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宇部日報

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宇部日報
種類 夕刊
サイズ ブランケット判

事業者 株式会社宇部日報社
本社 山口県宇部市寿町二丁目3番17号
創刊 1912年7月15日
前身 宇部時報
ウベニチ新聞
言語 日本語
価格 1部 70円
月極 1,835円
ウェブサイト http://ubenippo.co.jp/
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宇部日報(うべにっぽう)は、株式会社宇部日報社が発行する日本の新聞全国郷土紙連合加盟。

概要

山口県宇部市山陽小野田市山口市阿知須地区を中心に発行している。

1912年明治45年)に、宇部時報社が宇部時報を発刊した。その後1949年(昭和24年)に、当時宇部時報社の記者・編集局長だった藤井清らによってウベニチ新聞社が設立され、ウベニチ新聞が発刊した。宇部市においてはこの2つの夕刊紙が発行されていたが、2004年平成16年)3月1日に両者が合併して宇部日報社となり、新たに宇部日報として発行されている。宇部日報社の本社所在地である宇部市と山陽小野田市の2市および山口市阿知須地区を中心とした地域情報を掲載する。

夕刊のみ発行で、日曜祝日が休刊日となっている。ラテ欄は夕方6時~深夜までのテレビ番組表を最終面に、翌朝から翌夕までのTVと発行日の夕方のラジオ表を中面掲載している。

他に、新聞折り込みのフリーペーパー「サンデーうべ」「サンデー小野田」を発行している。

歴史

  • 1912年明治45年)7月15日 - 宇部村(現・宇部市)で紀藤閑之介宇部時報を創刊。当初は月刊紙で、今日のフリーペーパーのように、購読料・送料などは全て無料(紀藤の個人負担)だった。
  • 1914年大正3年) - 上郷与吉と脇順太が新聞発行に協力。
    • 9月25日 - 紀藤閑之介が社主、脇順太が社長となって法人を設立し、有料紙となる。
  • 1920年(大正9年) - 自社印刷を開始。
  • 1926年(大正15年)7月21日 - 日刊紙に転向。
  • 1932年昭和7年) - 脇順太の死去に伴い、その夫人・脇タキが2代目社長に就任。当時、新聞社としては珍しい女性社長だった。
  • 1939年(昭和14年) - 脇タキの死去に伴い、脇昂が3代目社長に就任。
  • 1941年(昭和16年) - 太平洋戦争に伴う新聞統廃合令で「関門日日」(後に「関門日報」「防長新聞」とも)に改名・統合される。
  • 1945年(昭和20年)7月2日 - 宇部市での空襲で社屋が被害にあう。
  • 1946年(昭和21年)2月1日 - 脇昂、藤井清によって宇部時報がタブロイド判で復刊。
  • 1949年(昭和24年)
    • 5月 - 脇昂が代表取締役となって株式会社化。紙面が現在の大きさとなる。
    • 10月15日 - 宇部時報記者・編集局長の藤井清とその友人らが中心となり、「日本一小さな新聞」ウベニチ(後のウベニチ新聞)が週刊紙として創刊。紙名は「宇部の日曜新聞」という意味から付けられた。当時は、宇部市近郊において宇部時報や夕刊新宇部など8紙が発行されていたほか、本社所在地である宇部市の琴芝駅通り周辺には朝日新聞、毎日新聞、中国新聞、西日本新聞などの支局・通信部があり、激戦区となっていた。
    • 12月 - ウベニチ新聞社が株式会社化し、その後ウベニチ新聞が日刊となる。
  • 1950年(昭和25年)
    • ウベニチ新聞社が小野田支局(当時の小野田市、現・山陽小野田市)、床波支局(宇部市西岐波)を開設。この年から「うまい菓子品評会」や「初夢新聞くじ」、「かっぱまつり」といった地元でのイベントを積極的に開催し、地域に根ざした新聞社作りを実践。
    • 藤井清の死去に伴い、藤井孝明が2代目ウベニチ新聞社社長に就任。
  • 1969年(昭和44年) - 「愛の小箱運動」と題したチャリティーキャンペーンを開始。
  • 2004年平成16年)3月1日 - 宇部時報社とウベニチ新聞社が合併(手続き上の存続会社は宇部時報社)。社名を宇部日報社に改称し宇部日報を発刊。

事業拠点

本社
印刷センター
  • 〒755-8557 山口県宇部市寿町三丁目6番1号
支社

外部リンク