孫正義
そん まさよし 孫 正義 | |
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生誕 |
1957年8月11日(66歳)![]() |
職業 | 実業家 |
純資産 | 約5,100億円(2009年度時点) |
孫 正義(そん まさよし、1957年8月11日 O型- )は、日本の実業家。
ソフトバンクグループの創業者として知られ、ソフトバンク株式会社代表取締役社長、ソフトバンクテレコム株式会社代表取締役社長、ソフトバンクモバイル株式会社代表執行役社長兼CEO、福岡ソフトバンクホークスのオーナーなどを務める。アジアングルーヴ株式会社代表取締役社長の孫泰蔵は実弟。
創業したソフトバンク株式会社の株式31.5%を保有する筆頭株主(2007年(平成19年)現在)で、日本有数の資産家。フォーブスの調査による世界長者番付の2010年版で日本人4位、56億ドル(1$=91円)(約5,100億円)と記されている。
略歴
- 1957年 - 8月11日在日韓国人実業家、孫(安本)三憲の二男として佐賀県鳥栖市に生れる。母は李氏。男ばかりの4人兄弟であった。
- 緑ヶ丘・第二幼稚園を卒園。
- 北九州市立引野小学校を卒業。
- 北九州市立引野中学校を途中で転校。
- 福岡市立城南中学校に転入。
- 1973年 - 久留米大学附設高等学校に入学。 司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を読み、脱藩に憧れて渡米決意。 夏休みを利用して米国カリフォルニア州にて語学研修のため4週間の短期留学。
- 1974年- 久留米大学附設高等学校を中退し、渡米(2月)。米国ホーリー・ネームズ・カレッジの英語学校(ELS)に入学。米国セラモンテ高等学校(サンフランシスコ)の2年生に編入(9月)。3年生、4年生へと飛び級。高校卒業検定試験に合格したため、高等学校を3週間で退学(10月)。
- 1975年- 米国ホーリー・ネームズ・カレッジに入学。
- 1977年- カリフォルニア大学バークレー校経済学部の3年生に編入。
- 1979年 - 自動翻訳機の売込みで得た資金(1億円)を元手に、米国でソフトウェア開発会社の「Unison World」を設立。インベーダーゲーム機を日本から輸入。
- 1979年 - 結婚。
- 1980年- カリフォルニア大学バークレー校を卒業。学位は、経済学士(カリフォルニア大学)。日本へ帰国後、会社を設立するために福岡市南区に事務所を構える。
- 1981年 - 福岡市博多区に事務所を移し、コンピュータ卸売事業の「ユニソン・ワールド」を設立。福岡県大野城市に「日本ソフトバンク」を設立。
- 1983年 - 慢性肝炎で入院。社長職を退き会長となる。
- 1986年- 社長職に復帰。
- 1990年9月 - 日本に帰化。
- 1994年 - ソフトバンク株式会社の株式を店頭公開。
- 1996年- 米ヤフーとソフトバンクの合弁でヤフー株式会社を設立。
- 1996年 - オーストラリアのメディア王ルパート・マードックのニューズ・コーポレーションと折半出資の合弁会社を設立し、テレビ朝日の株式の21%を取得。後に朝日新聞の反発に遭って撤退。
- 1999年- 証券市場の開設を企図し米国のナスダック・ストック・マーケットとソフトバンク株式会社が共同出資しナスダック・ジャパンプランニング株式会社を設立。
- 2000年- 大阪証券取引所とナスダック・ジャパンプランニング株式会社にてナスダック・ジャパン市場を開始。
- 2000年 - ソフトバンク株式会社が東京海上保険、オリックスと供に、日本債権信用銀行(現あおぞら銀行)の株式を取得。取締役に就任。
- 2001年 - ヤフー株式会社と共同でADSL接続サービスのYahoo! BBの提供を開始。以降、それまでのPCソフト卸、PC出版から通信に本業の軸足を移す。
- 2002年- ナスダック・ジャパン株式会社業務停止。(大阪証券取引所がヘラクレスとし市場維持)
- 2003年 - あおぞら銀行の株式をサーベラス・キャピタル・マネジメント社(Cerberus NCB Acquisition,LP.)に売却。
- 2004年- 日本テレコム株式会社(現ソフトバンクテレコム株式会社)を買収し、同社代表取締役会長に就任(2006年(平成年)10月に同社代表取締役社長に就任。)。
- 2006年 - ボーダフォン株式会社(現ソフトバンクモバイル株式会社)を買収し、同社代表執行役社長兼CEOに就任。
系譜
- 孫氏(安本氏)
朝鮮民族固有の孫氏[1][2]とは異なり、約1000年前に中国南朝の宋から戦乱を避け高麗へ帰化した一族の末裔とのことである[3]。
