守山崩れ
守山崩れ(もりやまくずれ)は、天文4年(1535年)12月5日に起こった戦国時代の暗殺事件である。
事件
発端
松平清康(徳川家康の祖父)は、智勇に優れた人物であり、13歳にして家督を継ぐと、あっという間に西三河を平定し、20歳までには東三河にも侵攻して、三河一国を統一し、三河の小豪族に過ぎなかった松平氏を、戦国大名としてのし上げたのである。
そして天文4年、清康はいよいよ勢力拡大を目指して対外進出に乗り出した。その標的が、尾張の戦国大名、織田信秀(織田信長の父)であった。清康は1万近くの大軍を率いて天文4年12月4日、尾張守山(森山)に陣を布いた。ところが翌日の早暁、とんでもない事件が起こる。清康が、家臣の阿部正豊(弥七郎)によって、惨殺されてしまったのである。
動機
実は守山出陣の頃、清康の家臣である阿部定吉(大蔵)が、織田信秀と内通して謀反を企んでいるという噂があった。清康はこれを信じていなかったようだが、家臣の多くは定吉に対して疑念を抱いていたらしい。このため、定吉は嫡男の正豊を呼んで、「もし自分が謀反の濡れ衣で殺されるようなら、これを殿に見せて潔白を証明してほしい」と、誓書を息子に手渡していた。
そして運命の12月5日早暁、清康の本陣で馬離れの騒ぎが起こった。これを正豊は、父が清康に誅殺されたためであると勘違いした。そして、本陣にいた清康を背後から惨殺したのである。
事件の謎
しかし、この守山崩れには謎が多い。まず、犯人の正豊であるが、即座に植村新六郎という人物によって成敗されている。ところが、この新六郎は、後に清康の後を継いだ松平広忠(家康の父)が岩松八弥という人物によって暗殺されたときも、八弥を成敗しているのである。同一人物が主君の暗殺犯人を成敗する。これは、ただの偶然であろうか。
また、正豊の父・定吉であるが、当時の常識ならば連座によって処刑、もしくは何らかの咎めを受けてもおかしくないはずなのだ。ところが、定吉は連座で処分されることもなく、広忠の家臣として仕えている上、三河衆の統率を任されているのである。一説には、定吉は息子の行為に対して責任を取るため、自害しようとしたが、広忠が止めたためにその家臣として仕えたとも言われている。
また、この守山崩れに、酒井忠次、大久保忠世、大久保忠佐らが参陣していたというのである。当時、忠次は9歳、忠世は4歳、忠佐は生まれてすらいない。ところが、「三河後風土記」には、この三人が出陣していたと記しているのである。ただし、この風土記は俗書とも言われており、史書として完全に信用できるものではないとも言われている。
影響
清康は、「30半ばまで生きていれば、天下を取ることもできた」とまで謳われたほどの名将であった。その名将・清康の死後、松平氏は嫡男の広忠が継いだが、広忠は若年の上に暗愚だったため、尾張から侵攻してくる織田信秀の脅威に耐えられなくなる。また、清康の死去を見た三河の諸豪族も次々と松平氏から離反するなど、松平氏の勢力は清康の死去により大きく衰退し、再び三河の一豪族の身分に成り下がったのである。
そして、織田信秀の侵攻に耐えられなくなった広忠は、嫡男の竹千代(後の徳川家康)を人質として今川義元のもとへ差し出し、その傘下に入ることで松平氏の存続を図ることとなったのである。