フレディ・マーキュリー
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フレディ・マーキュリー Freddie Mercury | |
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基本情報 | |
出生名 | ファルーク・バルサラ |
生誕 |
1946年9月5日![]() |
死没 |
1991年11月24日(45歳没)![]() |
ジャンル |
ハードロック ヘヴィメタル プログレッシヴ・ロック グラムロック ピアノ・ロック ポップス |
職業 | ミュージシャン、作曲家、プロデューサー |
担当楽器 | ピアノ、ギター、キーボード |
活動期間 | 1958年~1991年 |
共同作業者 | クイーン |
公式サイト | LOL SOS |
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c0/Freddy_Mercury_statue_in_Montreux.jpg/140px-Freddy_Mercury_statue_in_Montreux.jpg)
フレディ・マーキュリー(Freddie Mercury, 1946年9月5日 - 1991年11月24日)は、イギリスのミュージシャン。同国のロックバンド、クイーンのボーカリストおよびソングライターとして知られる。また、ソロ歌手としても活動した。本名はファルーク・バルサラ(Farrokh Bulsara)。
優れた歌唱力と独自のマイクパフォーマンスにより「世界最高のヴォーカリスト」[要出典]として高く評価されている。また、「ボヘミアン・ラプソディ」や「伝説のチャンピオン」などのヒット曲を世に送り出しており、作詞・作曲の天才としても知られている。
1991年11月24日、HIV感染合併症によるニューモシスチス肺炎(旧名・カリニ肺炎)のため死去。45歳。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」に於いて第18位。
経歴
生い立ち
当時イギリス領だった、タンザニアのザンジバル島のストーン・タウンに、パールシー[1]の両親の間に生まれた。5歳の頃にピアノを習い始める。その後、イギリス政府のために働く父の仕事上の関係でインドに移り住み、ボンベイ郊外の全寮制の高等学校に通う。この頃から複数のロックバンドで活動し、ピアノとヴォーカルを担当した。一度、ザンジバルに戻った後、1964年に起きた内乱が元で家族揃ってイギリスに転居 。イーリング・アートカレッジに進学し、グラフィック・デザインを学ぶ。
クイーン
クイーンに参加の当初からしばらくは、同じくメンバーのロジャー・テイラーと、ケンジントン・マーケットで古着屋を経営した。また、クイーンがデビューする直前にラリー・ルレックスという名義でソロ・シングルを発売している。
雑誌『ミュージック・ライフ』の人気投票では、1975年度の10位を皮切りに1976年度から3年連続で1位に輝き、1980年度にはキーボード・プレイヤーとして1位に、1981年度にはヴォーカリストとして再び1位に返り咲いている。
親日家であり、来日公演時以外にも1986年秋にお忍びで来日し、骨董品などを買い求めて行った。伊万里焼コレクターであり、ロンドンの自宅には日本庭園を設けていた。また、新宿二丁目には行き着けのバーがあったという[2]。日本語にも通じており、来日公演時のMCの半分は日本語だった。アルバム『バルセロナ』に収録されている「La Japonaise」の歌詞の大部分は日本語で書かれている。
病気と死
80年代半ばからメディアの間でフレディがHIVに感染しているのではないか、という憶測が頻繁に飛び交うようになる。しかし、フレディは死の直前までこの噂を公式には否定し続けていた。また、時期を同じくして頬髭を伸ばすようになっていたが、これは合併症のひとつであるカポジ肉腫を隠すためだったともいわれている[3]。1990年から1991年には交流のあった人物がエイズにより他界している。
1991年11月23日、HIVに感染していることを初めて公表。翌24日、HIV感染合併症のひとつであるニューモシスチス肺炎により死去。45歳という若さだった。フレディの遺言により、遺体は遺族により火葬され散骨された。その場所は明らかにされていないが、一説によれば、彼の自宅の庭に埋められているともされている[要出典]。
フレディの死にともない、クイーンは活動を休止した。1992年4月20日には残されたクイーンのメンバーが中心となり、イギリス・ロンドンのウェンブリー・スタジアムでフレディ・マーキュリー追悼コンサートが行われた。また、「バルセロナ」[4]を歌う予定だった同年夏のバルセロナオリンピック開会式では、ホセ・カレーラスがフレディの代わりを務めた。
