コンテンツにスキップ

福浦和也

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Xcab (会話 | 投稿記録) による 2010年10月11日 (月) 05:18個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

福浦 和也
千葉ロッテマリーンズ #9
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 千葉県習志野市
生年月日 (1975-12-14) 1975年12月14日(48歳)
身長
体重
183 cm
88 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 一塁手外野手
プロ入り 1993年 ドラフト7位
初出場 1997年7月5日
年俸 9,500万円(2010年)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

福浦 和也(ふくうら かずや、1975年12月14日 - )は、千葉ロッテマリーンズに所属するプロ野球選手内野手)。

2001年から2006年まで6年連続で打率3割を記録したアベレージヒッター。3度ゴールデングラブ賞を獲得したこともあり守備の評価も高い。

来歴・人物

1993年ドラフト7位で投手として入団。しかし半年で3回肩を壊し打者に転向。入団4年目の1997年振り子打法を引っさげ一軍デビュー、即座に一塁のレギュラーに定着。しかしその後は石井浩郎ボーリック初芝清などにポジションを譲り外野を守ることも多くなった。

2001年一塁手に復帰し、才能が開花。7年連続首位打者イチローメジャーリーグに渡った最初の年に、小笠原道大(当時日本ハム)との熾烈な争いを制し打率.346で首位打者を獲得した。また18本塁打を放ち、初芝清以来不在だった千葉ロッテの和製大砲としての期待にも応えた。

2002年はタイトルホルダー故の厳しいマークに遭い17死球を受けるも打率3割をマーク。

2003年には全140試合に出場し、打率3割、50二塁打に加え21本塁打も記録。外国人選手起用の都合上で夏場に3年ぶりに外野を守ったが、2試合で元に戻された。また初めて一塁手でゴールデングラブ賞を獲得。

2004年、韓国で56本塁打を記録した李承燁が入団したが、この年も打率.314 11HRと安定した実力を見せ一塁のレギュラーを守った。

2005年は故障もありやや低調なシーズンだったが、終盤の追い込みで辛うじて5年連続の打率3割(.29953、四捨五入でピッタリ.300。ちなみに、2002年は.3003でピッタリ.300だった)達成。チャンスでの強さは変わらず、千葉ロッテのプレーオフ進出に大きく貢献した。そのプレーオフでは終始好調を維持し、千葉ロッテの31年ぶりの優勝に貢献した。日本シリーズ第3戦では阪神桟原将司から満塁本塁打を放った。アジアシリーズでは腰痛のため選手登録はされなかったが、チームはアジアシリーズを制し初代チャンピオンとなる。また、この年にはリーグトップの犠飛(9本)を打っている。

2006年4月、初の月間MVPを受賞。また7月に死球により左手を骨折し、約1ヶ月間の戦線離脱もあったが、6年連続の打率3割を達成。成績は打率.312、4本塁打。同年、FA権を取得。

2007年は開幕から故障し、5月までは3割をキープして復帰直後こそ高打率だったものの、怪我の影響で打率を徐々に落とし、打率.258、本塁打4という自己最悪の成績に終わってしまった。前年まで左投手に対して3割近く打っていたが、この年は打率.181に終わった。しかし勝負強さは健在で、得点圏打率は.339。さらに打点は57と前年より多かった。規定打席にはわずか1打席足りず届かなかった。それでも守備では往年の動きが健在で、自身3度目のゴールデングラブ賞を獲得。オフには複数年契約が切れ、メジャー挑戦も視野に入れたFA宣言も噂されたが、宣言せずに残留した。[1]

2008年も怪我をし、前年度の自己最低記録を更新してしまった。復帰後はDHや代打での出場が多くなった。

2009年 シーズン当初はここ数年同様低調で打率は2割前半に沈み、またチャンスに弱く得点圏打率は1割台、長打率も2割台後半まで低くなり打順は主に2番や8番で堀幸一ゲイリー・バーナム・ジュニアと併用されていたが、8月後半から徐々に調子を上げ、勝負強さと長打力を取り戻しシーズン終盤には再び3番に定着、3割には届かなかったものの2年ぶりに100安打、3年ぶりに規定打席に到達した。

