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大島渚

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おおしま なぎさ
大島渚
大島渚
2000年のカンヌ国際映画祭にて(右)、松田龍平(左)と
生年月日 (1932-03-31) 1932年3月31日(92歳)
出生地 日本の旗 日本 岡山県玉野市
職業 映画監督
配偶者 小山明子
著名な家族 大島瑛子
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大島 渚(おおしま なぎさ、1932年3月31日 - )は、日本の映画監督。夫人は女優小山明子。現在は神奈川県藤沢市在住。

概要

1959年に『愛と希望の街』で監督デビュー。権力機構に侮蔑される側にいる人間の屈辱感を描き出し、権力と戦闘的に対峙する作品は日本国内で早くから注目を集め、松竹ヌーベルバーグの旗手とも呼ばれた[1]。1961年に松竹を退社するとテレビドキュメンタリーにも活躍の場を広げ、政治的・ジャーナリスティックな作品を手がけた。1976年の『愛のコリーダ』(L'Empire des sens)、つづく『愛の亡霊』(Empire of Passion)で、人間の愛欲の極限を描き出し、国際的な評価を確固たるものにした。このほか話題を呼んだ作品に『戦場のメリークリスマス』(1983年)、『御法度』(1999年)などがある。

海外における知名度は高く、アレクサンドル・ソクーロフテオ・アンゲロプロスマーティン・スコセッシチェン・カイコーなど大島を敬愛する著名な映画監督・評論家は少なからずいる。ゴダールが『映画史』において取り上げた日本人監督は溝口健二小津安二郎勅使河原宏と大島の4人だった。

テレビ出演も多く、1980年代後半から『朝まで生テレビ』(テレビ朝日系)のレギュラーパネリストとなり、コメンテーターとしても活躍した。

経歴

生い立ち

岡山県玉野市生まれ[2]。父親は長崎県対馬、母親は広島県呉市の出身[3]。父親は農林省水産学者。仕事の関係で瀬戸内海を転々としカニエビの研究をしていた。"渚"という名前もそこから付けられている。6歳の時(現在の)岡山大学の教授だった父[要出典]農林省水産試験場の場長をしていた父[4]が死去し、母の実家のある京都市に移住。

京都市立洛陽高等学校(現・京都市立洛陽工業高等学校)卒業後、京都大学法学部に進む。京大時代の同窓に推理作家和久峻三や、俳優・辰巳琢郎の父親がいる。大学在学中は猪木正道に師事。京都府学連委員長を務めて学生運動を行い、1951年の京大天皇事件や、1953年に松浦玲が放校処分になった荒神橋事件等に関わった。成績が比較的良かったため、法学部助手試験を受験するが、不合格となる。猪木は「君に学者は向きませんよ」と諭したという(『猪木正道著作集』・月報)。また、在学中に劇団「創造座」を創設・主宰し、演劇活動も行っていた。

「松竹ヌーベルバーグの旗手」

1954年京大卒業後、松竹に入社。大船撮影所の助監督を経て1959年に『愛と希望の街』で監督デビューした後、『青春残酷物語』、『太陽の墓場』(1960年)などのヒット作で松竹ヌーベルバーグの旗手となる。しかし、自身はそのように呼ばれることを望んではいなかった。

彼の作品は同時代の映画作家たちよりはるかに政治的であり、権力に対して戦闘的でもあった。初期のモチーフの核心にあるものは常に権力機構がもたらす人間の蔑視であり、階級対立において侮蔑される側にいる人間の屈辱感を描き出した。これらのことから松竹内部では大島を異端児扱いするとともに邪魔な存在となっていた。

松竹退社、テレビドキュメンタリーの制作

1961年日米安全保障条約に反対する安保闘争を舞台にした作品『日本の夜と霧』(1960年)を、松竹が大島に無断で自主的に上映中止したことに猛抗議し、同社を退社。その後、1961年に同時に松竹を退社した妻の小山、大島の助監督でその後脚本家として活動する田村孟、脚本家の石堂淑朗、俳優の小松方正戸浦六宏ら6名で映画製作会社「創造社」を設立する。その後、俳優の渡辺文雄らが加わる。

