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山一抗争

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山一抗争(やまいちこうそう)は、昭和59年(1984年8月5日から平成元年(1989年3月30日にかけて山口組一和会の間に起こった暴力団抗争事件。317件の大小抗争が発生し、一和会側に死者19人、負傷者49人、山口組側に死者10人負傷者17人、警察官・市民に負傷者4人を出した[1]。山一抗争の直接の逮捕者は560人だった[1]

山一抗争勃発まで

1984年(昭和59年)6月5日午後3時、山口組直系組長会で山口組若頭・竹中正久は、山口組四代目組長就任の挨拶をした。だが、この席上には山口組組長代行・山本広を支持する直系組長は出席せず、山本ら約20人[2]大阪市東区松美会事務所で在阪のマスコミ各社を呼んで記者会見を開き、竹中正久の山口組四代目就任に反対した。反竹中派の山口組直系組長は翌日にも山口組の山菱の代紋を組事務所から外し、ここに分裂は決定的となる[3]。6月8日には兵庫県警姫路警察署が、竹中組事務所への家宅捜索を行なっている[4]

6月13日に反竹中派=山本支持派は「一和会」を結成、会長は山本・副会長兼理事長には加茂田重政(加茂田組組長)が就任した[5]。だが、この時既に小田秀臣福井英夫(福井組組長)[6]弘田武(弘田組組長)[7]が一和会への参加を取り止めてヤクザから引退するなど、早くも脱落が目立ってくる。

一方、竹中正久は、6月21日に田岡邸大広間で舎弟23人・若中46人と固めの盃を執り行なった。23日には執行部の陣容を整え、山口組若頭中山勝正(豪友会会長)、舎弟頭に中西一男(中西組組長)、筆頭若頭補佐兼本部長に岸本才三(岸本組組長)を据えた。若頭補佐には渡辺芳則(二代目山健組組長)・宅見勝(宅見組組長)・嘉陽宗輝(嘉陽組組長)・桂木正夫(一心会会長)・木村茂夫(角定一家総長)を起用している[8]

山口組襲名式は、7月10日に徳島県鳴門市の「観光ホテル鳴門」で執り行なわれた[9]

山一抗争

8月5日、和歌山県串本町の賭場で、山口組松山組岸根組岸根敏春組長が、一和会坂井組串本支部若頭補佐・潮崎進を刺殺。この事件をきっかけに、山一抗争が勃発する。8月23日に竹中正久は「義絶状」を友誼団体に送り、実質的に一和会への絶縁を表明する。この「義絶状」に一和会は危機感を持ち[1]、10月にも「義絶状」に対する反論文を一部団体に送付している。それでも年末には山口組構成員数が14000人・一和会構成員数は2800人になるなど、一和会の弱体化は明らかになった。

9月3日には一和会宮脇組首竜会副会長・衛藤一生が、入院加療中の山口組石井組石友会徳弘喜一郎会長(二代目石井組本部長)を銃撃し重傷を負わせている。

竹中組長殺害

その一方で7月下旬、一和会二代目山広組若頭・後藤栄治(後藤組組長)は、山広組舎弟・長野修一とともに山口組に対する行動隊を結成、長野を行動隊長に据え9月中旬には山広組から19人の隊員を選抜し行動隊の結成式を行なった。

10月には一和会・石川裕雄常任理事は、大阪府吹田市のマンション「GSハイム第二江坂」に竹中正久の愛人が住んでいることを掴んだ。12月初旬に石川は「GSハイム第二江坂」の204号室を知人名義で借りて潜入、無線機を置いて一和会の「GSハイム江坂」の見張り要員と交信できる様にした。長野も12月21日に大阪市西区の「GSハイム西長堀」の302号室を借り、武器の隠し場所にした。