2010年は、一塁手の金泰均の加入で主にDHや代打の切り札として出場。この年はここ数年の不振から脱却し、序盤は7番や代打で出場していたものの後半戦は里崎智也サブローの離脱や大松尚逸の不振から6番や5番を打つことも多くなり、9月8日のオリックス戦では不振の金泰均に変わって、7年ぶりに4番でのスタメン出場を果たした。規定打席には到達しなかったものの最終的に打率は.295を記録し、ここ数年減少していた本塁打も13本と04年以来の2桁を記録した。

プレーの特徴

長身で均整の取れた体型にそぐわず足はあまり速くなく、内野安打は少ない。ライナーで外野の間を抜く二塁打を量産し、2001年には首位打者をとったが盗塁ゼロ。首位打者&盗塁ゼロは初めてのことだった。

ここ数年は怪我の影響で本塁打が減少しているが、2005年の日本シリーズ2007年クライマックスシリーズでは本塁打を放っている。

春先は調子の出ないことも多いが、5~6月に調子を上げ、夏場に調子を落とすケースが多い。しかし秋に入ると再び調子を取り戻す傾向にある。2006年シーズンは3・4月度月間MVPを獲得し6月まで打率ランキング1位だったが、夏場の不振(7月の月間打率は1割台)で最終的にはランキング5位となった。

その他

  • 愛称は「はっちゃく」で本人のブログでも使われている。また「はっちゃく」という地酒も発売されている。
  • 元々右利きだが、幼少時の怪我が原因で左投げに転向した。ちなみに足は左利きである。
  • ドラフト同期には諸積兼司大塚明立川隆史小野晋吾らがおり層が厚い。福浦は第7回選択希望選手、全球団最終指名でプロ入り。多数指名が解禁された1991年以降のドラフト最終指名者では田畑一也(1991ダイエー10位)らが活躍している。福浦は地元でもあり「ロッテの隠し球」として注目された。ドラフト下位指名はチームスカウトの自由裁量によるところも大きく、それゆえ注目選手目白押しの上位指名よりも各球団スカウトの腕や傾向、場合によってはスタンドプレイが出ることが多いが、地元ブランドの福浦に目を付けたこの年のドラフト戦略は大当たりだったと言える。
  • トークはあまり得意ではないとのこと。実際、ヒーローインタビューなどの場でも決して無愛想ではないが、口数は多くない。
  • 若い頃から髪が薄く、現在ではスキンヘッドにしている(正確にはうっすら髪が生えていることもある)。ダッグアウトにいる時は、帽子やヘルメットは被っていない。
  • ショートバウンドの処理、股関節の柔らかさを生かした一塁守備は日本でトップクラスを誇る。週刊ベースボール3月17日号によると今江敏晃は「福浦さんがいなかったらチームの失策数は倍に増えている」、小坂誠は「自分の守備がうまいと言われているのは福浦がいたおかげ」と語っている。
  • ボビー・バレンタイン監督の采配は打順が一定しないことで知られるが、福浦はほぼ3番に固定されている。しかし2007年以降は不振から2番や7,8番を打つこともあった。
  • 家族は夫人と一男。なお息子の名前の一部に彼を見出した山本功児前監督にあやかって「功」の字が使われている。
  • 一軍デビュー当時は完全な振り子打法で、「イチローのそっくり選手」と報道されたこともあった。
  • 彼の打席での応援歌は、まず最初に「すばらしきヒコーキ野郎」が原曲のものが充てられ、その後2001年夏限定のマイナーメロディーの応援歌が作られた。現在使われている応援歌はその後にできたもので、在日韓国人のミュージシャンが作曲し韓国でヒットした「ヘビョヌロガヨ」が原曲となっており、トランペットのメロディーと観客席の応援団の歌うメロディーがさながら輪唱のように追っかけの形になっていたり、後半はハモリになっていたりと、今までなかった斬新なアイデアが盛り込まれている。さらに近年では、彼の出身校である市立習志野高校の応援歌も時折用いられており、開幕戦などでは同校のブラスバンド部が彼の打席で演奏するようにもなっている。
  • 2010年5月13日の交流戦横浜ベイスターズ戦(横浜スタジアム)にて6回表1死満塁の場面で代打出場し、真田裕貴から、ライトポール際へ大飛球を放ち、最初は一塁塁審にファールを宣告されるも、2010年から導入されたビデオ判定によりホームランと認定され代打逆転満塁ビデオ判定弾となった。ビデオ判定導入以降ファウルが本塁打に覆ったのは初。
  • ピアノを弾くのがうまく、地元の学校の卒業式で福浦がピアノを弾くというケースがある。これは同じくピアノを弾く今江も同様である。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1997 ロッテ 67 242 218 27 63 8 1 6 91 23 0 1 1 1 19 2 3 36 5 .289 .353 .417 .770
1998 129 526 465 61 132 32 3 3 179 57 1 2 0 6 51 3 4 78 10 .284 .356 .385 .740
1999 114 284 256 21 71 15 1 3 97 35 0 0 0 3 21 1 4 38 5 .277 .338 .379 .717
2000 131 494 446 58 132 21 4 7 182 56 1 1 6 4 34 2 4 59 15 .296 .348 .408 .756
2001 120 519 451 82 156 30 4 18 248 67 0 2 2 3 58 3 5 74 10 .346 .424 .550 .973
2002 135 565 493 48 148 40 0 9 215 66 2 1 0 3 52 3 17 73 10 .300 .384 .436 .820
2003 140 623 567 75 172 50 1 21 287 76 2 3 1 5 48 6 2 89 22 .303 .357 .506 .863
2004 128 569 506 67 159 42 1 11 236 73 2 1 2 4 47 0 10 82 8 .314 .381 .466 .847
2005 114 491 434 54 130 25 1 6 175 72 0 2 0 9 39 0 9 55 5 .300 .363 .403 .766
2006 114 484 436 43 136 20 1 4 170 52 0 3 3 7 33 5 5 52 11 .312 .362 .390 .752
2007 110 445 395 41 102 20 1 4 136 57 0 1 2 6 38 3 4 44 8 .258 .325 .344 .669
2008 105 371 310 39 78 9 0 1 90 44 0 0 1 7 50 2 2 49 10 .252 .352 .290 .643
2009 129 460 396 47 108 18 0 6 144 39 1 0 11 3 46 0 4 65 8 .273 .352 .364 .716
2010 116 359 322 42 95 19 0 13 153 61 0 0 3 3 28 2 3 47 8 .295 .354 .475 .829
通算:14年 1652 6432 5695 705 1682 349 18 112 2403 778 9 17 32 64 564 32 76 841 135 .295 .363 .422 .785
  • 2010年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績