1962年の『天草四郎時貞』の興行的失敗を契機として、テレビの世界にも活動範囲を広げる。1963年の「元日本軍在日韓国人傷痍軍人会」を扱ったドキュメンタリー『忘れられた皇軍』(日本テレビノンフィクション劇場」、牛山純一プロデューサー)は話題となった。1964年には、脚本を務めたテレビドラマ青春の深き渕より』(関西テレビ)が芸術祭文部大臣賞(大賞)を受賞した。その他にもテレビにおいて、1995年の『日本映画の百年』まで、約20本の主としてドキュメンタリー作品の演出、脚本、構成などを担当している。

白昼の通り魔』(1966年)、『忍者武芸帳』(1967年)[5]、『絞死刑』(1968年)、『新宿泥棒日記』(1969年)など、政治的な色合いを強く持つと共に、ジャーナリスティックな側面をも併せ持った作品を矢継ぎ早に制作、公開し国内外の認知度も高くなったが『夏の妹』(1972年)を最後に創造社は解散し、『愛のコリーダ』(1976年)の公開までは映画制作資金を稼ぐためのテレビ出演などの活動の日々が続く。

『愛のコリーダ』以後

国際的名声を不動にしたのは、阿部定事件1936年)を題材に社会の底辺にすむ男女の性的執着と究極の愛を描いた1976年の『愛のコリーダ』(L'Empire des sens)であった。大島の闘いは必然的に、社会的な疎外感や屈辱感をもっとも鮮明に内包している人々の心理的探究へ移り、彼らを主要人物とした作品の制作へと向かうことになる。日本映画史上に前例のない作品を示そうという意気込みと、黒澤明流のヒューマニズムと、さらには検閲制度に対する激しい批判精神からハードコア・ポルノグラフィー表現へと傾斜した大島は、公権力の干渉を避けるため日仏合作という形を取り、撮影済みのフィルムをフランスへ直送して現像と編集の作業を行なった。

日本公開では、映倫の介入によって作品が意味をなさないほどの大幅な修正を受けることになった。『愛のコリーダ』は2000年にリバイバル上映されたが、修正個所は大幅に減ったものの、ボカシが入り現在でも日本ではオリジナルを観ることはできない。

『愛のコリーダ』により国際的な評価を確固たるものにしてからは、『愛の亡霊』(1978年)、『戦場のメリークリスマス』(1983年)、『マックス、モン・アムール』(1986年)など外国資本もしくは海外で公開されることを前提とされる作品が中心となっていった。『愛の亡霊』(Empire of Passion) も『愛のコリーダ』同様のテーマを扱った作品で、不倫の妻が愛人と共謀して夫殺しに走るという内容である。ある程度性的描写を抑制し、前作ほど話題にならなかったが、カンヌ国際映画祭監督賞を受賞した。

1980年代後半から『朝まで生テレビ』(テレビ朝日系)のレギュラーパネリストとなり、テレビのコメンテーターとしても活躍した。映画製作の資金捻出が目的ではなく、本人はテレビに出るのが生きがいだと述べている。

『御法度』と闘病

1996年1月下旬に約10年ぶりの映画製作発表をしてまもなく、翌2月下旬渡航先のロンドンヒースロー空港脳出血に見舞われた。その後、3年にわたるリハビリが功を奏し復帰作『御法度』(1999年)の公開を果たすが、カンヌ映画祭では賞を得ることは出来なかった。その理由として、新選組という設定は日本人には忠臣蔵水戸黄門と同じく馴染み深いものであり、登場人物の性格や行動様式を周知の事実としてストーリーを展開しても違和感がなかったが、ヨーロッパ人には舞台設定そのものに関する基礎知識がなく、そもそも理解の段階に至らなかったという点が考えられる。これは大島が日本社会に身をおいていたがゆえに気付かなかった盲点であると言える。『御法度』にはビートたけし崔洋一、2人の映画監督が俳優として出演しており、2人に撮影現場でのサポート役を託していたとされる。

