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ヴァスィリー・エロシェンコ

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エロシェンコ(ハルピンにて、1921年)

ヴァスィリー・ヤコヴレヴィチ・エロシェンコウクライナ語Василь Якович Єрошенкоロシア語Василий Яковлевич Ерошенко;ラテン翻字例 Vasiliy Yakovlevich Eroshenko1890年1月12日 - 1952年12月23日)はロシアエスペランティスト、作家、言語学者、教育者。1908年から1910年の間にエスペランティストになったと推定される。ウクライナ人。日本ではワシリー・エロシェンコとしても知られるが、名前の冒頭の発音はV音に相当する。なお、中国で作品を発表した際は「愛羅先珂」を名乗った[1]。なお、戦前期の日本ではしばしば「盲詩人エロシェンコ」と称されたが、詩人というよりは童話作家であるためやや不適切な呼称である。

旅の一生

現在のロシア連邦ベルゴロド州オブホーフカ出身。

エロシェンコは麻疹により4歳で失明したにもかかわらず、世界各地をエスペラントの助けを借りて旅した。1912年にはイギリスの盲学校へ最初の旅をした。1914年には、日本では視覚障害者がマッサージ(あんま)により自立しているとのことを聞いて来日し、東京盲学校(現在の筑波大学附属視覚特別支援学校)で学んだ。日本では盲学校生の間にエスペラントを広めた。

後にシャム(現在のタイ王国)に渡り、その地に盲学校を設立した。インドに渡ったが、逮捕され、ロシアのボルシェヴィキとして追放された。1919年の夏にシャンハイを経由して再び日本へと逃がれた。日本語もよくできたので、日本語の児童文学の作品を著わし、日本の進歩的な文学者の間で知名度があがった。中村屋秋田雨雀江口渙神近市子ら多くの文化人と交流し、その一人だった画家中村彝は「エロシェンコ氏の像」を描いた。1921年5月1日にメーデーと日本の社会主義者の会合への参加を理由に逮捕され、国外追放となった。そこで中国へ渡り、魯迅などの知己を得て、1922年には北京大学でロシア文学について講演したり女子師範学校で講演したりした。

ソ連にて

著作

全文エスペラントによる峰芳隆編集のエロシェンコ選集(Elektitaj verkoj de Vasilij Eroŝenko)により、主な著作を示す。

  • Lumo kaj ombro (=「光と影」、中国滞在時に著わされたエスペラント原作集)
  • La tundro ĝemas (=「ツンドラはうめく」、チュクチ半島滞在経験をもとにしたエスペラント原作集)
  • Malvasta kaĝo (=「狭いかご」、日本語原作集)
  • Stranga kato (=「変わり猫」、日本語原作集)
  • La kruĉo de saĝeco (=「賢さのつぼ」、エスペラント原作集)
  • Cikatro de amo (=「愛の傷跡」、中国語原作集)

参考文献

  1. ^ 高杉一郎著「ひとすじのみどりの小径」 p144