コンテンツにスキップ

栗原貞子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。121.107.136.150 (会話) による 2011年4月23日 (土) 02:35個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎著書)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

栗原 貞子(くりはら さだこ、1913年3月4日 - 2005年3月6日)は、『生ましめんかな』で知られる日本詩人峠三吉などの原爆詩人の一人。広島県広島市生まれ。

可部高等女学校(現広島県立可部高等学校)在学中の17歳から、短歌を中心に創作活動を始めた。1945年8月6日に爆心地の4キロ北の自宅で被爆。戦後は夫の栗原唯一とともに執筆活動を行い、反戦平和を訴え続けていた。1990年第3回谷本清平和賞受賞。

2005年3月6日老衰のため広島市内の自宅で死去した。享年92。

その意志を継いで護憲の活動をしている栗原真理子は長女。

天皇制について

反戦、反核、反差別、反天皇制の持ち主である。昭和天皇の戦争責任を言及しており、『戦前・戦中派にとって天皇絶対主義の恐怖は母斑のように肉体にしみついている。天皇制は日本人にとっての原罪である。』と述べている。

『生ましめんかな』

この詩は原子爆弾が投下された夜、地下壕に避難していた被爆者の1人が突然産気づき、赤子を取り出す為に同じ地下壕内に避難していた1人の産婆が、自らの怪我を省みずに無事赤子を取り上げるが、それと引き換えに命を落としたという内容である。この詩の内容は架空の物語ではなく、広島市千田町の郵便局地下壕で実際に起った出来事を聞いた栗原が、脚色を加えて作った詩である(事実では産婆は生き残り、後に取上げた子供と再会している)。消えていく命と生まれ出る命を対比的に表現し、原爆を主題とした詩の中で、原爆の悲劇と人間のたくましさ、未来への希望を表現した名作との評価は高く、原爆詩の代表作の1つとされている。現在詩の舞台となった日本郵政株式会社中国支社の敷地内にある『郵政関係職員慰霊碑』と共に『生ましめんかな』の歌碑が建てられている。

著書

  • 私は広島を証言する 詩集 詩集刊行の会 1967
  • ヒロシマ24年 どきゅめんと 現代の救済 社会新報 1970 (新報新書)
  • ヒロシマの原風景を抱いて 未來社 1975
  • ヒロシマというとき 三一書房 1976
  • 核・天皇・被爆者 三一書房 1978
  • 未来はここから始まる ヒロシマ詩集 詩集刊行の会 1979
  • 核時代に生きる ヒロシマ・死の中の生 三一書房 1982
  • 核時代の童話 反核詩集 詩集刊行の会 1982
  • 黒い卵 占領下検閲と反戦・原爆詩歌集 完全版 人文書院 1983
  • 栗原貞子詩集 吉田欣一編 土曜美術社 1984 (日本現代詩文庫)
  • ヒロシマ 詩と画で語りつぐ反核詩画集 吉野誠画 詩集刊行の会 1985
  • 青い光が閃くその前に 反核詩画集 吉野誠画 詩集刊行の会 1986
  • 問われるヒロシマ 三一書房 1992
  • 栗原貞子全詩篇 土曜美術社出版販売 2005

外部リンク

『生ましめんかな』詩文http://home.hiroshima-u.ac.jp/bngkkn/database/KURIHARA/umashimenkana.html