死後、生前に残した遺言にしたがってクイーンでもっとも売れた曲である「ボヘミアン・ラプソディ」の印税がエイズ基金「テレンス・ヒギンズ・トラスト」に寄付された。また、それを受けて再発されたシングルCDはイギリス史上初の同一曲2度の1位を獲得した。
2006年10月21日には、ドキュメンタリー映画「フレディ・マーキュリー~人生と歌を愛した男」が公開された。この映画はDVDとして発売されている。
FMA(Freddie Mercury Association)フレディ・マーキュリー基金というHIV感染症に関する治療費の寄付を募る団体が存在したが、2008年12月末日にて活動を休止した。
ミュージシャンとしてのフレディ
初期の自筆のバイオグラフィによれば、ジミ・ヘンドリックス、ビートルズおよびジョン・レノン、ロバート・プラント、ライザ・ミネリなどの名前を、好きなアーティスト、影響を受けたアーティストに挙げており、またクラシックの作曲家(パガニーニ、チャイコフスキー、ラフマニノフ、オペラ曲)などの名前を挙げることもあった。 クイーンでの担当楽器としてはピアノで、いくつかの例外を除きライヴでもプレイした。 クイーンのライヴにおいては、タンバリン、シンセサイザー、ギターなども曲によっては演奏した。 スタジオではこのほかにハープシコード、マラカスなどにクレジットされているが、個々の詳細については各アルバムのクレジット参照。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d5/FreddieMercuryRange.jpg/120px-FreddieMercuryRange.jpg)
ハード・ロック調の楽曲から、オペラのような楽曲などさまざまな曲調を歌い上げること、正確な音程、幅広い声域(4オクターヴとされている)、ライヴでのパフォーマンスなどから、世界最高のヴォーカリストの一人と評される。一方で、初期にはスタジオでの完璧とも言われる歌唱と対比して、ライヴでのフェイクを交えた歌唱とのギャップがあった。中期に入り、ボーカルレッスンによる、声帯に負担をかけにくくしつつもパワフルな歌唱に移行することでヴォーカリストとしての評価は確固たるものになっていった。 コンサートのオープニングで、歌唱以外での観客への呼びかけをすることにより、その日の喉の調子を推し量っている様子も見受けられ、比較的前半に演奏されることが多かった「愛にすべてを」のイントロでは、ピアノのアドリブを交えつつ、どの音域までスムーズに出せるかどうかといった試みもおこなっていたようである。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/3f/Queen_1984_0009.jpg/150px-Queen_1984_0009.jpg)
また、ロカビリー、プログレッシブ・ロック、ヘヴィメタル、ゴスペル、ディスコなど広いジャンルで作曲し、1980年リリースの『ザ・ゲーム』まではクイーンの代表曲の多くを作曲した。前述の「ボヘミアン・ラプソディ」だけでなく、「キラー・クイーン」「愛にすべてを」「伝説のチャンピオン」「バイシクル・レース」「愛という名の欲望」などは、クイーンの楽曲の作曲者クレジットが個人名義の時期の、フレディの代表的な作品である。作曲のほとんどはピアノを用いている。 その後の個人名義での作曲は、過去の焼き直し的な曲もあり、曲数もほかのメンバーとの比率の面で初期と比較して少なくなっていった。
個人名義でのソロアルバムは実質的に1枚しか発表されておらず、後述の『Mr.バッド・ガイ』(1985年リリース)のみである。発売時の日本ではクイーンの人気は1970年代ほどではなく、シングル「ボーン・トゥ・ラヴ・ユー」がノエビア化粧品のCMに使われたものの、全盛期のクイーンのアルバムほどの売り上げではなかった。またCBSからのリリースであったせいか(クイーンはEMI)、死後もしばらくは廃盤になっていた(現在、『Mr.バッド・ガイ』単体はソニーの運営するダウンロードサイトmoraで全曲一括購入が可能)。
他にオペラ歌手のモンセラート・カバリェとコラボーレートして、アルバム『バルセロナ』を発表している。 (1992年のバルセロナオリンピック開会式に、モンセラート・カバリエとこの曲で共演する予定であったが、フレディー本人の死去により、実現されなかった。)
その後、レーベルの垣根を越えた形で、シングル、未発表音源、リミックスなどを集めた編集アルバムなどがリリースされているが、唯一のオリジナル・ソロ・アルバムは現在でも単体では手に入りにくい。