一塁 外野
























1997 65 546 30 7 47 .988
1998 127 1116 65 6 133 .995
1999 74 258 23 5 35 .990 18 20 1 1 0 .955
2000 93 644 43 2 54 .997 58 74 2 4 1 .950
2001 116 1122 59 5 92 .996
2002 133 1195 76 6 97 .995
2003 135 1328 101 7 109 .995 2 3 0 0 0 1.000
2004 111 1040 65 6 106 .995
2005 112 1020 48 7 95 .993
2006 112 1019 70 6 80 .995
2007 103 902 68 5 73 .995
2008 86 642 56 2 58 .997
2009 124 869 73 1 74 .999
2010 10 75 4 1 7 .988
通算 1401 11776 781 66 1060 .995 78 97 3 5 1 .952

タイトル・表彰

個人記録

初記録
節目の記録
  • 1000本安打:2004年8月20日、対福岡ダイエーホークス23回戦(千葉マリンスタジアム)、3回裏に斉藤和巳から中前安打 ※史上225人目
  • 1000試合:2005年5月12日、対阪神タイガース3回戦(千葉マリンスタジアム)、3番・一塁手として先発出場 ※史上402人目
  • 1500本安打:2009年5月2日、対福岡ソフトバンクホークス5回戦(福岡Yahoo! Japanドーム)、8回裏に水田章雄から左中間へ2点適時二塁打 ※史上99人目
  • 1500試合:2009年8月19日、対オリックス・バファローズ17回戦(千葉マリンスタジアム)、8番・一塁手として先発出場 ※史上166人目
  • 100本塁打:2010年3月22日、対埼玉西武ライオンズ3回戦(西武ドーム)、3回表に岸孝之から右中間へ2ラン シーズン1号 ※史上258人目

脚注

関連項目

外部リンク