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b-flower

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b-flower
別名 ビーフラワー
出身地 日本の旗 日本, 京都府
ジャンル ネオアコギターポップロック
活動期間 1985/86年2000年2010年
レーベル Seeds Records(自主レーベル)
1990年
ポルスプエスト・レコード(¡Por supuesto! Records)
1991年1992年
Sugarfrost Records(しゅがふろすと)、リヴァプール英国
1993年1994年
東芝EMI/スイートスプエスト・レーベル(suite¡supuesto!)
(1993年〜1998年
Seeds Record(自主レーベル)
1999年〜)
公式サイト b-flower official website
メンバー 八野英史ボーカルギター
岡部亘(岡部わたる)ドラムス
宮大ベース
鈴木浩ギター
旧メンバー 湯田洋志(ベース)
橋本宗樹(ドラムス)
小池克典 (キーボード

b-flower(ビーフラワー)は、1980年代中期に結成され、1990年代のネオアコギターポップ・ブームの一端を担った京都のネオアコ・バンド

概要

「八野英史の描く詞世界からあふれる無邪気さと残酷さを、叙情的なメロディ、繊細なギター・サウンドが包み込む」と評される[1]

ヴォーカル、全作詞および作曲の多くを担当する八野は、1994年7月ROCKIN'ON JAPAN紙上の三者対談から[2]スピッツ草野マサムネフィッシュマンズ佐藤伸治と共に「ひな菊三人衆」と呼ばれた。

メンバー

旧メンバー

  • 湯田洋志(ゆだ ひろし)(B)
  • 橋本宗樹 (はしもと むねき)(D)
  • 小池克典(こいけ かつのり) (Key)

来歴

198586年頃、八野の先導で京都にて結成。初期の中核メンバーは、八野、橋本、湯田、小池。当初はバンド名もなかった。週一回のペースで仕事が終わってからの深夜のスタジオ練習を続け、次第に二ヶ月に一回あたりのペースで京都のライヴハウスでライヴを行うようになる。

1987年頃、当時のギタリストが辞めたため、オーディションを行い、鈴木の加入が決まる。

自主レーベル「Seeds Record」を立ち上げ、1990年、その第一弾として自主製作したEP『日曜日のミツバチ』でインディーズ・デビューし、脚光を浴びる。

ドラマーの橋本が仕事の都合によりやむなく脱退したため、八野の大学時代のバンド仲間であった岡部に打診。岡部は当時、おかげ様ブラザーズのドラマーであったが、快諾し加入が決まる。

1991年9月、東京で初ライブツアーを行う。

ポルスプエスト・レコードの第一弾アーティストとして1992年に、初のフルアルバム『ペニーアーケードの年』をリリースする。

数ヶ月後に、EP 『Nobody Knows This Is Nowhere』をリリース。この頃、ベースの湯田も家庭の事情でやむなく脱退、湯田本人の推薦により、宮の加入となる。同年末に、2nd アルバム『ムクドリの眼をした少年』がリリースされる。

同時進行で、英国 Sugarfrost Recordsポルスプエスト・レコードによる、英日の新進インディーズ・バンドのコンピレーション盤『The Birth of The True』に参加して、英国デビュー。唯一の日本語演奏であったにもかかわらず、"the best of all" と現地メディアに絶賛される(NME紙、Melody Maker紙8月付)。リバプールインディーズレコードレーベルである Sugarfrost Records からは引き続き、1993年に『Stay Still』を、1994年に『Strings』をそれぞれ7インチでリリース、再度の絶賛、特に NME 紙からは 「今週、いや今年一番の驚き」 との大絶賛を受ける(レヴュー記事は『Stay Still』の項を参照のこと)。

日本でも、1993年に『World's End Laundry〜メルカトルのための11行詩〜』が東芝EMIからのリリースとなり、メジャーデビューを飾る。また、同アルバム収録曲『』が、デビューシングルとなる。その後、ミニアルバムを含む5アルバム、深夜TV番組のタイアップとなった『太陽の雫』を含む8シングルが、それぞれリリースされた。

