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東区 (大阪市)

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東区(ひがしく)は、かつて大阪市にあった1889年から1943年までは法人格と議会を有する区であった。1943年の戦時体制移行に伴う大阪市による半強制的な法人区解散以後は、行政区として1989年2月13日まで存在した[1]

現在の中央区の北部・東部に相当する。大坂城から船場にかけ、大阪環状線寝屋川旧淀川(大川・土佐堀川)、西横堀川阪神高速1号環状線北行き)、長堀川(ただし、南船場と安堂寺町は南区)に囲まれた、ほぼ長方形の区域であった。


郡区町村編制法施行に伴い、1879年に大阪市街地を4区に分け、大阪府東区として創設された。1889年に大阪4区は市制施行により大阪市へ移行し、大阪市東区となったが、決して東区が吸収されたわけではなかった。1897年に大阪市が周辺町村を合併(第1次市域拡張)したことに伴い、大阪市に編入された一部町村が東区の区域となった。しかし、現在のような行政区ではなく、東京市京都市の区と共に法人格を有し(明治44(1911年)9月市政改正勅令)、区議会(正式には区会)を持ち、明治23年(1890年)学事通達により学校設置区(当初は高等小学校、後に実業学校を設置)でもあり、中等教育と財産区を併せ持った性格の法人区であった。

しかし、1940年4月の地方税法改正により区の独自課税権を奪われ、区立女学校の維持管理ができなくなり、1943年9月「大東亜戦太平洋戦争)時下、時局の重大性に鑑み、大阪市政の運営とこれの発展向上に寄与するため」「区有財産の大阪市への寄付に関する議案」区会が可決[2]、更には1943年11月には、区議会が解散を決議、法人区としての53年の歴史を終えた[3]

以下の最後の東区会議長あいさつ(東区会史)を読むと、大東亜決戦戦時体制構築のために大阪市が区を廃止に追い込んだことがわかる。

「このほど、決戦国体体制の整備、行政簡素化の国策に従い東区会の解散を断行するもの。思えば昭和15年(1940年)の税制改正で財源を失い、学区制解散、東女学校の市移管などをやむを得ず行ってきた。53年の歴史のある区会を解散することは東区民の長年の努力を考えると感慨無量で堪え難い。我が子を失う気持ちだ。長年の努力の結果の成果を更に高めていってもらえると信じて大阪市に引き渡すので市長以下誠心誠意をもって対処をお願いする」

1989年2月13日、南区と統合されて中央区となり、100余年に及ぶ歴史の幕を閉じた。

古くから大阪経済の中心地であった船場を包含するエリアであったため、大阪市内におけるステイタスエリアともなっており、繁華な南区に対し「東区」に拘る者がとりわけ年配者に多い。

郵便番号は東部が540、西部が541。

旧東区出身の有名人

脚注

  1. ^ 東区役所編、東区会資料
  2. ^ 東区会史より
  3. ^ 東区会史より

関連項目