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榊原鍵吉

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河鍋暁斎画『暁斎楽画 第二号 榊原健吉山中遊行之図』。妖怪たちの脅しにも動じない鍵吉の豪胆さを描いた画。

榊原 鍵吉(さかきばら けんきち、1830年12月19日文政13年11月5日) - 1894年明治27年)9月11日)は、幕末から明治にかけての武士剣術家。は友善(ともよし)。

男谷信友から直心影流男谷派剣術を継承した。明治維新後に撃剣興行を主宰して剣術家を救済したことや、明治20年(1887年)の天覧兜割などで知られ、「最後の」と呼ばれる。

年譜

  • 文政13年(1830年)、江戸麻布の広尾生まれ。父は御家人・榊原益太郎友直。5人兄弟の長男であった。

直心影流免許皆伝へ

  • 天保13年(1842年)、13歳のときに直心影流剣術・男谷信友道場に入門する。当時、男谷道場は広尾から近い狸穴にあった。しかし、同年に母が没し、父益太郎は下谷根岸に移ったために狸穴は遠く不便となった。その上、鍵吉は亡き母に代わって家の雑務や兄弟の面倒を見る必要があった。見かねた男谷は、玄武館士学館練兵館など名のある道場の方が近くて便利だと移籍を促した。しかし鍵吉は、いったん入門した以上は他に移る気はないと言って通い続けた。
  • 鍵吉はめきめき上達したが、家が貧乏なため、進級しても切紙目録など、費用のかかる免状を求めたことがなかった。嘉永2年(1849年)、男谷は事情を察し、男谷の方で用意を整えてやり、鍵吉に免許皆伝を与えた。

講武所時代

  • 安政3年(1856年)3月、27歳のときに男谷の推薦によって講武所剣術教授方となる。後に師範役に昇進。
  • 安政7(1860年)年2月、講武所が神田小川町に移転した際、2月3日の開場式に将軍徳川家茂大老井伊直弼ら幕閣が臨席して模範試合が開かれた。鍵吉は槍術高橋泥舟(謙三郎)と試合した。すでに高橋は井戸金平と対戦して、相手の得意技である足絡みで勝ち、席を湧かせていた。鍵吉は高橋に勝って、満座の喝采を浴びた。これを家茂が気に入り、鍵吉は将軍の個人教授を務めるようになる。
  • 文久3年(1863年)、将軍上洛に際し、お供をする。二条城内で新規お召し抱えの天野将曹将監とも)と試合して勝つ。天野は男谷派の同門だが、新規お召し抱えの意地もあって「参った」と言わず、それならばと鍵吉は激烈な諸手突きを食らわせ天野をひっくり返したという。また鍵吉は、京都四条河原土佐藩浪人3人を斬ったともいう。
  • 慶応2年(1866年)7月、家茂が大坂城で没すると、江戸に戻る。11月に講武所が陸軍所と改称、組織替えになると、職を辞して下谷車坂に道場を開いた。

維新前後

撃剣興行など

  • 明治5年(1872年)、士分以上の帯刀が禁じられたことで、道場経営が立ちゆかなくなり、警察武術教授らも不要として職がなくなる。鍵吉は、これら武芸者の救済策として、明治6年(1873年)に「撃剣会」を組織、浅草見附外の左衛門河岸で見世物興行する。これが撃剣興行の始まりで、東京で40数カ所、地方にも及んだ。
  • 今日では、鍵吉のことを「撃剣興行によって剣術の命脈を保った功労者」と見る向きが多いが、当時は「(神聖な)剣術を見世物にしている」という批判も少なくなかった。

「最後の剣客」として

参考書籍