1998年の同名アルバム『b-flower』のリリース後、京都に戻って自主レーベルを「Seeds Records」として再起動し、少年期の心象をテーマにした Five Beans Chup というユニットによるリリースや Humming Toad としての岡部のソロリリースを行った。b-flower 名義でも、別レーベルから『Paint My Soul』を発表するなど精力的な活動をみせたが、今世紀に入ってからは事実上の活動休止に入り、ごく最近までほぼ休眠状態であった。

2010年現在、Livingstone Daisy という新たな変名ユニットによる新作の発表が予定されている。メンバーとして、過去のアルバムのいくつかのアレンジやプロデュースを手がけた細海魚の参加が明らかになっている。

ディスコグラフィ

EP

アルバム

ミニアルバム

シングル

アナログ 7インチ 英国リリース

英国 Sugarfrost Records によるリリース。

その他

変名ユニットによる自主製作盤

Five Beans Chup

Humming Toad(岡部のソロユニット):

エピソード

  • 公式に1988年結成となっていたのは、デビュー時に「あんまり昔からやってるというのも何か恥ずかしいし、メンバーがある程度固まった時点にしようか」という理由から(八野)[3]
  • 結成当初はオリジナル曲はなく、ペイル・ファウンテンズ(The Pale Fountains)をはじめ、エブリシング・バット・ザ・ガールベルベット・アンダーグラウンドルー・リードスミスフェルトなどをコピーしていた。「ペイル・ファウンテンズやスミスやフェルトとかをレパートリーにしているバンドなんて、当時は周りには皆無だったので、音楽的につながりのあるバンド友達はなく、完全孤立状態だったのを『空気』としてよく覚えている」と八野は語っている[3]
  • 鈴木の加入が決まったのは、「当時のギタリストにしては珍しく、スミスやアズテック・カメラが好きだったのと、証券マンとして安定した生活をおくりながらも『バンドでもせんと…』感が強く伝わってきたから」(八野)。ちなみに岡部は、八野が前作のEPを送って数日後「CD どうやった?」「なんか軟弱な感じやったけど(この正直者!)今はいろんな音楽に触れたいからやってみたい」。「なんかちょっと変わったヤツ」(八野言)だった宮の場合、連絡をとった八野への返答は「今、別にフラフラしてるし加入してもよい」であった。[4]
  • 198788年頃、八野と湯田と橋本は「上司と超超超モメながら、無理矢理有給休暇をもぎ取って」2週間ほどロンドンに滞在、主に小規模なライヴハウスを巡り、サマー・ヒル(Summer Hill)、ジャスミン・ミンクス(The Jasmine Minks)など、当時「C86」と呼ばれ「駆け出し」だった数々のインディーズバンドのライヴを体験。特に強く感銘を受けたバンドとして、当時まだ無名だったイースト・ヴィレッジ(East Village) を八野は挙げている[5][4]
  • 自主レーベルの立ち上げは、英国で7インチシングルを中心にリリースしていたブリストル在のインディペンデントレーベルのサラ・レコード(Sarah Records)に「インスパイアされた」。(サラ・レコードの)「家内制手工業的たたずまいは、一介のド・インディーバンドに『自主制作シングルの発売』という勇気を与えてくれた」(八野)。[6]
  • 大学時代、八野と岡部は、 The elements の渡辺とともにバンドをやっていた。岡部への打診も、渡辺の助言によるものだという[4]
  • 現メンバーでは、岡部と宮がアイリッシュ・トラッド(Traditional Music)への造詣が深いという[3]
  • 八野は b-flower を「引っ込み思案バンドランク日本第1位のバンド」と呼び、自身も「人前に立つのが苦手なヴォーカリスト」であると公言している[7][4]
  • 1993年4月から、FM京都 α-station のパーソナリティーとして3時間の番組をやっていた。

脚注

外部リンク