水木しげる
水木 しげる | |
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水木しげる記念館 水木しげるの看板 水木しげる記念館 水木しげるの看板 | |
本名 |
武良 茂 むら しげる |
生誕 |
1922年3月8日(102歳) 鳥取県境港市 (大阪府大阪市住吉区生まれ) |
国籍 | 日本 |
職業 | 漫画家・妖怪研究家 |
活動期間 | 1950年 - |
ジャンル | 妖怪漫画、戦争漫画 |
代表作 |
『ゲゲゲの鬼太郎』 『河童の三平』 『悪魔くん』 『のんのんばあとオレ』 |
受賞 |
第6回講談社児童漫画賞 (『テレビくん』) 第13回講談社漫画賞(『昭和史』) 第34回アングレーム国際漫画祭最優秀作品賞(『のんのんばあとオレ』) 第25回日本漫画家協会賞文部大臣賞 第29回星雲賞アート部門 第7回手塚治虫文化賞特別賞 第5回織部賞グランプリ 紫綬褒章、旭日小綬章等 |
公式サイト | http://www.mizukipro.com/ |
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水木 しげる(みずき しげる、本名:武良 茂(むら しげる)、男性、1922年3月8日 - )は、日本の漫画家。鳥取県境港市出身。東京都調布市在住。ペンネームは、紙芝居作家時代に、当時経営していたアパート「水木荘」から周りに名付けられた。
兵隊として戦争を体験したのち、終戦後より紙芝居、貸本漫画などを執筆。1964年に『ガロ』にて商業誌デビューし、妖怪を扱った作品により人気作家となる。代表作『ゲゲゲの鬼太郎』は5度TVアニメ化。2007年、『のんのんばあとオレ』によりフランス・アングレーム国際漫画祭で日本人初の最優秀作品賞を受賞。また妖怪研究家として、世界妖怪協会会長、日本民俗学会会員、民族芸術学会評議委員などを歴任、調布市名誉市民にも選ばれている。水木しげる記念館は境港市にある。
生涯
生い立ち
大阪府西成郡粉浜村(現・大阪市住吉区)で父・武良亮一、母・琴江の次男として生まれた。父・亮一は大阪で勤め人をしていたが、共同経営者とともに農機具を輸入販売する会社を興すことになり、妻子をいったん故郷の鳥取県西伯郡境町入船町(現・境港市)に帰した。茂が2歳ぐらいのときだった。だが父は、その後間もなく、事業に失敗して帰郷。新たな職を得て一家はここに落ち着くことになった[1]
茂は幼少時代、「死」に興味を抱き、弟を海に突き落とそうとするが、近所の大人に見つかり、両親にしかられた上に、当時同居していた「ねーこ」と呼ばれる祖父の妹に「やいと(灸)」をすえられた[2]。
恵まれた環境で育つが学校の勉強はできる方ではなく、両親は小学校入学を1年遅らせる。自身も認める超マイペースぶりから朝寝坊してゆっくり朝食をとり、たいてい2時間目くらいの時間から登校するという変わった生徒だった。当時、「新聞の題字を集める」のが子供たちの間で流行ったが、他の子供が飽きても熱中していた。また、屁を自在に出すことができ、朝礼のおりなどに放屁して子供たちをワッと笑わせるのが得意だった。
高等小学校卒業後、大阪の石版印刷会社に勤めるも、やはりマイペースが過ぎて2ヶ月でクビになった。絵の勉強をしようと思い立ち精華美術学院に入るが中退。東京美術学校(現在の東京藝術大学)の受験資格を得るため大阪府立園芸学校を受験するが失敗。新聞販売店に住み込み、工業学校の採鉱科に合格するが半年で退学になる。新聞販売店を辞め中之島洋画研究所に通いデッサンを集中的に学ぶ。
軍隊時代
やがて太平洋戦争が始まる。「召集されれば死だ」と考えた茂は、「人生の意味」を求めるため、哲学書や宗教書などを濫読する。その中で、一番気に入ったのが、ヨハン・エッカーマン『ゲーテとの対話』で、戦地にも持っていった。ゲーテにはその後も心酔し続けており、「自分の生き方の基本はゲーテ」と語っている。
召集令状を受け取った茂は、鳥取歩兵第四〇連隊に入営した。ラッパ手を命じられたが信号ラッパがどうしても上手く吹けず、転科を願い出たところ、歩兵として南方行きが決定した。
1943年10月、その後の人生に大きく影響したニューブリテン島ラバウルへ岐阜連隊・歩兵第二二九連隊(連隊長に平田源次郎大佐)の補充要員として出征する(当時21歳)。乗船したのは日本海海戦で「敵艦見ユ」を打電した老朽船・信濃丸だった。ラバウルへ向かう途中敵潜水艦に襲われたものの、なんとか無傷で現地に上陸する。このニューブリテン島での戦争体験がその後の水木作品に影響を与えた。装備も作戦も優れた連合軍の前に、所属する臨時歩兵第二二九連隊支隊長の成瀬懿民少佐は玉砕の命令を出すが、水木が所属していた第二中隊長の児玉清三中尉の機転で遊撃戦(ゲリラ戦)に転じ、そのおかげで生命を拾うこととなる。児玉はその後自決した。
その後、水木はマラリアを発症し、死線をさまよう。さらに療養中に敵機の爆撃を受けて左腕に重傷を負い、軍医によって麻酔のない状態で左腕切断手術を受けた。だがマラリアも負傷も快復して終戦を迎え、九死に一生を得て駆逐艦・雪風で日本本土へ復員できた。
片腕を失ったことに対して水木は、「私は片腕がなくても他人の3倍は仕事をしてきた。もし両腕があったら、他人の6倍は働けただろう」と語り、「左腕を失ったことを悲しいと思ったことはありますか」という問いには「思ったことはない。命を失うより片腕をなくしても生きている方が価値がある」と答えている。
従軍中の事象は『水木しげるのラバウル戦記』に詳しい。
紙芝居作家時代
終戦後、武蔵野美術学校(現在の武蔵野美術大学)に入学する。魚屋などを経て、東北に復員兵救済募金旅行をするうちに中退。募金旅行の途中で立ち寄った神戸市兵庫区水木通のアパートで家主に持ちかけられた話に乗り、借金の肩代わりを条件にこのアパート「水木荘」を譲り受け、貸家経営を始める。