非公式ではあるが、ジャクソンズとミック・ジャガーのヒット曲「ステイト・オブ・ショック」はフレディが歌ったバージョンも録音されている。また同時期に行ったセッションのなかにはソロアルバム『Mr.バッド・ガイ』に収録された「There Must Be More To Life Than This/生命の証」をマイケル・ジャクソンと共に歌うバージョンとマイケル・ジャクソンがソロで歌うヴァージョンが音源として残っている。
デザイナーとしてのフレディ
前述の通り、イーリング・カレッジでグラフィック・デザインを学んだフレディは、初期の自筆バイオグラフィーで以前の職業の欄にイラストレイターと書き記している。ただし、仕事としてイラストを描いていたという記録は確認できていない。
クイーンのファーストアルバムの裏ジャケットには、のちに『オペラ座の夜』の表ジャケットとして知られる、真ん中に図案化したアルファベットのQの文字を配し、一番上に白鳥、その下にブライアン・メイの誕生星座である蟹、Qの両側にはロジャー・テイラー、ジョン・ディーコンの星座である獅子を配し、自身の乙女座から妖精も加えたロゴ・マークをデザインした。 その後、このロゴ・マークは同じデザインで三枚のアルバムまで裏ジャケットに描かれ、『オペラ座の夜』、『華麗なるレース』では若干デザインを変更した形でジャケットを飾っている。次作『世界に捧ぐ』ではレコード盤の真ん中のレーベルのスペースに描かれた。これらのデザイン変更においてフレディ自身がその都度描き起こしたかどうかは定かではない。
アルバムジャケットのコンセプトという観点では、単独でクレジットされているものに『ホット・スペース』のジャケットがある。しかしながら『世界に捧ぐ』のジャケットのようにロジャーがイラストを見つけてきたというようなエピソードが残っている事例を除けば、グループの一員としてフレディの意見が反映されていることは想像に難くない。
衣装
初期のライヴでは主にザンドラ・ローズがデザインした衣装を着用。1970年代後半のライヴでは、レザースーツやタイツが多く使われ、上半身を露出したタイプのものが多い。1980年代に入るとTシャツ、タンクトップなどのシンプルな衣装になった。
私生活
1970年代初期から、ブライアン・メイの紹介によって知り合ったメアリー・オースティンと交際しており、1970年代中頃までウェスト・ケンジントンで共に生活していた。しかし、フレディがエレクトラ・レコードの重役であるアメリカ人男性と関係を持ったため破局した。その後も二人は友人としての付き合いを続けた。また、フレディは1980年代前半頃、オーストリアの女優バーバラ・バレンタインと交際していたといわれている。
その一方で、1979年からバスハウス(ゲイ男性のための発展場・バー・サウナ・ディスコを兼ねた複合施設)に足を運ぶようになる。1984年より、ジム・ハットンと交際を始め、それ以後、死に至るまで約7年の間付き合う。ジムはフレディの最後の恋人であり、その穏やかな性格と純粋な人柄でフレディを温かく見守り、フレディーが死を迎える最後の時まで看病に奔走し、付き添った。そのためジムはフレディの最後で最高の恋人だったと語られることも多い。特にジムが、フレディによると思われるHIV感染を、フレディに知られぬよう最後まで口外しなかったことは有名。
2010年1月1日、ジム・ハットン死去。
フレディ・マーキュリーと猫
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e3/Mercurys_house_15.7.2005_374.jpg/140px-Mercurys_house_15.7.2005_374.jpg)
彼は愛猫家としても有名。ロンドン・ケンジントンの自宅、ドイツ・ミュンヘンの別宅で数匹の猫を飼っていた。 アルバム『イニュエンドゥ』収録の「デライラ」は、かれが特に溺愛した飼い猫の「ディライラ」のために作られた曲。歌詞は猫へのメッセージで構成されており、曲中に猫の鳴き声(の真似)が聞こえる。 晩年は猫をプリントしたシャツを着用する写真が多く、イニュエンドゥのPVでも見られる彼のイラストや、「輝ける日々」のPVの彼の衣装(上記、猫プリントシャツ)にも猫が描かれている。
ソロアルバム
- Mr.バッド・ガイ(1985)
- ボーン・トゥ・ラヴ・ユーの初出アルバム。
- バルセロナ[1](1988) スペインの世界的なオペラ歌手モンセラート・カバリェとのコラボレーション。
- ベスト・オブ・フレディ・マーキュリー(上記2作をまとめ、ボーナス・ディスクを加えた品)
- リミキシーズ(1993)
- フレディ・マーキュリー・コレクション 1973~2000(2000)
2006年8月30日には、既発の曲を含め、それらをリミックスした曲も追加収録したCD「ヴェリー・ベスト・オブ・フレディ・マーキュリー」がリリースされた。