1985年(昭和60年)1月12日、石川の報告を受けた後藤は、長野を伊勢自動車道津インターチェンジに呼び、共に吹田市の「GSハイム第二江坂」に向かった。車中、後藤は、25口径ベレッタと25口径タイタンと32口径回転式拳銃を長野に渡した。その後、後藤は長野と石川を引き合わせ、石川は長野に無線機の使い方を教えている。1月17日に長野は、三重県の山中で二代目山広組組員・田辺豊記、山広組広盛会舎弟頭・立花和夫、山広組組員・長尾直美 とともに、拳銃の試撃ちを行なった。翌18日には石川から38口径回転式拳銃を1丁受け取り、23日にも後藤から32口径改造拳銃1丁を受け取った。

一和会側の作戦が着々と進行している中、1月9日には竹中正久に懲役5ヶ月の最高裁判所の判決が確定[10]。16日に竹中正久は、中山ら山口組最高幹部を連れて、大阪国際空港から午前8時45分発日航911便に乗り、沖縄県入り。那覇空港では翁長良宏会長をはじめ旭琉会の15の一家の総長と幹部クラスの合計約60人から出迎えられ、沖縄観光がてら接待を受けた。沖縄から戻ると、26日昼には兵庫県神戸市灘区篠原町で挙行された山口組本部上棟式に幹部全員を伴い出席[11]。午後9時15分過ぎに、中山と山口組南組南力組長とともに「GSハイム第二江坂」に着くが、1階エレベーター前で田辺・長尾・立花に銃撃された。

南は即死。竹中正久は銃弾3発を受けたものの、自力で自分のメルセデスベンツの車に乗り込み、運転手の南組組員に大阪南区の南組事務所に向かわせた。竹中らの乗った車は午後9時30分に南組事務所へ到着し、そこから(南組組員が自動車電話で手配した)救急車に乗せられて大阪警察病院に搬送されたが、27日午後11時25分に死亡。中山は、「GSハイム第二江坂」から救急車で病院に搬送されたものの、27日午前1時7分に死亡している[12]

竹中正久の仮通夜は27日夜に兵庫県神戸市灘区の旧田岡邸で行なわれ、1月31日に竹中家としての密葬が行なわれた。

山口組側の報復

組長と若頭を一挙に失った山口組は2月5日に直系組長会を開催し、舎弟頭・中西一男が四代目山口組組長代行に、若頭補佐・渡辺芳則山健組組長)が若頭に就任した。山口組本部長・岸本才三は「組方針を不言実行、信賞必罰」と宣言。直ぐに報復が始まり、2月19日に山口組弘道会菱心会組員が一和会後藤組若頭・吉田清澄を拉致、(竹中正久殺害を指揮した)後藤の居場所を吐くようにと暴行を加えた。これに対し後藤は、配下の組員に後藤組の解散届を三重県津警察署に届けさせ、速達で山口組本部に「詫び状」を送付。「自分が自首する替わりに、弘道会菱心会組員に拉致された吉田清澄を解放して欲しい」と訴えた[13]。同じ23日には高知市高知競輪場で山口組豪友会組員が、一和会中井組(組長は中井啓一)組員3人を襲撃。2人を射殺し1人に重傷を与えた[14]

3月5日には大阪市西成区の一和会溝橋組(組長は溝橋正夫)事務所で、溝橋組幹部・大岩正博が突然の訪問者に背中を撃たれて重傷。翌6日には三重県四日市市の喫茶店で、一和会水谷一家宮本一利組長の元相談役・清水幹一が2人組の男に拳銃で胸と腹を撃たれて死亡した。24日には大阪市の一和会徳山組徳心会組員が、徳心会事務所前で足を2発銃撃され全治3週間の怪我。甲子園球場の駐車場でも、竹中組組員が一和会特別相談役・大川覚の長男を襲撃している。