アパートの住人に紙芝居作家がいたことから、紙芝居の語り手として名人だった鈴木勝丸の阪神画報社に所属し、また加太こうじを紹介され、紙芝居作家として作品を描く。ペンネームの「水木しげる」は、鈴木が本名を覚えてくれず、いつまで経っても「水木さん」「水木さん」と自身を呼ぶため、それに従ってつけた。貸家経営も紙芝居も次第にジリ貧となり、経済的に逼迫した毎日が続く。この頃すでに、『墓場の鬼太郎』『河童の三平』を描いているが、紙芝居は使い捨てで「後世に残す」という部類のものではなかったため、水木の紙芝居作品は現存していない。
貸本作家時代
その後、昭和30年代になると貸本漫画の流行で紙芝居が廃れたことからアパートを整理して上京し、貸本漫画家に転身。各地を転々としていたが、調布市に家を買い、現在もその地に住んでいる。
貸本時代の水木は、主に戦記物漫画や怪奇系漫画を描いたが、他にもSF、ギャグ漫画、少女漫画、時代劇などの多彩なジャンルを、さまざまなタッチで描き分けている。また、この頃の画風には、海外の幻想的な絵画やアメリカン・コミックスの影響が大きい。また、ストーリーは翻訳された海外の短編小説から大きな影響を受けている。劇画の草分け的存在、小松崎茂が、水木の困窮を気の毒に思って経済的に多少の援助をしたこともあった。
しかし貸本業界も零細産業であり、頼りの原稿料を反故にされたり、版元の倒産のため全く稿料がもらえなかったということもざらだった。また、当時の水木の漫画には、マニアックな読者には人気だったが、一般読者には人気がなく、そのため事前の約束より原稿料を値切られることもしばしばだった。
『墓場鬼太郎』の一編「亀男の巻」は版元倒産のどさくさで出版もされずに原稿が紛失してしまっている。
あまりの貧しさに、訪れた税務署員は「こんなに収入が少ないワケがないでしょう?」と疑ったが、水木は「われわれの生活が、キサマらにわかるか!」と怒って追い返した。この時代に描かれた『貸本版・悪魔くん』の「この間違っている世の中を倒して、革命を起こす」という過激な思想は、当時の水木の「懸命に働いても貧乏が続く」自身の生活の悲しみと憤りから発している[3]。
結婚
なお、この貧乏生活のさなか、すでに40歳近い水木を心配する両親の強い薦めで、島根県安来市出身の布枝夫人と見合いで結婚した。間に立ったのは布枝夫人の叔父(夫人の母の弟)で、その叔父のつれあいの実家が武良家の遠縁だった[4]。
見合いから結婚式までわずか5日というスピード婚だった[5]。式場は米子の灘町後藤のお屋敷[6]だった。なお、見合いから結婚式の間、水木は母親の厳命で、左手に義手をつけていた。だが、本人は義手が大嫌いだったため、それ以降、義手をつけることはなかった。
夫人は上京して、水木のあまりの貧乏生活に驚く。水木は両親にさえ、自分の貧しさを隠していたため、見合いの際は、「東京でそれなりの暮らし」と偽っていた。だが、夫人は水木の非常に熱心な仕事ぶりを見るうち、次第に尊敬の念が湧き、器用だったため漫画のアシスタント役もこなした(『墓場鬼太郎』など)。また、夫婦で「連合艦隊の再現」を目指して「軍艦の模型作り」を楽しんだりもした。
人気漫画家となる
長女が生まれて生活がさらに困窮し、水木家は大変なピンチだった。しかし、長い貸本作家としての活動を経て、1964年、長井勝一編集の雑誌『ガロ』創刊号で、漫画家として雑誌デビュー。『ガロ』には『鬼太郎夜話』(鬼太郎シリーズ)、忍者モノのパロディ『忍法屁話』、本名の武良しげる名義での「漫画家講座」などを連載した。当時の『ガロ』は“白土三平の『カムイ伝』を載せるための雑誌”だったが、水木のユーモラスな作品も、読者の人気を呼んだ。
1965年には『別冊・少年マガジン』に掲載された『テレビくん』が、講談社児童漫画賞を受賞。40歳を過ぎて初めて、人気作家となる。なお、貸本時代の絵柄から、「子ども向けのかわいい絵柄」に変えるのに、非常に努力したという[7]。
その後、『悪魔くん』や『墓場の鬼太郎』(鬼太郎シリーズ)、『河童の三平』など主に妖怪が登場する漫画を発表し、妖怪漫画の第一人者となる。水木の作品の影響で、漫画、TV、映画の世界は一大妖怪ブームとなる。また民俗学での専門用語だった「妖怪」が、一般に伝わる経緯ともなった。また、『少年マガジン』で「大図解」を担当していた大伴昌司も、水木の妖怪画に惚れ込み、何度も妖怪についての特集を組んでいる。
初めてまともな原稿料が入るようになり、またアシスタントを多数使えるようになったため、水木漫画おなじみの「点描が非常に多い濃厚な背景」を描けるようになった。銅版画を思わせる「絵画的な背景」の前に簡素な線で描かれた「漫画的なキャラクター」が配されるという組み合わせは、水木が発明した非常にユニークなものである。
その後は鬼太郎シリーズの5回にわたるテレビアニメ化(『ゲゲゲの鬼太郎』)などで収入も生活も安定し、執筆ペースはさすがに衰えたものの80歳を超えた現在も健在である。
なお1980年代初期には、低迷期もあった。水木家では、夫人が「自分が働きに出ようか」と提案するほどのピンチだったという。水木は自信を失い、「妖怪なんていないんだ」と言い出すほどの落ち込みぶりだった。だが、次女が修学旅行で「目々連」を目撃し、その話をしたところ、水木は喜んで立ち直ったという[8]。そして、1985年の鬼太郎の再アニメ化と、『のんのんばあとオレ』『昭和史』などの自伝的な作品で水木自身の特異なキャラクターと、昭和の歴史を生きてきたその数奇な人生が知られるようになったことで、再ブームを巻き起こし現在に至っている。
