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呉懿

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呉 懿(ご い、? - 237年)は、中国後漢末から三国時代の武将。字は子遠。

陳留郡の人。父は呉夙。孫に呉喬を持つ。子の名は不明。後漢の何進の武将の呉匡は従父で、その子で同じ蜀漢の武将呉班は彼の族弟である。また、妹はかつて劉瑁の妻であったが、後に未亡人となり劉備に再嫁し、劉備の即位と共に皇后に立てられた。

少年時代に父の呉夙を失ったが、かつて亡父と旧交のあった劉焉の入蜀の際に母と妹、そして族弟の呉班一家と共に蜀に移住し、劉焉亡き後は子の劉璋に仕えて中郎将に任じられた。

212年、劉備が劉璋を攻撃すると防御にあたったが防ぐことができずに降伏した。劉備は益州を平定すると彼を護軍・討逆将軍に任じた。

228年、街亭の戦い諸葛亮馬謖を用いようとしたが、諸将は実戦経験豊富な呉懿や魏延を推挙したという。だが、諸葛亮は聴き容れず、かえって馬謖を任用して大敗を喫した。 230年、魏延と共に羌中に進出し、魏の後将軍費瑶を撃破して高陽郷侯に封じられた。 234年の諸葛亮の五丈原での死後、車騎将軍となって漢中を守った。王平が副将として、呉懿を支えたという。 237年に逝去した。彼の子は早世していたために、孫の呉喬が祖父の跡を継いだという。

彼は博愛の人物として知られ、戦功もあり、何より皇帝の外戚という重要人物でありながら、正史に彼個人の伝は立てられてはいない。

三国志演義

  • 第六十二回張粛が弟の張松の密書を劉璋に届け、劉備の益州取りの野心が明らかになったことで、防衛戦の総大将が必要となった。劉循が名乗りをあげるがそれを抑え、彼に代わる形で前線に派遣される。この時、副官として呉蘭雷銅を推挙している。前線に着くと、早速劉潰張任冷苞らと対応を協議し、冷苞の建策を取り上げ、水攻めを企てる。
  • 第六十三回、実行部隊にも名乗りをあげた冷苞が、魏延の妨害にあい失敗。後詰として派遣されていた呉蘭、雷銅も黄忠に追い散らされ、計画は頓挫する。呉懿は次の作戦を協議するが、今度は張任の建策により、彼が伏兵として外に出される事になる。張任は、たまたまやってきた龐統を劉備と取り違え射殺。張任の報告により劉備を討ち取ったと思った呉懿らは、城から全軍で討って出て、劉備の軍を散々に追い散らす。結果、劉備は、諸葛亮に便りを出し、荊州の援軍を待って進軍するよう計画を立て直す。守将として関羽を残し荊州から進発した諸葛亮は、張飛らを率いて益州に入ると、厳顔を打ち破る。
  • 第六十四回、主将は呉懿から劉循に交代し、呉懿は張任から命令される立場となっている。すでに劉備の軍によって毎夜のように夜討ちされて疲労し、敗勢は色濃くなっていた。事態を打開すべく、張任は劉備一人を狙って討ち取ろうとするが、張飛の軍に阻まれる。降将の厳顔が行く先々の太守を調略した事で、諸葛亮の軍が僅かな期間で到着していたのである。両軍は総力戦を行い、呉懿、劉潰、呉蘭、雷銅は魏延、黄忠の二将を挟撃し、一旦は打ち破る。しかし、呉蘭、雷銅は二将を追う内に敵陣深くに入り込んで孤立し、降伏。呉懿は、張任、卓膺らと、劉備との最後の決戦に挑むが、張任が諸葛亮の罠にかかって生け捕りにされると、戦意を失って卓膺らとともに劉備に降伏する。張任は降る事を拒んで斬首となり、城を守っていた劉潰もまた内応した張翼に殺され、劉循は一人で成都に逃げ戻った。呉懿は厳顔とともに劉備の軍を先導し、益州の調略を行う。
  • 第九十一回、諸葛亮が出師の表を奏し、北伐を開始すると、呉懿は中参軍としてそれに同道する。
  • 第九十九回曹真に代わって司馬懿の西方の司令官となると、諸葛亮は防衛計画を展開させる。呉懿は、呉班馬忠張嶷らとともに、と戴陵を迎撃し、陽動の任務を成功させる。
  • 第百回、諸葛亮の計略に従い、呉班・関興廖化とともに曹真の副将である秦良の軍を待ち伏せし、打ち破った。その後は彼らと共に降参した魏軍の兵士を率い、曹真の本陣に潜入する。しかし、この計画は、司馬懿によって埋伏の毒と見破られており、成功しなかった。
  • 第百二回、魏軍が渭水を下って攻めてくる事を恐れた諸葛亮の命に従い、呉班とともに橋の焼き討ちを任じられる。しかし、この計画は司馬懿によって看破されており、呉班は待ち伏せにあって戦死し、橋の焼き討ちにも失敗する。以後は登場しない。

参考文献