4月4日には、山口組豪友会岸本組幹部・谷脇修は一和会中井組事務所宛の宅配便を依頼し、宅配便配達員とともに中井組事務所に向かった。宅配員に呼び鈴を押させ中井組事務所のドアが開いたところへ、谷脇は一和会中井組組員・門屋義之を射殺、他の中井組組員に重傷を負わせた[14]。12日には山口組弘道会内薗田組幹部ら三人が、名古屋市のレストランで三重県四日市市の一和会水谷一家隅田組幹部・中本昭七と隅田組組員・島上豊を拉致。三人は警察に電話して「水谷一家が一時間以内に解散届を出すのならば、中本と島上を解放する」と伝えたが、水谷一家が解散を拒否したため翌13日に中本を射殺・島上に重傷を負わせた。14日には一和会定例会からの帰途、一和会・吉田好延副幹事長が国鉄三ノ宮駅前の交差点で停車中に、山口組後藤組(組長は後藤忠政)幹部・佐藤明義に38口径の拳銃で4発銃撃された。吉田好延は無事だったものの、同乗していた組員2人が窓ガラスの破片で負傷。

山口組の猛攻とも言える報復に一和会は追い詰められる一方だったが[15]、ただ手をこまねいてるばかりでなく反撃に出ている。3月17日午後8時すぎに一和会中井組弘田組(組長は弘田憲二。後の中野会副組長)舎弟・竹中幸雄らは山口組豪友会岸本組事務所に侵入し、仮眠中だった豪友会組員・吉門正光を拳銃で銃撃、吉門は5日後に死亡した[14]

竹中正の武器密輸未遂

竹中正久が殺害されるより前の1月13日、竹中組相談役・竹中正は、神戸市でプロレスラーヒロ佐々木[16]と会い、マイケル・ジャクソンの日本公演を依頼。日本公演の保証金5000万円は知り合いの不動産業者に支払って貰い、5月12日にハワイでマイケル・ジャクソン日本公演(公演料は4億円)の基本契約書にサインした。その3日後の5月15日、ワイキキのアラモアナ・ホテルでヒロ佐々木から竹中正にアメリカ陸軍の拳銃や機関銃の購入を持ちかけられる。

報復作戦さなかで武器が必要だったこともあり、竹中正としては是非とも乗ってみたい話ではあったが、警察や一和会の目もあることから躊躇していた。そんな5月24日にはヒロ佐々木が来日、竹中正に「昭和60年(1985年)5月末日までに保証金4億円をハワイに送金すること」を求めた[17]

8月末、ヒロ佐々木は自らの属するマフィアの結成25周年記念パーティーの招待状を、山口組幹部に送付[18]。竹中正と織田譲二(織田組組長)が記念パーティーに出席し、そこでヒロ佐々木から、ロケット砲やマシンガンの購入を再度持ちかけられる。二人はこの話に乗り、9月3日に竹中正と織田、香港の元飲食店主・梶田聖の三人で取引に赴くが、そこでアメリカ連邦麻薬取締局に逮捕された[19]

実はヒロ佐々木は連邦麻薬取締局の囮捜査官であり、マイケル・ジャクソンの日本公演やマフィアのパーティーも全て架空の話であった。しかも、一連の取引の模様は全て隠しカメラで収録されており、動かぬ証拠となっていた。だが、1986年(昭和61年)4月26日に竹中・織田は無罪判決を受け、釈放されている。

誠友会の山口組傘下入り

1985年(昭和60年)4月5日午後3時、山口組本部事務所で山口組定例会が開催され、席上、岸本本部長が直系組長85人(代理出席は18人)に対して、誠友会(石間春夫会長)の舎弟待遇での山口組参画を発表した[20]

実は、誠友会と山口組の接触は前年から進められていた。まず、山口組一会野沢義太郎会長(元柳川組幹部)が、札幌刑務所の病舎で石間と面会。この時は山口組への傘下入りを持ち出さなかったものの、秋には若頭補佐(当時)の渡辺・桂木が面会し年明けにも中山若頭と会う手筈になっていた[21]。しかし竹中正久共々中山も一和会の襲撃で死亡、これを切っ掛けとして石間は山口組傘下入りを決意する。

