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ジム・モリソン

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ジム・モリソン
Jim Morrison
ファイル:Jim Morrison ZeichnungSchuschke.jpg
ジム・モリソンの肖像画
基本情報
出生名 ジェームズ・ダグラス・モリソン
別名 The Lizard King、Mr. Mojo Risin'
生誕 1943年12月8日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 フロリダ州メルボルン
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス
死没 (1971-07-03) 1971年7月3日(27歳没)
フランスの旗 フランスパリ
ジャンル サイケデリック・ロックハードロックブルースロックアシッドロック
職業 ミュージシャンソングライター詩人映画作家
担当楽器 ヴォーカルハーモニカ
活動期間 1965年 – 1971年
レーベル エレクトラ・レコード
共同作業者 ドアーズ
公式サイト http://www.thedoors.com/

ジェームズ・ダグラス・モリソン(James Douglas Morrison、1943年12月8日 - 1971年7月3日)は、アメリカミュージシャンロックバンドドアーズボーカリスト。バンドの大部分の楽曲の作詞をし、またそれとは別に数冊の詩集を発表した。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」に於いて第47位。


人物

ジェームズ・ダグラス・モリソンはアメリカ海軍の軍人であり、後に提督となるジョージ・スティーヴン・モリソンとクララ・クラーク・モリソン夫妻の息子としてフロリダ州メルボルンで生まれた。日に妹と弟が一人ずつ生まれた。

ジムは厳格で保守的な両親によって育てられたが、両親の教育とは徹底的に異なった価値観での作品表現を行った。

モリソンによれば、彼の生活での最も重要な出来事は1947年ニューメキシコ州への家族旅行中でのことであった。彼は以下のように語っている。

「僕が発見した最初の死だった...僕と母と父、そして祖母に祖父は夜明けに砂漠を通っていた。インディアン達の乗ったトラックが別の車か何かと衝突して、彼らはハイウェイ中にまき散らされ、血を流して死んでいた。僕は単なる子供だった。だから、父と祖父が事故を確かめに行ったけれど、僕は車の中にとどまっていなければならなかった。僕は何も見なかった。僕が見たのは奇妙な赤ペンキとまわりに寝転がっている人たちだった。でも僕は彼らが僕同様に何が起きたのか分かっていないのを理解した。それは僕が初めて味わった恐怖だった...そして僕はその瞬間思った。死んだインディアン達の魂は - たぶん彼らの内一つか二つ - ちょうどそこらを走り回り、幻覚のように奇妙な行動をし、僕の魂に入り込んだ。そして僕はスポンジのようにそこに座ってそれを吸い取る準備が出来ていたんだ。」

一家は父の職業柄、転居を重ねジムはそのためか家に閉じこもって読書にふけることが多くなった。高校卒業後フロリダ州立大学に入学するが、哲学にのめり込み、1964年の1月に家族の反対を押し切りUCLAの映画学科に編入する(同級生にフランシス・フォード・コッポラがいる)。 UCLAで彼はレイ・マンザレクに出会い、彼に自作の詩を読んで聞かせた。マンザレクは彼の詩に惹かれ、バンドを組むことにする。ジムはレイと彼の兄リック、メディテーションセンターで出会ったジョン・デンスモアと共にデモ・レコードを録音する。リックがバンドを辞め、同じメディテーションセンターの仲間だったロビー・クリーガーが参加してザ・ドアーズのラインナップが完成した。

バンド名は、ウィリアム・ブレークの詩「忘れがたい幻想」から採られた、オルダス・ハックスレーの「知覚の扉(The Doors of Perception)」が元となっている。

彼は自らを「ミスター・モジョ・ライジン(Mr. Mojo Risin)」としたが、これは「ジム・モリソン(Jim Morrison)」のアナグラムである。それは彼の参加した最後のアルバムに収録されている「L.A.ウーマン」のリフレインに用いられた。さらに彼は「トカゲの王(The Lizard King)」と呼ばれた。これはアルバム『太陽を待ちながら』の中に現れる彼の有名な叙事詩「ザ・セレブレーション・オブ・ザ・リザード」から来ており、それは1990年代にミュージカルとして上演された。

ドアーズの結成前からモリソンは様々なドラッグを服用し、多量の飲酒で様々などんちゃん騒ぎに耽った。時にはレコーディング時も酔っぱらい、その様子は多数録音された。「ファイヴ・トゥ・ワン」の中では彼のしゃっくりが聞かれる。また、ジミ・ヘンドリックスとのセッションでも酔っぱらった様子が録音されている。

1969年3月、マイアミでのコンサートで彼はズボンを下げ自慰行為を見せたと言うことで逮捕される(2010年12月9日、フロリダ州知事の特赦で「無実」ということになった)。モリソンの逮捕と共に、バンドは反社会的存在のレッテルを貼られ、ライブ活動は縮小していった。1970年12月12日のニューオーリンズでのステージを最後にモリソンはライブ活動を停止した。彼は著作に専念するため1971年3月にパリへ移り住んだ。

モリソンの墓

ジム・モリソンは1971年7月3日にパリのアパートでバスタブの中で死体として発見された。多くのファンおよび伝記作家が死因を薬の過剰服用や、アメリカ政府による暗殺の可能性を推測した。モリソンの死はブライアン・ジョーンズジャニス・ジョプリンジミ・ヘンドリックスに続く悲劇だった(偶然にも彼らは同じ27歳で死亡しており、ロック界におけるひとつのジンクスとなっている。20数年後にニルヴァーナカート・コバーンも同じ年齢で自殺している)。

死因は公式には心臓発作と発表された。彼はパリの東にあるペール・ラシェーズ墓地に埋葬されているが、訪れるファンの落書きやゴミが問題とされ、新しい別の場所に再埋葬される可能性が示された。

幾人かのファンは、彼の死はスポットライトから逃れるための偽装だと信じている。陰謀を主張するものは、彼のガールフレンド、パメラ・カーソンが「彼は非常に疲れていて、病院で休んでいる」と新聞に語ったことを指摘する。実際に死体が埋葬されるのを見たのはごく少数で、またモリソンは「死」に先立つ数か月前からバンドのメンバーによく「アフリカへの逃亡」を冗談めかして話していた。デンスモアが、モリソンの墓に初めて訪れた際、彼は「(遺体が入るには)墓が短すぎないか?」と話したと言われている。

詩集

  • 「神」「新しい創造物」:The Lords and the New Creatures (1969). 1985 edition: ISBN 0-7119-0552-5
篠原一郎訳 新宿書房 (2005) ISBN-10:4880083453 ISBN-13:978-4880083452
  • 「アメリカン・プレイヤー」:An American Prayer (1970) privately printed by Western Lithographers. (Unauthorized edition also published in 1983, Zeppelin Publishing Company, ISBN 0-915628-46-5. The authenticity of the unauthorized edition has been disputed.)
  • 「ウィルダネス」:Wilderness: The Lost Writings Of Jim Morrison (1988). 1990 edition: ISBN 0-14-011910-8
  • The American Night: The Writings of Jim Morrison (1990). 1991 edition: ISBN 0-670-83772-5

演じた俳優

関連事項

外部リンク


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