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空也

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空也

延喜3年 - 天禄3年9月11日
903年 - 972年10月20日

上段・旧暦宣明暦) 下段・ユリウス暦
法号 空也・光勝
尊称 阿弥陀聖、市聖、市上人
生地 尾張国?
没地 京都・西光寺(現、六波羅蜜寺)
宗旨 空也派
寺院 西光寺
延昌
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空也(くうや[1])は、平安時代中期の天台宗空也派の祖。阿弥陀聖(あみだひじり)、市聖(いちのひじり)、市上人と称される。民間における浄土教の先駆者と評価される。

踊念仏六斎念仏の開祖とも仰がれるが、空也自身がいわゆる踊念仏を修したという確証はない。

門弟は、高野聖など中世以降に広まった民間浄土教行者「念仏聖」の先駆となり、鎌倉時代一遍に、多大な影響を与えた[2]。  

生涯

空也誄』(くうやるい)[3]や、慶滋保胤の『日本往生極楽記』に、生存中から空也は皇室の出(一説には醍醐天皇落胤)という説が噂されるが、自らの出生を語ることはなかったとされ、真偽は不明。

922年ごろ、尾張国国分寺尾張国分寺)にて出家[3]し、空也と名乗る。

若い頃から在俗の修行者として諸国を廻り、南無阿弥陀仏の名号を唱えながら道路・寺などを造り、社会事業を行い、貴賤(きせん)を問わず幅広い帰依者を得る。

938年京都念仏を勧める。

948年比叡山天台座主延昌のもとに受戒し、「光勝」の号を受ける。(ただし、空也は生涯超宗派的立場を保っており、天台宗よりもむしろ奈良仏教界、特に思想的には三論宗との関わりが強いという説もある。[4])。

950年より金字大般若経書写を行う。備後国鞆の浦福禅寺を創建する。

951年十一面観音像ほか諸像を造立(梵天帝釈天像、および四天王のうち一躯を除き、六波羅蜜寺に現存)。

963年鴨川の岸にて大々的に供養会を修する[5]。これらを通して藤原実頼貴族との関係も深める。東山西光寺(京都市東山区、現在の六波羅蜜寺)において、70歳にて示寂。

彫像

六波羅蜜寺 空也上人像

空也の彫像は、六波羅蜜寺が所蔵する立像(運慶の四男 康勝の作)が、最も有名である。他には、月輪寺(京都市右京区)所蔵、浄土寺松山市)所蔵、荘厳寺(近江八幡市)所蔵が代表的である。いずれも鎌倉時代の作で、国指定の重要文化財である。

彫像の造形は、特徴的である。一様に首から鉦(かね)を下げ、鉦を叩くための撞木(しゅもく)と鹿の角のついた杖をもち、わらじ履きで歩く姿を表す。6体の阿弥陀仏の小像を針金で繋ぎ、開いた口元から吐き出すように取り付けられている。この6体の阿弥陀像は「南無阿弥陀仏」の6字を象徴し、念仏を唱えるさまを視覚的に表現している。後世に作られた空也の彫像・絵画は、全てこのような造形・図像をとる。

脚注

  1. ^ 「こうや」とも称される。
  2. ^ 『一遍聖絵』には、空也の遺跡とされる平安京東市の故地(現在の西本願寺付近)を訪れ、大々的に踊念仏を催した様が描かれている。岩波文庫大橋俊雄校注、2000年)や、『一遍上人全集 一遍聖絵 他』(春秋社、2001年)を参照。
  3. ^ a b 『空也誄』…空也の没後間もなく源為憲によって書かれた伝記。『空也上人誄』とも。
  4. ^ 石井義長『空也上人の研究―その行業と思想』
  5. ^ この際に三善道統の起草した「為空也上人供養金字大般若経願文」が伝わる。

参考文献

  • 石井義長 『空也上人の研究―その行業と思想』 法藏館、2002、大著
    • 石井義長 『阿弥陀聖空也 念仏を始めた平安僧』 講談社選書メチエ、2003
    • 石井義長 『空也 我が国の念仏の祖師と申すべし』 <日本評伝選>ミネルヴァ書房、2009
  • 伊藤唯真編 『浄土の聖者 空也 日本の名僧5』 吉川弘文館、2004
  • 堀一郎  『空也』 吉川弘文館〈人物叢書〉、1963
  • 速水侑 『平安仏教と末法思想』 吉川弘文館、2006

関連項目