しかしながら、石間は私文書偽造により懲役4年の判決を受け、宮城刑務所に収監。加えて誠友会が加入していた北海道同行会の会規に「内地の広域組織は同行会には入れない」をいう条項があったことから、山口組の傘下に入ると同時に同行会から離脱することにならざるを得なかった。4月18日に山口組の中西・岸本・桂木らと会見した石間は、川岸朝明会長を通じて同行会に脱退を通告。この扱いについて6月14日の同行会臨時総会でも結論は出ず、有耶無耶の中、北海道同行会に残留したまま7月に石間は四代目山口組舎弟となり、誠友会の系列組織の事務所は山菱の代紋を掲げた。

稲川会と会津小鉄会による仲裁と抗争終結

1986年(昭和61年)2月14日にホテルニューオータニで、関東二十日会関東神農同志会の合同食事会が開催された[22]。合同食事会前の挨拶で、住吉連合副会長・西口茂男は、「稲川会・稲川聖城会長が山口組と一和会の手打ちのために努力している」と語った。前年3月24日に一和会特別相談役・大川覚の長男が竹中組組員に襲撃されて重傷を負ったが、長男は(一和会とは無関係だったものの)的屋だったことから、その煽りを食らって全国の主要な祭礼から的屋が締め出しを受け死活問題になっていた。合同食事会が終わった後、稲川聖城は、会津小鉄会総裁代行・高山登久太郎(本名は姜外秀)、倭奈良組橋本正男組長らと山一抗争終結について話し合った[23]

2月には[24]、稲川会の稲川聖城総裁と石井隆匡会長が病気療養中の田岡文子を見舞い、次いで山口組幹部と会って一和会との和解を打診。稲川会からの打診に、中西一男や渡辺芳則らは「昭和61年(1986年)年3月13日までに、山口組内を和解の方向でまとめる」と回答した[25]。中西は、服役中の豪友会・岡崎文夫会長と岡山刑務所に拘置中の竹中武[26]を説得、岡崎は終結を了承したものの竹中武は一和会との和解を拒否した。

6月5日に石井が中西ら山口組幹部と会い再度一和会との和解を要請、15日に開かれた臨時直系組長会で中西は山一抗争の終結を受け入れる意向を示した。明けて1987年(昭和62年)2月4日に山口組直系組長会が開かれ、山一抗争終結への意向を質した山口組幹部に対し、竹中武は直系組長会での採決を逆提案。しかし提案を黙殺され、2月8日に山口組本家2階大広間で開かれた緊急山口組直系組長会にて、中西一男は山一抗争終結の決定を指示した[27]。翌9日に中西ら山口組幹部は上京し、石井に抗争終結決定を連絡。石井は10日に京都へ高山を訪問し、高山を通じて山本広ら一和会直系組長34人に山口組の抗争終結決定を伝えた。山本広も一和会の山一抗争終結決定を高山に伝え、取り敢えずは抗争は終結した。

山一抗争の影響

稲川会の仲裁によって取り敢えず表面上は抗争終結となったが、抗争終結に動いた渡辺・中西・岸本ら山口組執行部と、あくまで抗争継続の構えを見せた竹中武とが対立している。山口組が抗争終結を決定した直後には竹中が山口組からの竹中組離脱の構えを見せている(山口組側からの慰留で結局中止)し、1988年(昭和63年)5月14日には竹中組安東会安東美樹会長が山本宅を襲撃して警備の警察官3人が巻き込まれて負傷。山口組側は岸本本部長自ら、襲撃犯が自分の組内にいるならば警察に自首させ、今後警察官や市民を銃撃した者は処分することを直系組長に通達させている[28]。これら竹中組を中心とした抗争継続は、その後の山竹抗争の伏線となってくる。

一和会も抗争終結で一息ついたと思いきや、その後も山口組からの硬軟両面の締め付けが続き、大幹部の加茂田重政や松本勝美まで組の解散・ヤクザからの引退に追い込まれた。1988年(昭和63年)10月には構成員数200人(兵庫県警発表)にまで衰退し、1989年(平成元年)エラー:和暦テンプレートの解説ページを参照してください。[元号要検証]3月19日に、山本は、神戸市の東灘警察署に出頭し、自身のヤクザからの引退と一和会解散を表明。一和会の命脈は尽きた。