2000年紫綬褒章を受章。2001年6月フランス芸術文化勲章(オフィシエ)を受章。その後再び病状が悪化し、リハビリ生活に専念している。

2006年に映画の著作権問題を問う映画『映画監督って何だ!』に登場し、エンディングシーンで強烈な存在感を示した。また同年2月26日この作品披露会見を兼ねた日本映画監督協会の創立70周年祝賀パーティーにも歴代理事長として壇上に上がる。公の場に姿を現すのは実に4年8ヶ月ぶりであった。

2008年夏、『テレメンタリー パーちゃんと見つけた宝もの〜大島渚・小山明子の絆〜』(テレビ朝日7月28日放映)、『田原総一朗ドキュメンタリースペシャル「忘れても、いっしょ…」』(テレビ朝日、8月17日放映)にて、聖テレジア病院(神奈川県鎌倉市)で言語障害・右半身麻痺を克服すべくリハビリに励む姿がオンエアされた。

人物

俳優を見る目

監督・演出家としての才能だけではなく、演技者の素質を見抜く才能は希有なものがあった。当時お笑い芸人としてしか認知されていなかったビートたけしを「彼以外には考えられない」として『戦場のメリークリスマス』の重要な役に抜擢し、桜井啓子(『無理心中日本の夏』、映画出演前はフーテン族だった)、荒木一郎(『日本春歌考』)、ザ・フォーク・クルセダーズ(『帰ってきたヨッパライ』)、横尾忠則(『新宿泥棒日記』)、栗田ひろみ(『夏の妹』、本作が映画デビュー作で主演)、坂本龍一(『戦場のメリークリスマス』)など、俳優を本業としない人物や素人に近い新人俳優を多く抜擢し、作品においても彼らの生のままの素材を活かすことに成功している。また、1950年代後半から人気ファッションモデルとして活躍していた芳村真理に女優への転向を促したのも大島であった。

激情家

激情型の性格で、韓国の文化人との対談において相手方に対し暴言(「ばかやろう」発言)を吐き問題を起こしたことがある。

大島が結婚30周年パーティーを開いた際、壇上で祝辞を述べる予定だった作家の野坂昭如の名前を読み上げるのを忘れ、酩酊していた野坂に殴られた。このときは、持っていたマイクで殴り返す奮迅ぶりを示した[1](のちに互いに反省文を書き送り合った)。

発言

  • 学生運動の経験もあり、安保反対・米軍撤退を主張しているが、既成の左翼の権力主義的な行動を激しく論難し続けた。学生時代は防衛大学校校長を務めたことがある猪木正道に師事していた。
  • 『朝まで生テレビ』の討論で、パネリストの国会議員に「批判しているだけ」と指摘され、「僕がテレビで話すことは社会的に価値のある活動だと思っている」と言い返したが、スタジオの観客からは笑われた。
  • 西山事件については以下のように述べている。「言論の自由というような抽象的な問題に立戻ってはいけない。佐藤首相の人間的反応にふりまわされてはいけない。問題は、あくまで佐藤内閣が私たちに何をしたかだ。知る権利などというのは自明のことだ。極秘資料のスッパ抜きに次ぐスッパ抜きを!今こそ日本中を、スッパ抜きした極秘資料でもってあふれかえさせること。(以下略)」(1971年4月14日付毎日新聞夕刊)
  • 「坂本君、僕ら日本の映画監督の年収ってどれくらいか想像出来る?400万円しか貰ってないんだよね。これってサラリーマンの半分なんだよ(笑)」。「戦場のメリークリスマス」(1983年公開)撮影前に出演者の坂本龍一NHKラジオサウンドストリート」にゲスト出演した時、自虐的に語る。
  • 「大体、日本のキリスト教徒なんてのは、欧米のキリスト教徒とは違うんだよね。しょせんは日本人なんだから、やっぱ日本的な、仏教的なキリスト教徒になってしまう」。「朝生」の出演で。
  • 「日本の右翼は卑怯だ。海外メディアには話すくせに、日本のメディアには口を開かない」。「朝生」の出演で。

