース

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ウィリアム・ブース
(1829 -1912)

ウィリアム・ブース英語:William Booth1829年4月10日 -1912年8月20日) は、イギリスメソジスト説教者救世軍の創立者にして初代大将(在任期間1878年-1912年)。

このキリスト教運動は1865年ロンドンで創立され、世界中に広まった。軍隊式の組織を持っているのが特徴であるが、物質的な武器に寄らずに、運動を広めていった。

救世軍は今日、世界でも最大規模の人道援助の事業団体の一つとして知られている。

生い立ち

英国ノッチンガム市に生まれる。父は家屋建築士にして腕一本にて稼ぎ出し、一時多少の財産を得たが、まもなく相場に類することを為し、失敗してその全財産を失い、ブース13歳の時、極貧のうちに死んだ。

母は気丈の女であり、父の死後、ブースと二人の姉妹と合わせて三人の子供を養育したばかりか、後には多少、父の失った財産を回復したほどの働き者であり、慈善の心も深く、一人の乞食も空しくは門を過ぎ去らせることがなかった。

ブースは後年「余は父よりも母の感化を受けたり。」と語った。

ブース14歳の時のことである。彼は一夜同じ小僧仲間と散歩に出て、図らずもジョン・ウェスレー派の教会の前に来た。多くの人の教会へと急ぐに連れ込まれて、実は冷やかし半分で会堂に入り、アイザック・マースデンの説教を聞く。マースデンは当時有名な説教者であった。説教で「時計の音のコチコチいう間にも、世界のいずこかに永遠に向かって旅立ち、その平常の罪悪ゆえに地獄に落ちる人あり」と警告をあたえた。ブースはこの説教を聞いていたく感動し、彼がキリストに救われる土台が築かれた。

翌年、米国人の巡回伝道者であるジェームズ・カウエー来たり、ノッティンガム市にて説教した。カウエーは当時有名なリバイバリストにて、いたる所において多くの人々を悔い改めに導いていた。ブースは彼の説教を聞いて雷火に打たれたるが如く感動し、即時悔い改めて信仰に入った。マースデンが昨年蒔いた種は、カウエーによりて完成された。

彼がこの時に受けた霊感はまことに異常のものであり、彼の心は心の奥より変えられた。

ロンドンにマムホルド・キャサリンという娘がいた。彼女は1829年1月17日生れである。その父はメソジストの伝道師を勤めたことのある人であった。カザリンは12歳にして少年禁酒会の書記を勤めたが、罪から救われたとの自覚を持ったのは16歳の時であった。

キャサリンは19歳の時からメソジスト改革派に属していたが、ブースの説教を聞く機会があった。数日後にブースはカザリンにラビッツの家にて正式に紹介され、1852年5月15日に婚約した。ブースもキャサリンも23歳であったが、キャサリンはブースより3ヶ月年上である。爾来3年の長き間二人は許婚の間柄として清き交際を続け、1855年6月15日ストックウェル新会堂にて結婚式を挙げた。

救世軍の起源

1865年7月2日ブースは12有志の招きに応じて始め東部の貧民窟に入る。最初の予定は単に向かう数週間、この地に別の救霊運動を為さんとする目的であって、これが救世軍の起源となるとは、他人はもちろんブース自らも思っても見なかった。しかし、この救霊運動の最中、一夜ブースは居酒屋の前を通り、この所に集まった人々の有様を目撃し、彼らが最も救いを必要とする人々であり、これら無頼漢、堕落婦人のために一身を献ぜざるべからずと感じ、帰って妻にその由を語り、遂にこの貧民窟にとどまってながく彼らの霊魂のために働こうという決心を為した。ブースが36歳の時である。

ブース夫人はロンドン中の最も大きな会場にてしばしば特別の大集会を開き、上流階級、中流階級の人々を集めてブースの東部ロンドンの貧民窟における働きを紹介し、同情者は増加した。ブースは新しい教派を形成するつもりはなかったが、上中流の教会に貧民の回心者を紹介しても、喜んでは受け入れず、受け入れても十分その者の世話をしなかった。またブースの伝道に協力する者が必要であったので、やむなく東ロンドン伝道会を組織した。

著書

伝記

外部リンク