この抗争は国内最大の暴力団組織で勃発した内紛ということもあって、ヤクザばかりか一般社会にまで広く影響を及ぼす格好となった。1985年(昭和60年)4月23日午後6時過ぎには、神戸市中央区花隈町の山口組山健組事務所近くの駐車場で、一和会加茂田組組員が走行中の車内から拳銃で発砲。山健組高橋組組員・川崎竜夫(4日後に死亡)ら3人が負傷したばかりか、通行中だった団体職員も右足に被弾し全治1ヶ月の重傷を負った。抗争で初めて市民が巻き込まれた上に、折しも神戸市ではユニバーシアード神戸大会1985年(昭和60年)8月28日から同年9月4日まで開かれる予定だったため、元神戸市長で弁護士の中井一夫が7月19日に山口組と一和会に抗争休止を呼びかけるに至った(事実、開催期間中に山口組と一和会は休戦状態となっている)。また3月には浜松市の一力一家事務所への銃撃から地域住民による撤去活動が始まり(一力一家組事務所撤去活動)、11月には競馬競輪などの公共施設への暴力団の立ち入りが禁止され始め、暴力団員の締め出しが一挙に進む切っ掛けにもなった。また前述した様に的屋が巻き込まれて、祭礼や催事での露店の出店が制限される事態にまでなった。

この様に社会的に多方面の影響を及ぼしたことから、警察による暴対法制定の切っ掛けにもなり、1986年(昭和61年)5月24日には全国の暴力団取締担当課長69人を集めた「全国暴力団取締り主管課長会議」の席上、警察庁長官金沢昭雄が山口組壊滅のために徹底的な集中取締りをするように指示するまでに至った。その一方で、一連の抗争を敢えて長期化させることによって山口組と一和会の弱体化を狙った思惑があったという見方もある。兵庫県警の試算によれば、山口組と一和会が抗争に費やしたお金は20億円に達し[29]、ある関係者は双方合わせて500億円の減収になったと見ている[29]