また、貸本時代の作品も何度も復刻され、『墓場鬼太郎』などは文庫化までされ、さらにアニメ化までされた。ただし、復刻されていない作品や絶版作品も多く、古書として高値を呼んでいる。
妖怪研究家として
1970年に『水木しげる妖怪画集』を刊行。その後も、子供向けの「妖怪図鑑」の類を多数執筆。なお、「子泣き爺」「砂かけ婆」「ぬりかべ」「一反木綿」などは、水木によって初めて姿が描かれたものであり、現在の日本人が持つ「妖怪」イメージは、水木の漫画から大きく影響を受けている。ただし、2007年8月に、妖怪研究家の湯本豪一が保有する江戸時代の絵巻に描かれた「四角い犬のような妖怪」が、米国ブリガム・ヤング大学の図書館にあるものと符合され、「ぬりかべ」の絵と判明した。
1980年代には『水木しげるの妖怪事典 正・続』、『水木しげるの世界妖怪事典』などを発表。さらに、1992年には『カラー版 妖怪画談』を岩波新書から刊行して話題となる。
有名な江戸時代の妖怪出現事件である『稲生物怪録』についても、『木槌の誘い』として漫画化している。
また、水木の周囲に、妖怪好きの人々たちが集まってきたことから、1995年に世界妖怪協会を設立して会長となる。会員は、荒俣宏、京極夏彦、多田克己ら。1996年には、「世界妖怪会議」が開催され、以降、毎年夏に行われている。また、角川書店から1997年に世界妖怪協会公認の妖怪マガジン『怪』が刊行開始。水木も漫画を執筆している。
それらの「妖怪好き」の人々たちや、ノンフィクション・ライターの大泉実成らと、アフリカ・マリ共和国のドゴン族、マレーシアの夢を自由に見られるセノイ族、オーストラリアのアボリジニ、メキシコのインディオたちの村、アメリカの先住民・ホピ族の村など、世界のあちこちに「冒険旅行」と称したフィールド・ワークに行き、各地のスピリチュアル文化に触れて「妖怪を感じて」いる。
なお、祭りなどがあると録音やビデオ撮影をして、自宅で何度も鑑賞をしている。また、仮面などを購入し、自宅に展示している。
また、大泉実成『水木しげるの大冒険』によると、マレーシアのジャングルで、現地人に『水木しげるの妖怪画集』を見せたところ、「これは知っている」「これも知っている」と、猛烈な反応があった。その結果として水木は、「世界の妖怪は1000種類に集約される。世界各地の妖怪はほぼ共通している」という「妖怪千体説」を唱えた。
2005年に、かつての大映映画のリメイク映画『妖怪大戦争』が製作された時、妖怪の長役として出演した。
『怪』連載の『神秘家列伝』など、妖怪が直接登場する作品を手がける機会は少なくなっていたが、映画に合わせて久しぶりに新作妖怪漫画『妖怪大戦争』(荒俣宏原作)を発表した。
のんのんばあと水木
のんのんばあとは彼がべビィ(水木語で“子供”の意味)の頃、武良家に手伝いに来ていた景山ふさという老婆のことである。当時の鳥取では神仏に仕える人を「のんのんさん」と言っていたという。ふさは子供たちを集めてはお化けや妖怪や地獄の話をしてくれた。彼女の話す妖怪などの話に水木は強い影響を受け、後の水木漫画の原点となった。水木は「この小柄なおばあさんが私の生涯を決めたといっても過言ではない」と述べている[9]。ふさは水木に“もうひとつの世界”を教えてくれたという。ふさは水木が小学5年生の時に死去した。
幼少時代の彼は自分の名前を正確に発声できず「げげる」と言っていたため、「ゲゲ」があだ名となった。後に水木はそのあだ名がアニメ『ゲゲゲの鬼太郎』のタイトルの原点となったと語っている。『のんのんばあとオレ』には、幼少期の水木の様子が生き生きと描かれている。同作品はNHKで実写ドラマとなって放映された。
戦争と水木
戦争を主題とした水木の漫画・著作は多く、彼の代表作のひとつとなっている『昭和史』も戦争が大きなテーマであり、また貸本時代から描いている戦記漫画が多数ある。なお、水木はその他にも、歴史上の人物の伝記漫画、SFやミステリー作品など、多彩な作品を発表している。
戦記マンガ『総員玉砕せよ!』は9割以上実体験であると語るほど水木自身の思い入れが強い作品。2007年8月12日にはNHKスペシャルの終戦記念日関連特番として『総員玉砕せよ!』を原作としたドラマ『鬼太郎が見た玉砕 〜水木しげるの戦争〜』が放送された。
水木は戦中現地でマラリア熱で倒れ、衰弱による栄養失調状態に陥っていたところを現地住民に助けられたことがある。腕を失ってからも、彼らの助けで生活したという。そこでの彼への待遇は最上級のものであり、敗戦後、上官であり後の国立加古川病院名誉院長となる砂原勝己軍医大尉に現地除隊を申し込むほどだった(加古川病院は現在、財団法人甲南病院・加古川病院に名称変更)。砂原は2004年1月28日に逝去したが、1999年7月26日に放送された『驚きももの木20世紀』では晩年の砂原がニューギニアでの水木のことを詳しく語っており、非常に印象深い患者だったことが分かる。水木は彼らを指して「土人」と呼んでいる。近年では土人という用語は差別用語と見なされるようになっているが、水木はそれも承知の上で土と共に生きる人、大地の民という意味合いで親しみを込めて使用している。
また、貸本漫画家時代の一時期、戦記ものを集めた雑誌を主宰していたが、熱心な極わずかな購読者を別にすると売り上げはさほどでもなかった。その頃、『大空のサムライ』を出版したばかりの坂井三郎に「戦記ものは、勝った内容じゃないといけない(=売れない)」というアドバイスを貰った。しかし、開戦から暫く零戦を駆って敵戦闘機を撃墜する勝ち戦を続けガダルカナル島戦初日に重傷を負って実質そこで戦場生活が終わり、結果的にラバウルでの地獄の時期を経験することは無かった坂井に対し、圧倒的な武力の連合軍の前に敗戦への地獄道と化した戦場下を体験した水木とでは実体験が正反対だったが故に水木にはそのような話を描くことは不可能だった。ほどなく、主宰していた雑誌は潰れた[10]。
