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槇文彦

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槇 文彦(まき ふみひこ、1928年9月6日 - )は日本建築家モダニズム建築の正統的な作品や幕張メッセなどのメタリックな作品で知られる。

来歴・人物

東京都出身。母方の祖父は竹中工務店の会長を務めた竹中藤右衛門。東京大学工学部建築学科に入り、1952年卒業。丹下健三の研究室で外務省庁舎のコンペを担当した後、アメリカ合衆国に留学し、クランブルク美術学院およびハーバード大学大学院修士課程修了。1954年に、スキッドモア・オーウィングズ・アンド・メリル、翌1955年には、セルト・ジャクソン建築設計事務所に勤務。その後はワシントン大学 (セントルイス)とハーバード大学で都市デザインを講じた。1965年に槇総合計画事務所を設立。1979年 - 1989年に東京大学教授を務めた。戦後モダニズム建築の正統的な建築家と評されている。

設計思想・評価

  • ハーバード大学時代にジョゼップ・ルイス・セルトスタジオで学んでいたこともあり、かなり純粋なモダニズム建築の作家といえる。
  • ヒルサイドテラスは旧山手通り沿いで数次にかけて実施したプロジェクトであるが、ヒューマンスケールな空間構成、成長する都市建築として高く評価されている。10m軒線を守り、用途地域が変わった第六期では、10m以上の部分をセットバックさせている。一方、幕張メッセなどではモダン・無機質でメタリックなデザインが印象的である。
  • 「空間の重層性」を意識し、東京キリストの教会の礼拝堂大開口や、テレビ朝日の立体格子などに特徴的に現れている。
  • 槇の建築の端正さは、日本のゼネコンの技術力によるものだ、と言われたこともある。しかし、イザール・ビューロ・パークで現地の施工業者を使い、第一線級の作品を仕上げたことでその評価が誤りだったことを証明した。(GA JAPAN二川幸夫が述べたエピソード)
  • 槇本人が、作風について「豊田講堂が一番丹下先生に近かった。」と述べている。(新建築
  • タマちゃんのような建築をつくりたい。」と述べた。(GA JAPAN)
  • 福田和也曰く、「現在世界で一番ヴァルター・グロピウスのコピーが上手な建築家である。」とのこと。

受賞

作品

建築作品

進行中のプロジェクト

構想・都市計画

  • 新宿副都心ターミナル再開発(大高正人・ミド設計研究所と) 1960年
  • サンフランシスコ再開発競技設計案 1961年
  • 堂島再開発計画 1961年
  • ローゼンバーグ部庭園計画・ボストン 1966年
  • 後楽園総合開発計画 1967年-1968年
  • 立正大学熊谷キャンパス総合計画 1965年-1967年
  • 環境整備計画(大阪府高石市) 1967年
  • 羽衣駅周辺都市改造事業計画(大阪府高石市) 1968年
  • 百草団地センター 1968年-1969年
  • ウィーン国際会議場・国連事務機構都市国際設計競技応募案・群造形 1969年
  • 国連ペルー低所得者層集合住宅国際指名競技設計 1969年
  • 泉北大蓮公園計画(大阪府堺市) 1969年
  • 横浜市海の公園基本構想 1969年-1970年
  • 小田原駅前再開発計画の協力 1970年
  • ボストン市交通網計画
  • 筑波大学キャンパス計画

著作・作品集

日本の都市・建築の「奥」について述べている。西洋の「中心」の「塔のある文化」との対比は興味深い。槇事務所スタッフの若月幸敏大野秀敏高谷時彦(後者2名については現在は独立)も一章ずつ執筆している。
4でのヒルサイドテラスの特集では、槇自身が隅入りや円柱について述べている。当時は進行中のプロジェクトであったテレビ朝日なども掲載されている。
  • 槇事務所のディテール(鹿島出版会)
  • ヒルサイドテラス・ウエストの世界

その他

  • 元倉眞琴栗生明高谷時彦などは槇総合計画事務所の出身である。また、新建築誌上で伊東豊雄らを野武士と名づけたことは有名である。コンペの審査員などでは、東京国際フォーラム公開コンペの審査委員長などを務めた。
  • 現代建築の軌跡(INAX出版)では、豊田講堂の図面をル・コルビュジエに見せて、耐震壁について注意されたことを語っている。
  • 小嶋一浩は、当時東大教授だった槇に、助手就任を要請されたのはスパイラルの一階カフェであることを明かしている。
  • 槇事務所は現在、ヒルサイドウエストにある。
  • セルトはかつてル・コルビュジエのアトリエで前川國男の同僚だったことから槇の帰国後前川との親交が始まった。

関連項目

外部リンク