その他の逸話

  • デビュー作の『愛と希望の街』は本人は当初『鳩を売る少年』という題名で企画を出したが、幹部から題名が暗くて地味だと抗議され、妥協案として落差を表した『愛と悲しみの街』という案を出したが、本人の知らないうちに『愛と希望の街』という題名に変えられてしまったという。

家族

監督・演出作品

映画

テレビ

脚本作品

映画

テレビ

主な著書

  • 『日本の夜と霧』(作品集) 現代思潮社(1961)
  • 『戦後映画・破壊と創造』 三一書房(1963)
  • 『日本の夜と霧』(作品集、増補版) 現代思潮社(1966)
  • 『魔と残酷の発想』 芳賀書店(1966)
  • 『絞死刑』(作品集)至誠堂(1968)
  • 『解体と噴出』(評論集) 芳賀書店(1970)
  • 『青春 : 闇を犯しつづける葬儀人に一切の権力を!』 大光社(1970)
  • 『わが日本精神改造計画 : 異郷からの発作的レポート』 産報(1972)
  • 『青春について』 読売新聞社(1975)
  • 『体験的戦後映像論』 朝日新聞社(1975)
  • 『同時代作家の発見』 三一書房(1978)
  • 『愛の亡霊』 三一書房(1978)
  • 『日曜の午後の悲しみ』 PHP研究所(1979)
  • 『愛のコリーダ』 三一書房(1979)
  • 『女はみずうみ男は舟』 PHP研究所(1980)
  • 『マイ・コレクション』 PHP研究所(1981)
  • 『戦場のメリークリスマス』 思索社(1983)
  • 『理屈はいいこういう人間が愚かなんだ』 青春出版社(1993)
  • 『大島渚 1960』 青土社(1993)
    • 『大島渚 1960』 「人間の記録」日本図書センター(2001)
  • 『自分も恋も大切に : 女の愛と仕事の相談事典』 マゼラン出版(1993)
  • 『女たち、もっと素敵に』 三笠書房(1994)
  • 『戦後50年映画100年』 風媒社(1995)
  • 『私が怒るわけ』 東京新聞出版局(1997)
  • 『ぼくの流儀』 淡交社(1999)
  • 『脳出血で倒れて「新しい自分」と出会う』青春出版社(2000.9)
  • 『癒されゆく日々』 日本放送出版協会(2000)
  • 『大島渚 1968』 青土社 (2004) 
  • 『大島渚著作集 全4巻』 現代思潮新社 (2009) 

主な出演テレビ番組

脚注

  1. ^ 勝田友己によるインタビュー、山田洋次「時代を駆ける:山田洋次:YOJI YAMADA (4)」 『毎日新聞』 2010年1月25日、13版、5面。
  2. ^ 大島の著書『日曜の午後の悲しみ』(1979年、113頁)や『大島渚著作集 ー第一巻わが怒り、わが悲しみ』(2008年、8頁)では「母が病身でお産が危ぶまれ、大事をとって、母の兄がインターンをしていた京大病院で生まれた」と書いている。『大島渚 1960』(2001年、8頁)では「一歳の時、兵庫県明石近くの二見というところに、いちばん最初にいた。(中略)そのあと、広島県の大長、岡山県笠岡のはずれと、海辺の田舎を転々とするわけですが、(中略)笠岡で父親が亡くなって、母の実家の京都に住むようになった」と書いている。
  3. ^ 『あの日あの時母の顔―私の母語り』 小学館 1996年 140、141頁
  4. ^ 大島の著書『日曜の午後の悲しみ』(1979年、104、113頁)や『大島渚著作集 ー第一巻わが怒り、わが悲しみ』(2008年、8頁)に記述があり、『大島渚著作集』では「父親は一介の農林省の官吏で死んだ」と記述している。
  5. ^ 白土三平の原作の原画を写真に撮影し、それを映画フィルムで連続して撮影したもの。いわゆるアニメではない。

関連項目

外部リンク