『総員玉砕せよ!』やインタビューに分かる通り、叩き上げの軍人であろうと死んでいった戦友を哀れむ態度を取っている。「近年自殺者が増えていることに対してどう思うか」との問いには「彼らは死ぬのが幸せなのだから(自分の好きで死ぬのだから)死なせてやればいい。どうして止めるんですか。彼ら(軍人達)は生きたくても生きられなかったんです。」と答えた[11]。
水木の人柄・性格など
現在の一人称は“私”や“僕”ではなく「水木サン」である。昔からそうだった訳ではなく“私”や“僕”、“俺”を使っていたこともある(実写版『悪魔くん』のプロデューサーによると、水木は“自分”という一人称を使うことが印象深いとコメントしていた。妻の布枝の著書によると、「漫画家・水木しげる」を演じるために使っているようで、家族に見せる顔と、ファン・編集者らに見せる顔は違うという)。
「私は胃が丈夫だった」と称し、幼少時から大食漢であり、“ズイダ”というあだ名(地方弁で「何でも食べる浅ましい者」という意味)を頂戴していた。そのため、戦中、戦後の食料不足の際は、非常に辛い思いをしたという。80才を過ぎた現在も食欲は非常に旺盛で、また失った左腕以外には特に病気もなく健康そのものという。水木プロダクションの公式サイトである「げげげ通信」では、2008年4月の昼食に「メガマック」とポテトを完食し、2010年1月にも2日に「ドミノピザ」と3日に「ケンタッキーフライドチキン」や「ベーコンレタスバーガー」を平らげる姿が紹介された。
ビートたけしとは非常に仲が良く、「ビートたけしのTVタックル」にも数回出演しており番組内で互いにどつき漫才を交えながら討論を行っている。
座談が面白いことで有名で、多忙な水木のため、水木プロには「面談30分」という貼り紙があったが、水木自身がそれを無視して来客と何時間も、会話を楽しんでいたという。なお、テレビに出演してトークをしたことがあるが、ダイナミックに左右に体を動かして話すため、テレビのフレームからはみ出して喋っていたこともある。
自身を漫画のキャラとして登場させることが多いが、『昭和史』のような自伝的作品を除いて、「左手はある」ように描かれている。また水木の自画像は「現在の顔」と比べると細長く描かれているが、実際に貸本漫画家時代の水木は、十分な食事が取れないこともあって、やせて細い顔をしていた。
初期の作品には、海外の短編小説等からストーリーを転載したものが多かったが、著作権に対する認識が浸透していない時代であり、問題とはならなかった。ただし、1966年に朝日ソノラマから刊行された『猫又』に収録された短編「太郎稲荷」は、星新一作品とのストーリーの類似が指摘され、水木は盗作を認めて謝罪し、朝日ソノラマが和解金を星に支払い、単行本『猫又』は「太郎稲荷」が削除された版が刊行された[12]。
家を改築するのが好きで、気が向くままに自宅を改築した結果、トイレ5つ、風呂場3つ、階段5ヶ所の2階建て、しかも3階がある部分もあるという迷路のような家になってしまったという。そのせいか、『東西奇ッ怪紳士録』には「二笑亭主人」「フランスの妖怪城」(郵便配達夫シュヴァルの理想宮)の建築道楽の2篇が収録されている。
売れない貸本漫画家時代から、膨大な「絵についての資料」をスクラップ・ブックにしてコレクションしていた(貸本漫画家時代は100冊。現在は300冊を超えるという)。また、「ハヤカワ・ミステリ」などの書籍も「ネタになる」と、多数購入していた。妖怪関連書も神保町の古本屋で、古いものまで集めていた。それを見た桜井昌一は、「この人は絶対、世に出る」と感じたという。のちに、若き時代の呉智英などが、その資料の整理を手伝った。
有名な言葉に「なまけものになりなさい」がある。しばしば、「現代人は働きすぎである」という意味と誤解されるが、実際は、「自分自身に言っている言葉」ということで、「働かなくても生活していけるだけ稼げ」というのが本当の意味である(朝日新聞より)。
境港市・調布市と水木
故郷の鳥取県境港市に「水木しげるロード」がある。ロードに沿って妖怪オブジェが並び、水木ロード郵便局(既存局を改称)もある。なお、境港郵便局をはじめ市内7郵便局の風景印は全て鬼太朗らのキャラクターがデザインされている。
設置されていた86体の妖怪を100体にするために1体100万円としてスポンサーを募集し、2009年現在、合計120体となった。このオブジェの「目玉の親父」は度々盗難に遭うため現在は台座に固定されている。合わせて「水木しげる記念館」も開館している。また同市では世界妖怪協会による「世界妖怪会議」の第1回、第2回も開かれた。
米子駅と境港駅を結ぶJR境線では「鬼太郎列車」が運行されている。また、同線の沿線16駅には「ねずみ男駅」(米子駅)「鬼太郎駅」(境港駅)の他、全国各地の妖怪をモチーフにした愛称が付与されている。
境港市の観光協会による「第1回妖怪人気投票」で3位になっている。荒俣をはじめとする研究家やファンの間でも「水木先生自身が(半ば)妖怪(と化している)」という見方をするものは少なくない。
2007年3月22日、妖怪のブロンズ像が並ぶ「水木しげるロード」の振興に役立てて欲しいと水木プロダクションは境港市に2000万円を寄付した。水木プロは2004年にも200万円を市に寄付している[13]。
50年近く住んでいる東京都調布市には、「ゲゲゲの鬼太郎」のキャラクターが車体に描かれた鬼太郎バスが3路線運行されている。
2003年10月には「深大寺そば」で有名な調布市深大寺の門前に「鬼太郎茶屋・深大寺店」が開店した。「妖怪舎」(株式会社きさらぎ。本社:鳥取県境港市)が営業している。なお、元祖「鬼太郎茶屋」は境港の「水木しげるロード」内にあり、経営等は無関係。境港の「本店」店長は「鬼太郎音頭」の作詞者である。
