空也
空也 | |
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延喜3年 - 天禄3年9月11日 | |
法号 | 空也・光勝 |
尊称 | 阿弥陀聖、市聖、市上人 |
生地 | 尾張国? |
没地 | 京都・西光寺(現、六波羅蜜寺) |
宗旨 | 空也派 |
寺院 | 西光寺 |
師 | 延昌 |
空也(くうや[1])は、平安時代中期の僧。天台宗空也派の祖。阿弥陀聖(あみだひじり)、市聖(いちのひじり)、市上人と称される。民間における浄土教の先駆者と評価される。
踊念仏、六斎念仏の開祖とも仰がれるが、空也自身がいわゆる踊念仏を修したという確証はない。
門弟は、高野聖など中世以降に広まった民間浄土教行者「念仏聖」の先駆となり、鎌倉時代の一遍に、多大な影響を与えた[2]。
生涯
『空也誄』(くうやるい)[3]や、慶滋保胤の『日本往生極楽記』に、生存中から空也は皇室の出(一説には醍醐天皇の落胤)という説が噂されるが、自らの出生を語ることはなかったとされ、真偽は不明。
922年ごろ、尾張国の国分寺(尾張国分寺)にて出家[3]し、空也と名乗る。
若い頃から在俗の修行者として諸国を廻り、南無阿弥陀仏の名号を唱えながら道路・橋・寺などを造り、社会事業を行い、貴賤(きせん)を問わず幅広い帰依者を得る。
948年、比叡山で天台座主・延昌のもとに受戒し、「光勝」の号を受ける。(ただし、空也は生涯超宗派的立場を保っており、天台宗よりもむしろ奈良仏教界、特に思想的には三論宗との関わりが強いという説もある。[4])。
950年より金字大般若経書写を行う。備後国鞆の浦に福禅寺を創建する。
951年、十一面観音像ほか諸像を造立(梵天・帝釈天像、および四天王のうち一躯を除き、六波羅蜜寺に現存)。
963年、鴨川の岸にて大々的に供養会を修する[5]。これらを通して藤原実頼ら貴族との関係も深める。東山西光寺(京都市東山区、現在の六波羅蜜寺)において、70歳にて示寂。
彫像
空也の彫像は、六波羅蜜寺が所蔵する立像(運慶の四男 康勝の作)が、最も有名である。他には、月輪寺(京都市右京区)所蔵、浄土寺(松山市)所蔵、荘厳寺(近江八幡市)所蔵が代表的である。いずれも鎌倉時代の作で、国指定の重要文化財である。
彫像の造形は、特徴的である。一様に首から鉦(かね)を下げ、鉦を叩くための撞木(しゅもく)と鹿の角のついた杖をもち、わらじ履きで歩く姿を表す。6体の阿弥陀仏の小像を針金で繋ぎ、開いた口元から吐き出すように取り付けられている。この6体の阿弥陀像は「南無阿弥陀仏」の6字を象徴し、念仏を唱えるさまを視覚的に表現している。後世に作られた空也の彫像・絵画は、全てこのような造形・図像をとる。
脚注
参考文献
- 石井義長 『空也上人の研究―その行業と思想』 法藏館、2002、大著
- 伊藤唯真編 『浄土の聖者 空也 日本の名僧5』 吉川弘文館、2004
- 堀一郎 『空也』 吉川弘文館〈人物叢書〉、1963
- 速水侑 『平安仏教と末法思想』 吉川弘文館、2006