∴ 鐘慶 ┃ ┣━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 三憲 某 某 某 女 女 女 ┃ ┣━━━┳━━━┳━━━┓ ┃ ┃ ┃ ┃ 正明 正義 正憲 泰蔵
ソフトバンクの創業
自分で考案した「音声機能付き他言語翻訳機」[4]を当時シャープ専務の佐々木正に約1億円で売り込み、その資金を元に米国で事業を起こし、1981年(昭和56年)には「日本ソフトバンク」を設立。
電話の際に自動的に安い回線を選ぶ「NCC BOX」(いわゆるLCR)をフォーバルの大久保秀夫とともに開発した(その関係で、日本におけるLCRの基本特許は孫が保有している)[5]。大久保秀夫との交流は以後も続き、BBフォン、おとくラインの販売など、ソフトバンクグループの法人向けの営業では常にフォーバルと協力体制を取ってきた。
1994年(平成6年)7月にソフトバンク株式会社の株式を店頭公開した。
「日本ソフトバンク」名義の会社を設立したのは1981年(昭和56年)であるが、孫自身は事あるごとに「私は、福岡の
エピソード
少年時代のエピソード
- 大分県の朝鮮人部落で幼少期を過ごした。豚や羊と一緒に生活する非常に貧しく不衛生な場所で、「今だから言えるが密造酒も家で作っていた」と週刊ポストのインタビューで述べた。そのなかでも父親の方針の元、非常に勉強熱心な家庭であり、「足が汚水につかるような場所で苦学して」部落を出て成功した[7]。
学生時代のエピソード
- 小学生時代
- 父三憲は小学生の正義に対し「今度お父さんが出す新製品に、何か言いたい事はあるかな」と聞き、子ども扱いせずに関係者の一人として意見を聞いていた。こうした体験が後に経営者としての手腕に繋がって行った。また「お前は在日韓国人だから、普通の日本人より頑張らないと出世出来ないぞ」と語っていた。
- 理想の起業家像
- 「最も好きな起業家」は本田宗一郎である[8]という。
- 藤田田を訪問
- 高校生時代、藤田田に会うために藤田の会社に行く。最初は門前払いを受けるが、何度も訪れて根負けした藤田についに社長室に通されたという。そこで「今度渡米するのだが、アメリカで何をすべきか」と尋ね、コンピューター関連を学ぶように助言された。その後成功した孫は藤田を食事に招待し、藤田はあの時尋ねてきた高校生が孫正義だったかと驚き、非常に感激し、孫の会社に自社パソコン300台を発注したという[9]。
- 人生の目標
- 19歳の時に、「20代で名乗りを上げ、30代で軍資金を最低で1,000億円貯め、40代でひと勝負し、50代で事業を完成させ、60代で事業を後継者に引き継ぐ。」という人生50年計画を立て、今もその計画の実現に向けて走り続けているという。
- 大学の検定
- カリフォルニア州での大学の検定試験の際に、「この問題は日本語ならば必ず解ける。」と言い、辞書の貸し出しと時間延長を試験官に申し出た。試験官は、自分の上司にあたる人間に相談。さらにその上司は、自分の上司に相談。そうこうしているうちに、最後は州知事にまで孫は電話で交渉して、「辞書の貸出し」と「時間延長の要求」をのませたという逸話が残っている。
- さらに、州知事との交渉において知事は「厳密な終了時間」を決めておらず、「辞書を引くのに適当な時間だけ延長する」という結論が出されたことから、無期限の時間延長と孫は独自解釈して、最後までテストを受けて合格したという。
- インベーダーゲーム
- 自動翻訳機の売込みで得た資金(1億円)を元手に、米国でソフトウェア開発会社の「Unison World」を設立。日本で、流行していた「スペースインベーダー」を、ブームが沈静化した後に大量に安価で買い取り、アメリカで売り出して大もうけした。
成年後のエピソード
- 勝負するなら相手が大きい方がいい
- 孫がヤフーBBのブロードバンドビジネスを始めるにあたり、取り巻きの太鼓持ちの人が驚いて「孫社長、本気であのNTTと戦おうというおつもりですか? こっちはどう見ても竹槍程度の兵力です。竹槍部隊であの強大なNTTという軍艦に立ち向っていくようなものですよ、それでも本気であなたは戦うおつもりですか?」と聞いたところ、孫はしたり顔で「男が勝負するんならNTTぐらいの大きさがちょうど良いんだよ、それ以下だったら弱いものイジメだよ」と答えて太鼓持ちを驚かせたという。
- 将来はヤフーを子会社化
- 孫は2005年に雑誌の取材で「近い将来アメリカのヤフー本社も買収して子会社化しようと思う」と話している。もっとも米国のYahoo!はかつてソフトバンクが筆頭株主だった[10]。
- 噂にはコメントしない