水木が住む京王線調布駅北口の天神通り商店街にはゲゲゲの鬼太郎を始めとする代表的な妖怪のオブジェが並んでいる。商店街入り口の目印は街灯に腰掛けた鬼太郎。
略年譜
- 3月8日 - 大阪府西成郡粉浜村(現・大阪市住吉区)に武良亮一・琴江の二男として生まれる。生後まもなく父の故郷である鳥取県西伯郡境町(現・境港市入船町)に戻る。
- 本籍地は鳥取県西伯郡境町(現・境港市)
- 祖父の代からまかない婦として武良家に出入りしていた景山ふさ(のんのんばあ)に可愛がられ強い影響を受ける。
- 3月 - 境港小学校高等科卒業。大阪の石版印刷会社に入社するが2ヶ月で解雇になる。大阪の親類の紹介で中村版画社に入社するがこれもすぐに解雇になる。
- 精華美術学院に入学。
- 大阪府立園芸高校を受験(定員50名受験者51名)するが水木1人だけ不合格。松下電器守口工場に職工として就職するがわずか2日で解雇され、その後は西淀川区の毎日新聞配達所に住み込みで新聞配達の仕事を始める。
- 働きながら日本鉱業学校採掘科に合格し入学するが半年で退学する。
- 日本大学付属大阪夜間中学(現・大阪学園大阪高等学校)に入学。
- 爆撃により左腕を失う。ニューギニアの病院で療養し、現地人のトライ族(水木いわく「土人」)たちと仲良くなる。
- 敗戦。水木は現地人たちと仲良くなっていたため、「現地除隊」を申し出るが、説得され断念する。
- 武蔵野美術学校に入学。輪タク業を営む。
- 神戸で、のちにペンネームとなる「水木荘」というアパートの経営者になる。
- アパートの住人のつてで、紙芝居画家となる。
- 単身上京し、亀戸に下宿する。貸本漫画の処女作となる『ロケットマン』を2ヶ月かけて12月4日に完成させる。
- 2月 - デビュー作『ロケットマン』を兎月書房から刊行。
- 『少年戦記』の売れ行きが上々ゆえに兎月書房から水木が新たに責任編集したSF専門誌宇宙少年と怪奇専門誌『妖奇伝』が新創刊された。前者には『ベビーZ水人間現る』を後者には鬼太郎の誕生編を描いた第一話『幽霊一家』第二話『幽霊一家・墓場鬼太郎』を発表。
- 東考社より、『悪魔くん』刊行。『ガロ』で雑誌デビュー。
- 講談社の『別冊少年マガジン』でメジャー出版社デビュー。それまでの、大人向けの怪奇な画風から、子供向けの画風にするのに苦労したという。
- 講談社児童漫画賞受賞。44歳にしてようやく、売れっ子漫画家になる。プロダクション制をとり調布の自宅を水木プロとする。
- 10月 - 『悪魔くん』が実写でテレビドラマ化。最初の放送は、実家の両親も上京して一緒に正座してテレビを鑑賞し、感激して番組終了後は拍手をしたという。
- 『墓場の鬼太郎』を当時の東映テレビ部長であった渡邊亮徳(元東映副社長)等のアドヴァイスにより『ゲゲゲの鬼太郎』と改名することで、スポンサーが了解して、テレビアニメ放映開始。この時も、初回放送は一家で正座して鑑賞し、終了後拍手をしたという。以降、何度もリメイクを繰り返す長寿シリーズとなる。この辺りのエピソードは、ゲゲゲの女房 に書かれている。
- 『ゲゲゲの鬼太郎』が二度目のアニメ化。また、偶然再会した元上官の宮軍曹や戦友の石橋と3人で、26年ぶりにパプアニューギニアを訪れ、現地人たちと再会する。以降、何度もニューギニアを訪れ、「ニューギニアに移住したい」と言うまでに惚れ込む。
- 『ゲゲゲの鬼太郎』が三度目のアニメ化。
- 画業生活40周年。『水木しげる画業四〇周年』(籠目舎)が刊行される。
- NHKテレビでドラマ『のんのんばあとオレ』が放送される。翌年には続編が放送。
- 『カラー版 妖怪画談』を岩波新書から刊行。
- 「水木しげるの妖怪道五十三次 妖怪と遊ぼう」展が開催される、以降、各地を巡回。
- 『ゲゲゲの鬼太郎』が四度目のアニメ化。生まれ故郷、鳥取県境港市に「水木しげるロード」が敷設される。
- 8月、境港市において、世界妖怪協会主催の「世界妖怪会議」が開催される。以降、毎年夏に行われるようになる。
- 画業生活50周年を記念して、1,600枚の妖怪画の原画集『水木しげる妖怪原画集 妖鬼化(ムジャラ)完全版』を刊行。
- 境港市に「水木しげる記念館」開館。
- 同年11月から翌年にかけて、荒俣宏・京極夏彦プロデュースにより、「大(Oh!)水木しげる展 なまけものになりなさい」が開催される。
- テレビ・ドキュメンタリーのため、荒俣宏とパプアニューギニア・セピック河へ。
- 『ゲゲゲの鬼太郎』が五度目のアニメ化。
- 『怪』の姉妹誌『コミック怪』が刊行され、1976年に『月刊少年ジャンプ』に掲載された幻の作品『復活! 悪魔くん』を『鬼太郎対悪魔くん』と改題して収録。
- 松竹によって『ゲゲゲの鬼太郎』が初の実写映画化。
- アニメ版鬼太郎生誕40周年。それを記念して『墓場鬼太郎』が初のアニメ化。また、「水木しげるの妖怪道五十三次 妖怪と遊ぼう」展がアメリカ・ワシントンDCにて開催。
- 実写映画版2作目となる『ゲゲゲの鬼太郎 千年呪い歌』(松竹)が公開。
- あらたに「お化け大学校」が創設され、「世界妖怪会議」の代わりに「化け大祭」が開催された。
- 妻の布枝の著書『ゲゲゲの女房』がドラマ化および映画化。
別名義
- 東真一郎
- 関谷すすむ
- 米替富夫
- 武良茂
- 堀田弘
- 竹取いさむ
- むらもてつ
受賞
- 1965年 『テレビくん』で第6回講談社児童漫画賞
- 1989年 『昭和史』で第13回講談社漫画賞
- 1991年
- 1996年 第25回日本漫画家協会賞
- 1998年 星雲賞アート部門
- 2003年
- 2005年 織部賞グランプリ
