本多忠鄰
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本多 忠鄰(ほんだ ただちか、文化9年(1812年)? - 明治7年(1874年)1月12日)は、播磨山崎藩の第8代藩主。父は第6代藩主・本多忠居。母は堀直救の養女(堀直泰の娘。養母は本多忠顕の娘。正室は五島盛成の娘。側室多数。官位は従五位下。肥前守。大和守。肥後守。
1812年生まれと言われている。幼名は貞之助。1834年11月27日、先代藩主で兄の本多忠敬が病弱だったために隠居したため、その後を継いだ。藩財政再建を目指して、家臣の片桐内蔵治を家老に登用して倹約、経費節減、金融改革などを行なっている。幕末においては大砲の鋳造や海防に尽力し、第一次長州征伐では参加して功を挙げた。しかし第二次長州征伐では軍費不足で出陣できなかった。
また、学問に興味を示して天保年間に堀内次右衛門や大爺円治らを登用して学問奨励を行ない、藩校である思斉館を創設した。これは現在の山崎小学校の基礎になったと言われている。
1868年の戊辰戦争では、はじめ幕府側に与しようとしたが、後に思い直して新政府側についた。長男の寅次郎は早世していたため、次男の本多忠明を世子として1869年正月晦日に家督を譲って隠居した。1874年正月12日に死去。享年63。法号:大誠院殿前肥州宰吏徳護念徹実道大居士。墓所:山崎町上寺の大雲寺。