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岡崎空襲

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籠田公園にある「戦災復興之碑」

岡崎空襲(おかざきくうしゅう)は、太平洋戦争末期の1945年昭和20年)7月19日未明から20日にかけてアメリカ軍によって行われた愛知県岡崎市への大規模な空襲

同日には、福井空襲福井県福井市)、日立空襲茨城県日立市)、銚子空襲千葉県銚子市)、日本石油関西精製所(兵庫県尼崎市)への爆撃も行われている。この空襲により、死者203名、行方不明13名、32,068名の被災人員を出した。建物は、岡崎市中心部を中心に全壊7312戸、半壊230戸の被害を出し、主要な施設のほとんどが焼失した。

経緯

1945年昭和20年)1月5日5時20分頃、岡崎市は初めて米軍による爆撃を受けた。この時は、B-29爆撃機一機が洞町に焼夷弾を投下し、8戸250坪を焼いただけだった[1]1月9日には、B-29爆撃機三機が岡崎上空に侵入した。さらに5月14日8時50分頃、再び洞町に焼夷弾が投下され、2戸50坪が全焼した[1]

6月に入ると、57の地方都市が爆撃目標として設定され、岡崎市もリストに加わった。このほか、岐阜市一宮市桑名市大垣市といった名古屋市周辺の都市も含まれた。アメリカ合衆国戦略爆撃調査団の『名古屋市爆撃の効果』(名古屋市鶴舞中央図書館訳)という報告書には、これらの衛星都市を爆撃することで、第一に国民の戦意を打ち砕き、第二に産業を破壊することで労働力の拡散や士気を挫くことが目的に挙げられている[2]。また、『岡崎市爆撃に関するカーチス・E・ルメー司令官の報告書』(小田孝平編・小田博訳)には、名古屋の大工場の下請工場が多くある岡崎を爆撃することで「補助的小工業を破壊」することに目標を置いていたとしている[3]

空襲

爆撃

7月19日9時、P-51の編隊が西三河に現れ、銃撃を行った。同日、米軍第20空軍より岡崎市爆撃(飛行番号280)の命令が下り、第314航空団のB-29爆撃機126機がグアム島のマリアナ基地グアム北飛行場を飛び立った[4]。58(福井)、73(日立)、313(銚子)の各航空団とともに北上し、硫黄島から14000ft~15400ftをとって紀伊半島から伊勢湾に侵入、20日0時過ぎに岡崎市上空に達した。当時、上空は雲に覆われていたという[5]

航空団は0時52分から2時10分にかけて爆弾を投下した。投弾高度は3900mで、焼夷弾を中心に12,506発が投下された[6]。爆撃は、まず明大寺町、そして大西町などの市周辺部に焼夷弾が投下され、次いで中心部に投下された[7]。この爆撃で、連尺町や康生町などの中心部を焼き尽くし、10時頃まで燃え続けた[6]


20日早朝から菅野経三郎市長らが市役所に詰め、非被災地区の日名、元能見、大平、羽根などの町に対し、7時30分までに握り飯3万食を供給することを命じた。また、被災者に対する手ぬぐいや肌着などの供給も開始した。同日12時30分ごろには、米軍P-38爆撃機が8機襲来し、市民に機銃掃射を浴びせた[8]

被害

米軍の『岡崎市爆撃に関するカーチス・E・ルメー司令官の報告書』によれば、建造地域0.95平方マイルのうちの0.65平方マイルと、それ以外の地域0.03平方マイルが破壊されたとされる[9]。このうち、住宅地域0.85平方マイルのうちの0.60平方マイル、工業地域0.10平方マイルのうちの0.05平方マイルが破壊された。一方で、攻撃目標となっていた海軍岡崎飛行場日清紡績針崎工場、「有望な重工業」は損害を受けなかった[10]。全壊7,312戸、半壊230戸、死者203名、行方不明13名の被害を出し、被災人員は32,068名にのぼった。当時の岡崎市の戸数は約2万戸だったことから、3分の1以上が焼失したことになる[8]

この爆撃で、県立岡崎病院岡崎市立図書館、愛知第二師範学校、愛知県岡崎中学校岡崎市立高等女学校などの公共施設が焼失した。このほか、開校を控えていた岡崎高等師範学校も焼失した。また、連尺男川羽根国民学校が焼失し、三島根石の各国民学校もほとんど焼けた。一方で、岡崎市役所は数十発の焼夷弾を受けながら、待機していた市吏員から成る「自衛団」の機転によって焼失を免れた[7]名鉄岡崎市内線は、車両14両中7両(単車6両、散水車1両)や岡崎車庫が焼けるなど甚大な被害を被った[11]

軍による発表

20日中に軍司令部より空襲の発表があった。この時の米軍B-29"約80機"という数字は、市役所関係者が爆撃の中でとっさに推定したもの[4]