- 2007年 『Non Non Bâ』(『のんのんばあとオレ』仏訳)で第34回アングレーム国際バンド・デ・シネフェスティバル オフィシャル2007 BEST COMIC BOOK 最優秀コミック賞。日本人が同賞を受賞するのは初。
- 2008年度 朝日賞受賞
主な作品
漫画
- 代表作
- 貸本劇画
- ロケットマン
- 戦場の誓い
- 墓をほる男
- 地底の足音
- 火星年代記
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- 連載漫画
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- 東西奇ッ怪紳士録
- 木槌の誘い
- 神秘家列伝
- 水木しげるの遠野物語
- 長編描き下ろし漫画
- 短編漫画
- 不老不死の術
- 勲章
- 錬金術
- 不思議な手帖
著作
- ねぼけ人生
- のんのんばあとオレ
- ほんまにオレはアホやろか
- 水木しげるのラバウル戦記
- 妖怪なんでも入門
- 水木しげるの妖怪事典
- 水木しげるの続・妖怪事典
- 水木しげるの世界妖怪事典
- 水木しげるのあの世の事典
- 水木しげるの中国妖怪事典
- 水木しげるの続・世界妖怪事典
- 日本妖怪大全
- 水木サンの幸福論 妖怪漫画家の回想
- 水木しげる伝
- 娘に語るお父さんの戦記
テレビ番組
- ETV8 妖怪たちはどこへ行った 〜水木しげるのねぼけ人生 NHK 1989年製作
- BSマンガ夜話 「悪魔くん千年王国」 1998年8月27日
- いのちの響
- 妖怪水木しげるのゲゲゲ幸福論 2006年3月に、BS JAPAN(テレビ東京系)で放送。
- NHKスペシャル ドラマ「鬼太郎が見た玉砕 〜水木しげるの戦争〜」 2007年8月12日
- NHK連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」 2010年度前半(4月~9月)放送予定
- 妻の自伝を原作としたドラマ。2009年4月22日にNHKから制作決定が発表された。漫画活動の地である調布と、夫妻の出身地である山陰地方が舞台となる。島根県(妻の生地)が舞台となるのは3作前の「だんだん」以来。
DVD
- 水木サン大全 -水木しげると荒俣宏の対談 2004
CD-ROM
- メールアルバム ゲゲゲの鬼太郎 2000
- 妖怪花あそび 2001
- ゲゲゲの鬼太郎 妖怪花あそび 2003
- 水木しげるオフィシャルBOX 世界妖怪遺産 2002
- 水木しげるプライベートBOX 世界妖怪遺産 2002
家族・親族
- 実家
- 曾祖父・武良惣平(廻船問屋、政治家)
- 祖父・武良辰司(実業家)[14]
- 父・武良亮一(会社員、銀行員等)
- 胃が丈夫なことから、水木は父親に「イトツ」(突出して胃が丈夫)とあだ名をつけていた[16]。父・亮一は早稲田大学を出ると、当時の金で5000円という大金をもらい商売するが、失敗して大阪の会社に勤めた。しかし勤務時間中に映画を見ていたのが社長にばれてクビになった。境町に戻り今度は銀行に勤めた。ある時、銀行強盗が横行したことがあり、当直だった亮一は明け方まで粘ったが、恐怖に耐え切れずついに当直を放棄して家に帰ってしまった。このため銀行をクビになったが「なんとかなる主義」という奇妙な主義を信じていたため全く平気だったという。なお『ねぼけ人生<新装版>』16頁には“銀行強盗”となっているが、『水木サンの幸福論 ―妖怪漫画家の回想―』34頁には“脱獄囚”と記されている。また、英語が得意だったため美保航空隊で駐留軍の通訳をした[17]。
- 妻布枝の著書『ゲゲゲの女房』によると、水木が漫画で成功し、上京して一緒に暮らすようになってからは、好きな映画や歌舞伎を観るなどして、幸せに暮らしていたという。死の際は「境港に葬ってくれ」と遺言があり、武良家代々の菩提寺に納めた。そのため水木はその後、境港をしばしば訪れるようになり、「水木しげるロード」誕生につながったという。
- 水木の兄宗平は父亮一について、「ぼんぼんの道楽者。自由人だった。少し頼りない。楽をするのが好きで、スイカを買っても自分で持たないで、我々に持たすのだ。まったくおやじは家長らしくなかった。」と述べている[18]。
- 母・琴江
- すぐ怒ることから、水木は母親に「イカル」とあだ名をつけていた[19]。母・琴江は江戸時代、苗字帯刀を許された米子の旧家に生まれ、その家柄を誇りとしていたという。
- 『ねぼけ人生<新装版>』15頁には「母の実家というのが三島という米子市の旧家で、元禄時代から今日までの墓がずらりと並んでいるほどなのだが、これも先代でボツラクしている。この先代という人は風流人なのはいいが、俳句だの書画だのをひねくるばかりで、仕事というものを全くしなかった。」とある。
- 『グレートマザー物語』によると、琴江はしげるが左腕を失ったことを知ると自らの左腕を縛り、一時期右腕だけで生活していたという。
- 武良布枝の著書『ゲゲゲの女房』によると、戦争中に、近所でバケツ・リレーの練習をしていても「負け戦とわかっているのに無駄だ」と参加しなかったという。また、水木が東京で貸本漫画家をしている時は、非常に心配し、「漫画がダメなら灯台守になれ」と薦めた。また、しばしば、心配する長文の手紙を送ったという。返事が来ないと、さらに心配して長文の手紙がくるため、水木は母親から手紙が来ると即「元気だ」という返事を書いた。また、「貧乏している」ことが母にばれないよう、軍人恩給を実家に送っていたという。また、水木が漫画家として成功して両親を呼び寄せた後は、漫画のストーリーにしばしば口を出し、『鬼太郎』にシーサーが登場するようになったのは、母親の強い薦めがあったためだという。
