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岡部長慎

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岡部 長慎おかべ ながちか天明7年2月29日1787年4月17日) - 安政5年12月25日1859年1月28日))は、和泉岸和田藩の第9代藩主。父は第8代藩主・岡部長備(長慎は次男)。母は側室と言われている。正室は青山幸孝の娘。官位は従五位下。美濃守。

1787年2月29日生まれ。幼名は第次郎。千弥。次男だったが、兄の岡部長周と父が1803年に相次いで死去したため、その後を継いで藩主となった。この頃、岸和田藩は「負債山を成す」とまで言われるほど藩財政が悪化していたが、長慎は自ら倹約に努め、家臣の禄高を抑えるなどしている。さらに文武を奨励し、家臣に不正があれば厳しく罰した。しかしやさしい一面もあり、家臣が病気になったときにはよくいたわったと言われている。

1833年11月24日、長男の岡部長和に家督を譲って隠居し、南山と号した。以後は藩史をまとめ上げた「岡部氏家訓」、「重訂本草綱目啓蒙」、「本草綱目図譜」など著作活動を多く行ない、水間寺の三重塔や本堂の再興に務めた。1858年12月25日、72歳で死去。墓所:東京都新宿区榎町の済松寺。