東海軍管区司令部発表(二〇日十二時)

一、B29約八〇機は七月十九日より約二時間に亘り志摩半島付近より逐次侵入し岡崎市附近を焼夷攻撃のち御前崎渥美半島の間より南方に脱却せり、これがため岡崎市および周辺地区に火災生じたるも官民の敢闘により払暁までに概ね鎮火せり — 「朝日新聞」 1945年7月21日[12]

復興

復興で拡幅された連尺通り

名鉄岡崎市内線は1週間で復旧した。復旧時は残された車両での運用が続いたが、名古屋市電から車両を5両購入し、名鉄モ90形電車として投入した[11]

焼け跡にはバラックが次々と建てられ、東岡崎駅前、モダン通り、松本町に青空市場が開設された[13]1946年(昭和21年)7月、東岡崎駅前のバラック店舗が八幡町に約200軒移転した。また、松本町の松応寺には松応寺盛り場商店街が開いた。9月には、康生町に岡崎セントラルアーケードや、国勢チェーンストアが開業するなど、賑わいを取り戻していった。

1946年9月、岡崎市は特別都市計画法の「戦災都市」指定を受け[14]、罹災地域60万坪のうち45万坪を対象とする戦災復興土地区画整理事業を計画した[15]。岡崎市では、愛知県が土地区画整理や住宅移転を行い、市が街路上下水道ガスの敷設や、緑地の整備などを執行することとなった。1946年度より5ヵ年計画で4677万4000円をかけて計画を実行し、そのうちの8割を国庫から、残りを県と市で均等に割り振られた。しかし、1949年(昭和24年)のドッジラインにより国庫負担が8割から5割に減額され、このことから一次施行地域を37万6000坪に設定した[16]。二次施行地域とされた7万4000坪は被害の少なかった地域だったが、1957年(昭和32年)に一次施行地域を40万坪に拡大した。このほか、幹線道路を40mから30mに、街路の最小復員を6mから4mに変更した。また、同年には住宅建築は焼失の89%を、一次計画のうち約8割を完成させた。これは戦災都市のなかでは最も速やかで、建設大臣から表彰を受け、「戦災復興モデル都市」の指定を受けた[15]

1953年度(昭和28年)までに一次施行計画はほぼ完了した。名鉄岡崎市内線は、岡崎殿橋駅能見町駅の間で軌道の移設が行われ、本町通りの拡幅にともない岡崎殿橋駅~康生町駅間が複線化された[17]。また、東岡崎駅前に駅前広場が整備された。一方で、計画されていた墓地の移転は実現せず、法務施設の郊外移転は事業完了後の1962年(昭和37年)から始まった[18]1954年度(昭和29年)からは残りの事業を岡崎市が単独で行い、1958年度(昭和33年)にすべての事業を完了した。総事業費は2億2600万円で、当初計画の5倍弱を費やした[19]。このうち、国が9700万円、顕が2300万円を負担した。1957年(昭和32年)11月に戦災復興祭が開かれ、1958年4月に籠田公園に「戦災復興之碑」が建立され、戦災復興は一つの区切りを向かえた[19]

1972年(昭和47年)7月19日、岡崎市の主催する「第1回岡崎市戦没者及び戦災死者追悼式」が開催された。以降、毎年7月19日に式が開かれている。

参考文献

  • 新編岡崎市史編集委員会『新編岡崎市史』 岡崎市。
  • 東海新聞社『岡崎市戦災復興誌』 岡崎市役所、1954年。
  • 藤井健『名鉄岡崎市内線―岡崎市電ものがたり RM LIBRARY (48)』 ネコパブリッシング、2003年。

脚注

  1. ^ a b 岡崎市戦災復興誌 27頁
  2. ^ 新編岡崎市史 史料近代下 1525頁
  3. ^ 新編岡崎市史 史料近代下 1533頁
  4. ^ a b 新編岡崎市史 近代 1275頁
  5. ^ 新編岡崎市史 近代史料下 1540頁
  6. ^ a b 新編岡崎市史 近代 1276頁
  7. ^ a b 新編岡崎市史 現代 15頁
  8. ^ a b 新編岡崎市史 近代 1277頁
  9. ^ 新編岡崎市史 史料近代下 1539頁
  10. ^ 新編岡崎市史 史料近代下 1541頁
  11. ^ a b 名鉄岡崎市内線 7頁
  12. ^ 新編岡崎市史 近代史料下 1523頁より引用。
  13. ^ 新編岡崎市史 現代 3頁
  14. ^ 新編岡崎市史 現代 20頁
  15. ^ a b 新編岡崎市史 現代 4頁
  16. ^ 新編岡崎市史 現代 21頁
  17. ^ 名鉄岡崎市内線 9頁
  18. ^ 新編岡崎市史 現代 22頁
  19. ^ a b 新編岡崎市史 現代 23頁

関連項目

外部リンク