- 兄・武良宗平
- 兄の娘夫婦(境港の水木プロ中国支部担当)
- 弟・武良幸夫(水木プロ・ゼネラルマネジャー)
- 自家
- 妻・布枝(島根県安来市大塚町出身、旧姓飯塚、著書『ゲゲゲの女房』)
- 長女・尚子(貸本版『墓場鬼太郎』の「水木しげる」の娘・花子のモデル。また、鬼太郎の赤ん坊時代を描く際のモデルにもしている)
- 次女・悦子(水木プロ社員、著書『お父ちゃんと私―父・水木しげるとのゲゲゲな日常』)
- 他家
- 大叔父・住田寅二郎[20]
- 大叔父・寅二郎は米子で初めて東大を出たとされる。なお寅二郎には出世欲がなく米子でパンを売って一生を終えたとのことである。
- 元米子市長野坂寛治の著書『米子界隈』183頁に「第四代町長住田善平氏は住田呉服店の御主人で、その令息法学士住田寅次郎氏は町会議員として、いかなる意味でも英名を四方にはせ、晩年は酒豪としての逸話が山積する。後には転じて製パンを志され世上これを“学士パン”と呼んだ。学士学士と書いたが、現代の諸君は“アァ学士か”とそこらに落ちている小石のように思うであろうが、明治35、6年ごろの学士さんはトテモドエライもので住田寅次郎氏が法科を、筆者の叔父貴野坂康二が工科を、共に東大を卒えて帰還した年の夏、渡辺町長その他お歴々の発起によって公会堂で歓迎会を開いて頂いている。それが米子で二人も出来たのだからというのですぞ。驚き桃の木サンショの木である。」とある。
- 寅二郎の弟にフランスで客死した絵描きの良造と武良家に居候していた延寿がいる。延寿は赤鉛筆片手に英語の原書ばかり読んでいたが、結局定職に就かずに遊んで暮らしたという。
- 親類・武良彦一(実業家 等)
- 父・亮一の甥で、元職工。大阪で軽食堂を経営していたが世界恐慌が起こりその煽りを受け閉店。その後祖父・辰司とジャカルタに渡り印刷会社を経営。帰国後インドネシア語が話せたので軍属になり兵隊として再びジャカルタへ渡るが、その後戦死している。
系譜
- 武良家
- “武良”(むら)という苗字は珍しいが、境港には多い。武良氏は隠岐発祥と考えられており、隠岐諸島の島後にある西郷町に“武良祭り”があり、“武良トンネル”が残っている。水木しげるは、自らのルーツを求めて、隠岐を訪問しているが、地元の人に「昔のことは、よくわからない」といわれた。戦国時代の弓ヶ浜に高岡城という城があって、武良隣左ェ門という豪族がおり、その一族が祖先だろうと水木本人は考えている。水木の実家の武良家は江戸時代から明治時代にかけて、回船問屋を営んでいた[21]。
- 竹内村(高松)の武良氏について『伯耆志』には「高岡城趾と古松三幹あり。往古武良某此所に居りしと云へり。今村中其裔あり。」(『境港市史』)とある[22]。
- 『ねぼけ人生<新装版>』14頁に「境港の竹之内には高岡城趾といわれる所があり、古松が三本はえている。『伯耆志』によると、ここが武良氏の舘の跡だということになる。米子の郷土史家の説では、僕の家の墓地のあたりが武良舘のあった所だそうだ。どっちが真実かわからないが、どうやらずっと昔に、このあたりに武良氏という一族がいて、それが僕にまでつながっていることだけは本当らしい。」とある。
- 武良家は長生きの家系であり、父は享年88、母は94。
武良惣平━━武良辰司 ┃ ┏武良宗平 ┣━━武良亮一 ┃ ┃ ┃ ┃ ┏さい ┣━━╋武良茂 ┃ ┃ ┃(水木しげる) 住田善平━━┫ 三島氏━琴江 ┃ ┃ ┗武良幸夫 ┗住田寅二郎
演じた俳優
- 富田耕生(声優):『ゲゲゲの鬼太郎』第一作第58話(1968年)
- あずさ欣平(声優):『ゲゲゲの鬼太郎 激突!!異次元妖怪の大反乱』(1986年、アニメ映画)
- 佐藤広純:『のんのんばあとオレ』(1991年、1992年、NHK)
- 京極夏彦:『姑獲鳥の夏』(2005年、映画)
- 香川照之:『鬼太郎が見た玉砕 〜水木しげるの戦争〜』(2007年8月12日、NHK)
- 島田敏(声優):アニメ『墓場鬼太郎』第10話(2008年)
- 向井理『ゲゲゲの女房』前期NHK連続テレビ小説(2010年)
- 宮藤官九郎『ゲゲゲの女房』(2010年、映画)
関連項目
関連人物
- アシスタント
- 田辺一鶴 - 講談師。若手講談師時代に水木と知り合い、仕事を一部手伝った。
- つげ義春 - 一時期水木のアシスタントをしていた。
- 池上遼一 - 著名なアシスタント。水木の戦争漫画の作風を受け継ぎ、後に独自の作風を確立した。
- 古川益三 - のち雑誌『まんだらけ』で元アシスタントの座談会を掲載した。
- 鈴木翁二
- 橋本将次
- 辰巳ヨシヒロ
- 森野達弥
- 矢口高雄 - 銀行員時代にアシスタント志望で来たが、「漫画家より銀行員をやりなさい」と水木が断った。ただし、矢口が自伝的作品『9で割れ!』に記すところによれば、これは水木の記憶違いで、矢口は『ガロ』編集部の紹介でスタジオ見学に訪れただけである。この時に水木や池上から受けたアドバイスは後々非常に参考になった、との事。
- 妖怪関連
- 知人、ファンなど
- 瀧利郎 - 戦友で、戦後も水木と交流があった。編著に『ラバウル戦の末路』。
- トペトロ - ニューギニアでの療養中に仲良くなった現地のトライ族の少年。水木は漫画家として成功してから、現地を再訪し、恩返しに中古車を贈った。彼との交際は50年に及ぶが、1993年に亡くなった。トペトロの遺族は葬儀をあげる費用が無かった為、水木が費用を出して盛大な葬儀を行った。その交友関係は『トペトロとの50年』に描かれている。