山一抗争関連の映画・オリジナルビデオ

脚注

  1. ^ a b c 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.91
  2. ^ 山本広と行動を共にしたのは、加茂田重政(加茂田組組長)・佐々木道雄(佐々木組組長)・溝橋正夫(溝橋組組長)・北山悟(北山組組長)・松本勝美(松美会会長)・小田秀臣(小田秀組組長)など。
  3. ^ この段階で竹中支持派は直系組長42人で総組員数4690人、反竹中派は直系組長34人で総組員数6021人だった。
  4. ^ 容疑は、1982年(昭和57年)7月の竹中組と小西一家との喧嘩の際に使用された拳銃が竹中組事務所に隠されていることと、同年8月に竹中組組員がサイコロ賭博に加わった、というものだった。
  5. ^ この時加茂田は、実弟の俊治(神竜会会長)を一和会理事長補佐に据え、同じく実弟の勲武(政勇会会長)を一和会常任理事に据えている。
  6. ^ 宅見勝(宅見組組長)に説得されて引退を決めた。
  7. ^ この際弘田組の若頭だった司忍(後の六代目山口組組長)が弘田組を引き継ぎ、弘道会を結成した。
  8. ^ 自らの組だった竹中組は実弟のが継ぎ、武は直系若衆に。更に同じ実弟のを竹中組相談役に就けた。
  9. ^ 後見人は稲川聖城(稲川会会長)。取持人は諏訪健治(諏訪一家総長)。推薦人は堀政夫(住吉連合会=後の住吉会会長)と図越利一(会津小鉄会=後の会津小鉄会長)・大野鶴吉(大野一家総長)・辻野嘉兵衛(今西組組長)・松浦繁明(松浦組組長)・平田勝市(大日本平和会会長)・平井龍夫(森会会長)・草野高明(草野一家総長)。見届け人は翁長良宏(三代目旭琉会会長)。媒酌人は津村和磨(大野一家義信会会長)。霊代は、田岡文子だった。
  10. ^ 1980年(昭和55年)3月上旬と中旬に竹中組で開かれた賭博容疑
  11. ^ 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.140~P.141
  12. ^ その後、岡崎文夫が豪友会を継承したものの、3月2日に高知県警は、銃砲刀剣類所持等取締法違反・火薬類取締法違反・凶器準備集合罪で岡崎を逮捕。このため豪友会若頭代行・久武康彦と同会本部長・山口励也が、山口組豪友会を指揮することになる。
  13. ^ この「詫び状」に応じて、山口組は24日に吉田清澄を解放するが、後藤は自首しなかった。
  14. ^ a b c 豪友会と中井組の抗争は熾烈を極め、高知県警は県内540人の暴力団員のうち181人を逮捕するほどだった。
  15. ^ 1985年2月下旬から山本会長が内部の人間に対してさえ所在を隠し、4月14日に行われた定例会でやっと姿を現したくらいである。
  16. ^ ハワイマフィア、ジョン=リー・ファミリーの身内と名乗っていた。
  17. ^ 結局期限通りの送金ができず、竹中正はペナルティ分の30万ドルを余計に支払った。
  18. ^ しかし、殆どの招待状が大阪国際空港に局留され、竹中正と織田組織田譲二組長(本名は伊藤豊彦)以外の山口組幹部には届かなかった。
  19. ^ ロケット砲3基・マンシンガン5丁・拳銃100丁の密輸未遂、麻薬不正取引、殺人教唆の容疑。
  20. ^ 出典は、溝口敦『山口組ドキュメント 五代目山口組』三一書房、1990年、ISBN 4-380-90223-4のP.60。この定例会には報道陣が約80人ほど呼ばれ、兵庫県警も正午過ぎから山口組本部事務所周辺に約100人の捜査員を配置した。
  21. ^ 1985年(昭和60年)1月に、誠友会幹部から石間に「竹中正久と中山が沖縄県旭琉会からの招待を受けたため、沖縄に行ってから北海道に来ることになった。時期は1月下旬になる」と伝えている。
  22. ^ 昭和59年(1984年)から毎年2月に、関東二十日会と関東神農同志会は、合同食事会を催していた
  23. ^ 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.99~P.100
  24. ^ 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.102。なお、田岡文子は1月24日午後10時43分に肝硬変で死亡している。
  25. ^ 山口組は、昭和60年(1985年)8月23日に出した「義絶状」で「一和会をヤクザ組織として認めない」と宣言していた。手打ちとは、ヤクザ組織同士が行なうことなので、「和解」や「終結」の言葉が使われた
  26. ^ 1985年(昭和60年)年2月1日に福崎インターチェンジで、兵庫県警機動隊岡山県警の刑事に、野球賭博開帳で逮捕されていた。結局、竹中武は無罪となるものの、6月19日に保釈金1000万円で保釈されるまで(飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.98とP.107)の1年5ヶ月間勾留されていた。
  27. ^ 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.108。この席には竹中武を含めて直系組長86人が出席し、中西の決定については竹中武は異議を唱えなかった。
  28. ^ 一連の襲撃について渡辺は、シャブ打ってやったとしか思われない。プラスになることは一つもないと安東を非難している。これに対して、竹中武は自分の組の者(1月3日に山広組事務局長・浜西時雄を射殺し、8月8日に覚せい剤取締法違反で川西警察署に逮捕されていた井上浩のこと)がシャブ中だろう。渡辺が山口組五代目では、強い山口組にはなれないと発言している。なお、安東は山口組一心会(会長は桂木正夫川崎組組員となって、1990年(平成2年)9月12日午前1時前に大阪市北区西天満1丁目の中華料理店で逮捕されている(飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.330)。
  29. ^ a b 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.121

参考書籍