コンテンツにスキップ

ムハンマド・ナギーブ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。泉州大夫惟宗朝臣 (会話 | 投稿記録) による 2011年2月20日 (日) 14:17個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎経歴)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

ムハンマド・ナギーブ
محمد نجيب


任期 1953年6月18日1954年11月14日

エジプト共和国の旗 エジプト共和国
第3代 首相
任期 1954年3月8日1954年4月18日
元首 ムハンマド・ナギーブ大統領(兼任)

エジプト共和国の旗 エジプト共和国
初代 首相
任期 1953年6月18日1954年2月25日
元首 ムハンマド・ナギーブ大統領(兼任)

エジプトの旗 エジプト王国
第34代 首相
任期 1952年9月17日1953年6月18日
元首 国王フアード2世

出生 1901年2月20日
アングロ=エジプト・スーダンハルツーム
死去 (1984-08-29) 1984年8月29日(83歳没)
エジプトの旗 エジプトカイロ

ムハンマド・ナギーブ(محمد نجيب, Muhammad Naguib, 1901年2月20日 - 1984年8月29日)は、エジプト軍人政治家1952年クーデターエジプト王国第34代首相となり、翌年の共和政移行によって初代エジプト共和国大統領に就任した。

姓については、正則アラビア語(フスハー)でナジーブと発音するのが正しいが、エジプト方言の発音方式に従ってナギーブと称される。また日本では、ナギブと呼ばれることもある。

経歴

自由将校団

1901年イギリスエジプトの共同統治下にあったスーダン(アングロ=エジプト・スーダン)において、エジプト軍のスーダン駐在員ユーセフ・ナギーブの息子として生まれた。幼少期をハルツームで過ごしたが、1916年に父親が死去したのに伴い、エジプトの首都カイロに移住した。

青年期は翻訳家を目指して語学に精を出したが、政治学法学に転向後、エジプト軍に入隊。沿岸警備隊への配属などを経て、1949年に軍内部の秘密組織自由将校団へ加入した。この組織は親英路線を採っていたエジプト王国政府の打倒を目的に、1948年ガマール・アブドゥル=ナーセルを中心とした青年将校によって結成された集団である。第一次中東戦争における活躍によって国民の尊敬を集めていたナギーブは、ナーセルらの薦めもあって同団の団長となった。

エジプト革命とその後

自由将校団は1952年クーデターを起こして国王ファールーク1世を亡命に追い込んだ。新王にはファールーク1世の子で、生後わずか半年のフアード2世が即位し、自由将校団団長のナギーブが首相に就任して権力を掌握した。1953年6月18日、国王フアード2世が廃位されてエジプトは共和政に移行し、ナギーブは首相職を兼任したまま初代大統領に就任した。

しかし新政府の実権は、自由将校団を実質的に率いてきた若き急進派ナーセルに握られており、穏健な年長者ナギーブとナーセルの対立が際立つようになった。1954年、ナギーブはナーセルに首相職を譲る。だがその後、穏健派イスラム組織ムスリム同胞団と結託してナーセルの暗殺を謀ったとされ、同年11月14日、大統領を解任された。

失脚後のナギーブはナーセル政権によって首都カイロ郊外の邸宅に軟禁されたが、アンワル・アッ=サーダート政権下の1972年に軟禁を解かれた。1984年に死去し、ホスニー・ムバーラク大統領によって軍葬に付された。

人物

語学を志していたこともあり、英語ドイツ語フランス語イタリア語に通じた。またエジプト革命後からは、敵国イスラエルの情報を正確に理解するため、ヘブライ語の学習も始めている。尊敬する人物はムスタファ・ケマルナポレオン・ボナパルトサアド・ザグルールだった。

先代
設置
エジプト共和国の旗 エジプト共和国大統領
1953年 - 1954年
次代
ガマール・アブドゥル=ナーセル
先代
ガマール・アブドゥル=ナーセル
(第1次)
エジプト共和国の旗 エジプト共和国首相
1954年
次代
ガマール・アブドゥル=ナーセル
(第2次)
先代
設置
エジプト共和国の旗 エジプト共和国首相
1953年 - 1954年
次代
ガマール・アブドゥル=ナーセル
(第1次)
先代
Ali Mahir Pasha
(第4次)
エジプトの旗 エジプト王国首相
1952年 - 1953年
次代
廃止