- 桜井昌一 - 貸本漫画家。後に出版社、東考社をおこし、貸本版『悪魔くん』などを発行。貸本業界が崩壊すると、「桜井文庫」として文庫本形式のインディーズ出版を行い、水木の短編を多数出版している(1980年代後半までは、一般書店でも購入できた。現在は古本市場で高値を生んでいる)。また、水木の漫画作品中に頻出する「眼鏡で出っ歯のサラリーマン・山田さん」のモデル。
- 杉本五郎 (漫画家) - 貸本漫画家仲間。鬼太郎の「霧の中のジョニー/吸血鬼エリート」のモデル。映画フィルムの日本一のコレクターでもあった。
- 梅田栄太郎 - 貸本漫画家仲間。その「調子のいい」言動で、ねずみ男のモデルとなった。
- 長井勝一
- 呉智英 - 資料整理時代に水木漫画の「原作」をいくつか執筆したが、「難解すぎて」採用されなかった。呉は、水木の本質を、「人智を超えたものを信じる人」と、「俗っぽい生活知にあふれた庶民」とが、渾然一体で同居しているところにあると、述べている。
- 南伸坊 - 『ガロ』で「近藤勇」などを担当。
- 松田哲夫 - 学生時代に『ガロ』の仕事を手伝っていた関係で、水木の原稿を取りに行って知合う。筑摩書房入社後、水木に自伝『ねぼけ人生』の執筆を薦めた。また、「ちくま文庫」創刊後は、水木漫画を多く収録した。
- 宮田雪 - 脚本家。水木に漫画原作を提供。また、アメリカのホピ族インディアンを水木が訪れる、渡し役をした。
- 朝松健 - 作家。1997年の『悪魔くん世紀末大戦』の原案を担当。
- 大泉実成
- 足立倫行
- 宮本神酒男 -シャーマニズム研究家。水木とともに、ドラキュラの故郷や、ミャンマーのシャーマンなどの取材旅行をしている。
- 佐野史郎
- ら・むうん(有里紅良・夢来鳥ねむ)
- 水木作品の同人サークル「鬼太郎座」を母体として発展構築された劇団兼創作集団。
- 「鬼太郎座」時代に創られたダイナビジョン作品『女禍』の製作には水木本人をスーパーバイザーに招いている。
- 中心者2名(有里・夢来鳥)は後に『HAUNTEDじゃんくしょん』など水木作品をモチーフとした商用作品を執筆している。
- 伊藤徹 - 古書籠目舎・店主。かつては復刻版やファンクラブ誌を出していた。
- 水木伝説 - 公認ファンクラブ。会誌『フハッ』を発行している。
- 関東水木会 - ファンクラブというより研究会。青林堂の『水木しげる叢書』に協力したファンの有志により、「水木先生をバックアップするための好事家の集まり」として1993年11月に立ち上げられた。会長山口信二、会員平林重雄、鈴木信一、荒井良、荒俣宏、京極夏彦、佐野史郎ら。
- EAST - 公認ファンクラブ。2007年11月に新設された。
- 中川翔子
脚注
- ^ 『水木サンの幸福論 ―妖怪漫画家の回想―』31頁。
- ^ 『水木サンの幸福論 ―妖怪漫画家の回想―』 44頁
- ^ 『ボクの一生はゲゲゲの楽園だ』より
- ^ 『ゲゲゲの女房』30頁
- ^ 『ゲゲゲの女房』39頁
- ^ 建築マップ 「灘町後藤家」 | 米子建築塾.Web
- ^ 武良布枝『ゲゲゲの女房』
- ^ 水木悦子『お父ちゃんと私』p.159〜165
- ^ 『水木サンの幸福論 ―妖怪漫画家の回想―』 37-39頁
- ^ 梅本浩『ビルマ航空戦・下』大日本絵画
- ^ 2004年8月28日放送『NHK土曜インタビュー』より
- ^ 『THE ART OF 新書版コミックス サンコミックス編』(まんだらけ)P.12,P97
- ^ 『日本海新聞』
- ^ 『完全版 水木しげる伝(上)』 104-107、201-203頁
- ^ 『日本海新聞』 2004年9月2日 23面
- ^ 『完全版 水木しげる伝(上)』 52-54頁 -
- ^ 『水木サンの幸福論 ―妖怪漫画家の回想―』213頁。
- ^ 『水木サンの幸福論 ―妖怪漫画家の回想―』212頁。
- ^ 『完全版 水木しげる伝(上)』 250-251頁。
- ^ 『水木サンの幸福論 ―妖怪漫画家の回想―』 201-202頁、鳥取県郷土人物文献データベース--すみだとらじろう※
- ^ 『水木サンの幸福論 - 妖怪漫画家の回想』36頁、『完全版 水木しげる伝(上)』14 - 16頁
- ^ 『水木サンの幸福論 - 妖怪漫画家の回想』222頁
- ^ 武良布枝『ゲゲゲの女房』
参考文献
- 水木しげる 『ねぼけ人生〈新装版〉』 1999年 筑摩書房
- 水木しげる 『水木サンの幸福論 ―妖怪漫画家の回想―』 2004年 日本経済新聞社
- 水木しげる 『完全版 水木しげる伝』 講談社
- 武良布枝『ゲゲゲの女房』実業之日本社
- 足立倫行『妖怪と歩く 評伝・水木しげる』文藝春秋、1994年
外部リンク
- げげげ通信 - 水木プロダクション公式ホームページ
- 水木しげる記念館
- 水木しげるロード
- 元祖「鬼太郎茶屋」はこのロードにある。店主は「鬼太郎音頭」の作詞者。
- 水木しげるの妖怪ワールド - 妖怪舎(株式会社きさらぎ)のページ
- ゲゲゲの妖怪楽園 - やのまんが運営する、境港の妖怪プチテーマパーク
- 鬼太郎茶屋・深大寺店 - 東京・深大寺のショップ・喫茶。ギャラリーもあり。
- 妖怪舎 -米子にある、水木グッズの制作・販売会社で、上記「鬼太郎茶屋・深大寺店」も経営
- 水木伝説
- TomePage - 水木しげる作品不完全リスト
- 水木しげる伝
- 鳥取県郷土人物文献データベース--みずきしげる
- 『ゲゲゲの鬼太郎のルーツ』境港・正福寺
- 曹洞宗 巨嶽山 正福寺 - 武良家の菩提寺
- 妖怪神社
- 人間と藝術
- 大(Oh!)水木しげる展
- 水木しげるにきく
- 鬼太郎が見た玉砕〜水木しげるが見た戦争〜 - 『総員玉砕せよ!』原作のテレビドラマ
- 平和祈念展示資料館 - ポスターなどを水木が描く
- 妖怪動画サイト:妖鬼化(ムジャラ) - 水木の妖怪画を映像化
- EAST- 公認ファンクラブ