- ソフトバンクの新機種発表会で、「iPhone 3Gの発売はソフトバンクからか」と質問された時の発言。「iPhone 3GS」の発売前にも、同じコメントを残している。しかし2010年7月19日、Twitterで「在日割引はデマか?」と質問された際にデマであると回答、「在日割引」の経緯について説明を投稿した。尚、「この割引プランは、弊社の代理店が民団と勝手に取りまとめたもので、弊社サービスではありません」(ソフトバンクモバイル広報室)とされ、かつて実在した在日割引が代理店の独断であるというのが孫の主張であった。
- 実際、在日割引の話が上がる前から代理店が類似のプランを設定し法人向けに営業を行っていた事はネット上でも取り沙汰されていた。
- 鳩山首相辞任時に「日本の不幸」
- Twitterユーザーから首相辞任にコメントを求められた際に、「4人の首相の任期が1年程度。民間会社ですら社長任期が1年では大きな事は成し得ない。日本の不幸」と述べた[11]。
- 政府への犯行予告
- 2010年5月18日、ソフトバンクモバイル新機種発表会・記者会見で記者から、Twitterがフィルタリングされていることについての質問を受けた孫はUstreamで会見が全世界へ中継されている中、「Twitterをフィルタリングすることにより未成年からのアクセスを出来なくするのは、コミュニケーション革命や神への冒涜である。政府がそんなことをするのであれば、総務省にガソリンを持って行って火をつける。これは犯罪予告である」と発言[12]し波紋を呼んだ[13]。後に孫は「完全な冗談だった」と釈明と謝罪をしている[14]。
脚注・出典
- ^ 『朝鮮氏族統譜』によると約1000年前に宋から戦乱を避け高麗に帰化した「荀凝」が、高麗顕宗時代(1009年-1031年)に、顕宗の諱「詢」と同音になるのを避け「孫」姓を賜り改姓した「孫凝」を始祖とし、「一直孫氏(安東孫氏)」と呼ばれたという一族がある。孫凝からは高麗朝の将軍である「孫幹」や一直君に封ぜられた「孫元裕」が出て繁栄し、後裔の「孫処訥」は秀吉の朝鮮出兵の時に義兵将となり日本軍との戦いに功があったという。また丁卯胡乱の際に義兵将となって活躍した「孫遴」や同知中樞府事となった「孫必億」などがいる。
- ^ 高麗時代前時期にかけて朝鮮に異民族が帰化した数字は23万8000人余りに達するという。帰化した漢族は国際情勢に明るく、文芸にたけていて官僚にたくさん進出した。帰化した渤海人は契丹との戦争に参加して大きい功績を立てた。チェ・ムソンに火薬製造技術を伝えた人物の以遠も中国、江南地方出身帰化人である。帰化した女真族は北方情勢を情報提供したり城を築いたり、軍功をたてて高位官職になった者もいる。李氏朝鮮を建国した李成桂は東北面出身でこの地域の女真族を自身の支持基盤とした。開国功臣だった二至欄はこの地域出身の女真族指導者として同北方面の女真族と朝鮮の関係を篤実にするのに重要な役割を担当した。李氏朝鮮時代、同北方面の領域で領土拡張が可能だったことは女真族包容政策に力づけられたことが大きい。なお、京仁教育大学校教授朴チョルヒは、韓国の社会教科書が過度に民族中心的に叙述され、これら帰化人の存在と文化的影響に対し教科書は沈黙していると批判している(初等教科書、高麗の時「23万帰化」言及もしない『京郷新聞』2007年8月21日)。
- ^ Twitterでの本人発言より http://twitter.com/masason/status/8963717810
- ^ テレビ東京「日経スペシャル カンブリア宮殿」2010年7月12日放送内容より
- ^ http://www.ipdl.inpit.go.jp/homepg.ipdl 特許電子図書館(IPDL) - 「特許・実用新案検索」の「公報テキスト検索」にて「特許公報 (公告、特許)」の「発明者」として「孫 正義」を AND検索
- ^ 『孫正義起業の若き獅子』大下英治著 、講談社、1999年(平成11年)、ISBN 4062087189
- ^ 週刊ポスト2011/1/1,7号 佐野眞一(ノンフィクション作家) あんぽん 孫正義伝(1)
- ^ 『志高く 孫正義正伝』井上篤夫著、実業之日本社。
- ^ 「リスクをとる経営」産経新聞社刊
- ^ 米国Yahoo!社への追加出資の件および当社インターネット事業戦略について - ソフトバンク・1996年4月12日
- ^ ソフトバンク孫社長が鳩山辞任にコメント「日本の不幸」
- ^ SOFTBANKの最初の質疑解答Twitter18歳以下規制問題について - YouTube
- ^ ZAKZAK (2010年5月18日). “孫社長、会見で“犯罪予告”「総務省に火をつける!」” 2010年6月4日閲覧。
- ^ 完全な冗談です。不適切発言お詫びします。… (@masason/status/14202802709) - X(旧Twitter)